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読了まで約15分。冒頭の12,000字大公開!【試し読み】碧野圭さん ブックデザイナー小説『レイアウトは期日までに』

「詰んだ」
 赤池めぐみは、思わずそうつぶやいた。自宅アパートのドアスコープから見えるのは、初老の女性、めぐみのアパートの大家だった。大家はめぐみの部屋の下に住んでいる。
「赤池さん、いらっしゃるんでしょう? 外まで聞こえましたよ。開けてください」
 そこまで言われると、ごまかしようがない。めぐみは溜め息をひとつ吐くと、ゆっくりドアを開けた。
「お邪魔しますよ」
 大家は玄関のたたきに立った。かろうじて人ひとり立てるくらいの狭い玄関だ。
 大家が二階のアパートに来たのは初めてだった。同じ敷地に住んでいても店子とは別の私道から出入りしているし、家賃は銀行振込みだ。アパートの住人は滅多に大家と顔を合わせることはない。
「こんばんは」
 こんな時にどう挨拶すればいいのかわからず、めぐみはありきたりの挨拶をした。
 大家は何も言わず、めぐみの足元を見る。その視線の先には、白と茶色の毛をまとった雑種の犬がいる。犬はきょとんとした顔で大家を見ている。
「やっぱり、犬がいたんですね。さっきの鳴き声で、確信しましたよ」
「あの、これは……」
 なんとかごまかそうとするが、咄嗟に言い訳の言葉が出てこない。確かに、胡桃の声は大きかった。階下に住む大家の耳にも、当然届いただろう。
 胡桃、つまりめぐみの愛犬は、室内では吠えたことがなかった。暴れることもない。柴犬より一回り大きな身体を縮こめるようにして、日がな六畳間のフローリングの床に寝そべって過ごす。だから、安心していたのだ。
 なのに、さっきは大きな声で吠えてしまった。
 いや、胡桃が悪いのではない。めぐみがうっかりコップを落としてしまい、中に入っていた珈琲を胡桃の背中にぶちまけてしまったから、びっくりしたのだ。
 ワンワンワン、ワンワンワン。
 あの声は大きすぎた。夜七時を過ぎた静かな住宅街に響き渡ったはずだ。
「一時的なものかと思って黙っていたんですけど、さすがにもう三ヶ月にもなりますからね。うちとしても、さすがに黙ってはいられませんからね」
 しまった。最初に犬を連れて来た頃から、ばれていたのか。
「いえ、ほんとに一時的なものなんです。三ヶ月前、公園で犬をみつけて、すぐに交番に届けました。人馴れしているから迷子になっただけで、すぐに飼い主がみつかるだろうと思ったんです。でも、それまで交番に置いとくわけにはいかないから、しばらく預かってくれって頼まれて、それで」
「それで、結局飼い主が現れなかったんですね」
「ええ、まあ」
 三ヶ月経っても犬の飼い主は名乗り出ない。交番からは保健所に届けると言われたのだが、それでは可哀そうだと思い、そのままめぐみが引き取ることにしたのだ。
「だけど、誰か飼ってくれる人を探しているんです。ネット掲示板にも出していますし、近いうちにきっと」
「犬の貰い手ねえ。血統書付きの小型犬ならともかく、そんな大きくてしかも雑種でしょう? 引き取り手がいるんですかねえ」
 大家はうさんくさそうな目で胡桃を見る。確かに、胡桃は譲渡会で注目を集めるような犬ではない。
「いい仔ですし、時間を掛ければきっと」
「そう言って、ずるずる置いとかれるのは困るんですよ。うちはペット禁止のアパートだし」
「でも、すごくおとなしい仔なんです。家ではまったく吠えませんし、いたずらも全然しない。おしっこやうんちも家でしないから、匂いもこもらないし」
 無駄だとわかっても、めぐみは懸命に弁明を試みる。
「そうは言っても、さっきは吠えたじゃないですか。それに、犬そのものが臭い。匂いが染みついたらなかなか取れないし、次に貸すのにも困る。アレルギーのある人もいるし。うちは慈善事業で部屋を貸してる訳じゃないんですよ」
「それはそうですけど……」
「うちはペット禁止です。すぐに犬を処分するか、ここを出るか、どちらかにしてください」
 それを聞くと、それまで静かにしていた胡桃が急に体勢を低くして、「うー」と威嚇するような声を出した。眉間と口元に皺が寄っている。敵と認めた相手にする態度だ。
「ワン、ワン」
 大家に向かって、大声で吠えた。
「ほら、こんなにうるさくして」
