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推しが炎上したオタクが『推し、燃ゆ』を読んだ

芥川賞に選ばれた宇佐見りん先生の『推し、燃ゆ』を読んだ。

色々思うところがあったので推しのことも混じえつつ、noteを書いてみる。


※ネタバレを含むため、未読のかたはご注意ください
※読後のノリと勢いで書いたため読みづらい箇所があるかもしれません、ごめんなさい



昨年12月14日、わたしの推しは炎上した。

つい1か月前、12月に公演予定だった舞台の共演者の俳優さんの訃報がSNSで知らされ、その10時間後に、遅いバースデーイベントで笑顔で「僕は元気だけが取り柄なので、これならも一生懸命生きていきます」と言ってくれたばかりだった。

大好きだった共演者が突然亡くなり、どれだけつらく悲しかっただろう、と今でも思う。
それでも絶対わたしたちの前では笑ってくれるんだろう、笑わせたくない、つらい気持ちとしっかり向き合えるようにしてほしい、でも、会いたい。

そんな思いで参加したイベントで、「このコロナ禍でみんなに会えなくてすごくつらかった」と話してくれて、わたしたちも同じ気持ちだよ……と泣きそうになった。


わたしはステージ上の彼しか知らないし、イベントで喋ったとしても、それは「ファンに見せる彼」であって、本物の彼ではない。

だから、もしかしたらわたしたちに言ってることは全部ウソなのかもしれない。

でも、わたしはステージ上の彼しか知らないので、ステージの上で見せてくれる彼が本物の彼。

だから、記事を読んだ時、見出しも中身も、推しを痛めつけるためだけに、世間に推しを非難させるために書かれた言葉で、すごく気分が悪くなった。


TLも彼に対するマイナスな感情が含まれた発言が多く、作中で<>で書かれたコメントをみて、そのときのことをまざまざと思い出した。

読む度にぐっと胸が重たくなる感覚、目眩がする感じ、ひとつずつ気分が下がっていく。

読みたくないのに、目に入ってきてしまう。

作中の文章で、つい泣いてしまったのはここだった。

ファンミーティングの質問コーナーでの返答は大方予測がつくほどになった。裸眼だと顔がまるで見えない遠い舞台上でも、登場時の空気感だけで推しとわかる。
(省略)
我を忘れることはないし、できない。他人とは一定の距離をとると公言する推しが、どれほど気に触ることを言われたところで、ファンを殴るとは思えなかった。

ああ、分かる。分かる。
ここを読んだ時に頭に浮かんだのはまずそれだった。

真幸くんとわたしの推しが重なったのではなく、わたしとあかりがそのときすごく重なった。

ずっとずっと見ていれば、「分かる」んだよね。

わたしはステージ上の彼しか知らないので、本物の彼ではないかもしれないけど、少なくともわたしたちに見せてくれている彼のことであれば、ずっと見ていれば、「分かる」。

何を考えているか、いまどういう気持ちなのか、その言葉の真意、それが嘘か本当か、そこが居心地いいのか悪いのか、そのくらいは分かる。

だから、作中のこの場面で、これはわたしのためのお話だ、と強く思った。
そして何よりもそれを読者に感じさせる宇佐見先生のリアルな文章に息を巻いた。天才か?


作品はこのままあかりがいわゆる「堕ちていく」ことになるけど、推しを失ったことでなんとか彼女がやってこれていた「生きること」ができなくなっていくことを表現していてめちゃくちゃすごい。
わたし自身はさすがにここまでにはならなかったけど、1週間くらいは無心で仕事をしていないとじわりじわりと悲しい気持ちになったりした。

頭が仕事以外になるとすぐ、推しのことを考えてしまう。
ちゃんとご飯食べれているかな。実家にいるのかな。悲しい気持ちになっていないかな。手紙読んでくれたかな(記事が公開された当日の夜、便箋12枚の手紙を書いて翌日すぐ事務所に送りました)。味方はいることを分かってくれたかな。誰かに支えてもらっているかな。彼女に謝罪できているかな。

