なぜ君は其処へ行こうと思ったのか?

良く解らない遊びの原点、思い出した。
恐らく、小4の頃。土曜の午後と思われる。親に何度か連れていかれた、山の中腹にあるキャンプ場に、自転車で一人お出掛けした。兄のお下がりだった通学用・変速機無しのくたびれた相棒と、片道20㎞程の道程を地図も持たずにひた走る子供。季節は秋。紅葉の景色を楽しみながら、記憶だけを頼りに山道を走る自転車。
地元の人が見かけても、近所の子供としか思わない軽装備。水分補給どうしてたのか?小銭くらいは持っていたのか?そもそも、なんでキャンプ場?
今となっては知る由も無い。栗くらい拾って帰ったのかな?帰宅が遅くなった記憶が無いことから、現地での滞在時間は30分程?何を以て満足し、帰路に着いたのか?子供の考える事は良く解らない。

この話には続きがある。
中学の時にもGo to キャンプ場サイクリングを開催していたのだ。しかも、この時は同行者がいた。さらに、山の頂上にまで登っていたのだ。
一体誰と?この記憶が無いことから、私にしか見えない誰かとしておきたい。身に覚えがある人は名乗り出ると言う暴挙に出ること無く、そっと記憶を封印して欲しい。
子供のする事なので、寛容な心で見逃して欲しい。

何故行こうと思ったのかを思い出した。
「行けると思ったから」だ。一見、無謀と思えるチャレンジも、勝算有ってやる。心配性な子がする挑戦、既に出来ると言う確証がある。そういう子供だった。
他の子が失敗するのを「なんで出来ないの?」と思う。やってもいないのに「自分は出来る」と思う根拠。「考えてから実行する」ことの積み重ねは、根拠のある自信になっていた。
周りから「何でも出来る子。最初から出来る子」と思われていた私。本人も「出来て当たり前」と思っている。心配性な子が、そのメンタルを持つに至るには、必要な遊びだったんだ。本人ですら理解して無かった努力?楽しかったんだから、やはり「遊び」だ。成功体験は、人を成長させる。
「失敗を恐れるな。とにかく挑戦してみろ」
良く聞く言葉。失敗に寛容だ。失敗の責任を取るつもりが無い。取らなくて良い立場からの言葉だ。そんなものに騙されるな。偶然の成功は寧ろ危険と知れ。
「失敗を恐れよ。成功出来ると思えるまで考え抜け。挑戦するのはそれからだ」
私の言葉。完璧主義は伊達じゃない。小学生の自分に、改めて教えられた。

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