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勇気なんて出さないでくれ

 時々、耳を塞ぐ。冷え切った手で両耳を覆えば、ごごごごご、と血潮が忙しなく走る音がする。海底から全てを攫う津波のような音。あぁ、彼は此れを海の音だと言ったのか。この轟を生きる音だと。「ざああ」と形容したのか。故郷の海とはまるで違う潮鳴りに、彼との距離は永遠に遠いのだと思い知らされる。結局私は、彼を知った気になっているだけなのだ。誰とも結びつかず寂寞した彼の過去を、遠くから追想することしかできない。かなしくて、ばからしい。
 呂色に染まる瀬戸の海は月明かりに照らされて眼下で静かに揺らめいている。救いを受けようとしない間は、救いに拐われることはないらしい。耳からゆっくりと温まった掌を離せば、さああ、と細波が微かな息を立てた。この孤独は一生続くのだ。すうっと夜の緞帳があがってゆく。痺れるような絶望の中で、ひっそりと目を閉じた。

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