30秒もあれば、大体このくらいのことが頭に浮かぶ。

そして段々、「しばらく会えないんだな」と思うと苦しく悲しくなっていった。

早く直接「ずっと応援してるよ」って言いたい。
イベントで顔を見合わせて、「この子は残ってくれたんだ」と思って欲しい。

そういう毎日を過してはじめて、「無意識で推しのことを考えていたんだな」と気付いた。

常に推しのことが頭のどこかにあるから、ちょっと頭に余裕が出ただけで推しが思い浮かぶ。

ラストシーンのここは、それをすごく綺麗に表現してるなあと思う。

あたしにはいつだって推しの影が重なっていて、2人分の体温や呼吸や衝動を感じていたのだと思った。

推しが嬉しいとわたしも嬉しい
推しが喜ぶとわたしも喜ぶ
推しが悲しいとわたしもかなしい
推しが悔しいとわたしも悔しい
推しが泣くとわたしも泣く
推しがわらうとわたしもわらう

そういうのが、わたしたちにとっては「当たり前」。

わたしは友達に「推しがいない今だからこそできる推し方がある」と教えてもらい、やっと「推しがいないこと」に向き合え、前向きに捉えられるようになったのでそこからは悲しくなる時間も少しずつ減っていったけど、1ヶ月に数回は「今なにしてるかな」とは考える。
円盤を再生して、録画を見て、動いている彼を見て、大好きだなあとあらためて思ったりする。

作中の投票で、真幸くんに1万票集まってよかった。
1人何口も出しているだろうけど、CDが13627枚分が彼に集められた、1枚1200円だとして(最近だと1320円ですか?)(CD情勢わからない) 1635万2400円分が、彼のために動いたんだ、っていう事実がすごい素敵だなって思ったし、推しもそうであってほしいなと思った。目に見えないだけで、きっと同じように応援し続ける人達はたくさんいるんだ、と希望を持たせてもらった。

まあそれなのに引退を選んだ真幸くんにはちょっとイラついたけど……アイドル始めたならもっと貫けよって思ったけど……。

ただ、「推しは永遠じゃない」と説かれているのかなと。
推しは人であり、人には意思があり、老いて、限りのあるものなので、「一生」はないのだと訴えているのかなと。

人間である以上いつか終わりは来るもの。
それが引退なのか、死なのかはわからないけど、私たちは「終わり」を意識して推していかねばならない。

推しがある日突然引退したり、亡くなったりすれば、もう、わたしたちと推しの関係性は切れてしまう。

だからこそ「推しは推せるときに推せ」なんていう名言が生まれるわけで。
いつ推せなくなるかなんてわかんないんですよ。そもそも自分が明日死ぬかもしれないし

このコロナ禍でみんなこれを強く感じたとは思うけど、「まあ来年あるし…」と思いがち。でもないから。来年。わたしはその「来年」がなかったから。

あかりはそこがきちんと分類できていなかったのかなと。最後に推しは人になった、と言っているし。


ここからは推しのことは抜きにして、最終的な作品の感想。

『推し、燃ゆ』は作品全体を通して「推しを推すオタクの悪い例」を描いていたと思う。
さすがに中退したらだめだろうて。「普通」ができない主人公が故に、そうなってしまったのだろうけど。

あと、お父さんが女性声優にリプをしていた、という場面、あかりはかなり滑稽に感じていたけどあなたも周りからはそう思われている、という比喩のような気がした。

結局「推し」の世界ってめちゃくちゃ狭いので、
推しという象徴があって、そのまわりをおたくたちが取り囲んでいる、という図なのでとにかく視野が狭い。
自分がどこかのおたくをバカにする一方で、そもそもどんぐりの背比べでしかない。一般人からしたらどっちも愚かで笑える。どっちが優秀だろうと、「おたく」という括りでしかない。

それが見えておらず父親を小馬鹿にするあかりは、まだまだ子どもだなあと。17歳?とかだから当たり前だけども


あと、ラストシーンがすごくよかった。

綿棒を投げつけて拾うシーン。

綿棒をひろった。
膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。(省略)
這いつくばりながら、これがあたしの生きる道だと姿勢だと思う。
二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。

めちゃくちゃ良い……………
言葉の選び方が、並べ方がとにかくすごい。自分と推しとの決別をすごく美しく描いていて、それでいて自分の「普通になれない」という生き方を諦めるように受け入れる終わり方。

四足歩行だけど、それが彼女にとって生きやすい生き方なら四足歩行でいいんだ。

でもきっといつかおにぎりも拾えるようになるし、空のペットボトルは飲みきったらゴミ箱に入れるようになると思う。

そうやっていつか、本当にいつか、二足歩行で歩けるようになると思う。
背骨がなくても立てると思う。

そういう感じの終わり方でめちゃくちゃよかった。


宇佐見りん先生、素敵なお話をありがとうございました。宇佐見りん先生と、先生の推しがこれからも健やかに幸せであることを祈っております。

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