「いえ、普段はそうじゃないんです。胡桃、静かにして」
 いつもは素直にめぐみの言うことを聞く仔が、ワンワンと大声で吠えたてる。その剣幕にひるんだのか、大家は一歩、後ろに下がり、ドアの陰から上半身だけ部屋をのぞき込むようにして言う。
「ほんと、近所迷惑ですよ。それにこんな大きな犬じゃ、狭い六畳一間のアパートで飼うのは無理。犬も閉じ込められて可哀そう。手放した方が犬のためじゃないですか?」
 痛いところを突かれた。
 もっと広い家で暮らす方が犬のため。
 だが、それを聞いて、さらに胡桃の吠える声は激しくなる。
「とにかく、犬を処分するか、できなければ今月中に出て行ってください」
 捨て台詞を吐き捨てるように言うと、大家はドアを閉め、足早に去って行った。いまいましそうに鉄の外階段を下りる足音が響いていた。
 どうしたらいいんだろう。
 もう、泣きそう。よりによって、こんな時に。
 卒業以来契約社員として勤めていた会社の契約をつい先月、打ち切られたばかりだった。条件は決してよくはなかったが、デザインを仕事にすることができた。周りの人たちにも恵まれ、楽しく仕事をしていた。自分も役に立っていると思っていた。それなのに二ヶ月前、前触れもなく、契約終了を告げられた。
 それだけでも大変なショックだったのに、このうえアパートまで追い出されるのか。
 めぐみはベッドに倒れ込むと、両手で顔を覆った。
 なんでこんなことばかり起こるのだろう。
 ほんとに、どうしたらいいんだろう? どうしてこんな目に遭うのだろう? 真面目に、地道に生きて来たのに。今年は星回りが悪いのだろうか。それとも厄年だっけ? いや、女性は確か三三歳だから、まだ六年先のはず。
 その時、何かがめぐみの手に触れた。湿った温かいものが、めぐみの手に触れた。
 くすぐったいような感触。胡桃の舌だ。
 胡桃はベッドの端に前脚を掛け、のしかかるようにしてめぐみの手を舐めている。
 めぐみが顔から手を外すと、待っていたように今度は頰や口元を舐めようとする。くすぐったさに思わず声を立てて笑うと、めぐみは身体を起こした。
「わかった、わかった、心配しないで」
 胡桃はめぐみの顔をじっと見る。ほんとに大丈夫なの、と問うように。
 人間なら躊躇するくらいまっすぐな、迷いのない視線をこちらに向けている。柴犬を思わせる白と茶色の短い毛、洋犬のような長い脚とバナナ型にカーブを描く尻尾。雑種ではあるが、目が大きく、鼻から口のラインもすっきりして、なかなかの美犬だと思う。
「大丈夫、大丈夫、なんとかなるって」
 自分に言い聞かせるように気休めを口にしながら、胡桃の背中を優しく撫でる。
 そうだ、会社に契約終了を告げられた時も、こんな風に慰めてくれたっけ。
「心配しないで。私がなんとかするから」
 ほんとう?と問うように、胡桃は首を傾げる。まるで人間のようなその態度に、めぐみの気持ちは和む。
「大丈夫、胡桃をひとりにはしないよ」
 そうしてめぐみはぎゅっと胡桃を抱きしめる。柴犬の血なのか、日頃は人に抱かれるのを好まない胡桃だが、いまはじっと抱かれるままになっている。腕や胸にそのぬくもりがじわりと伝わってくる。
「いい仔だね、胡桃は」
 こんなかわいい仔を、どうして捨てることができるだろう。たかが犬なんて、どうして言えるのだろう。こんなに愛しい存在なのに。
 だけど、失業に宿無し。
 学生時代に借りていた奨学金を返していたから、契約社員の安月給では貯金はとてもできなかった。新しくどこかを借りるとなると、敷金礼金などまとまったお金がいる。引っ越し費用もただじゃない。そのお金をどこで調達すればいいのだろう、と困惑するばかりだ。
 就活もまだ始めたばかりで、履歴書を送っては返されることが繰り返されていた。
 どうしたらいいんだろう。やっぱり親にお金を借りるしかないのかな。でも、理由を言ったら、親は心配するだろう。まだ失業したことさえ告げていない。心配性の両親は、田舎に帰ってこいって言うかもしれない。それは絶対に嫌だ。
 だけど、仕事も決まってないのに、誰かお金を貸してくれるだろうか。
 スマホが音を立てた。LINEの電話だ。人と話したくないと思ったけど、発信者の名前を見て気が変わった。学生時代からの親友、山崎倫果だ。
 美大の同級生だったが、いまは小さな広告代理店にいる。デザインだけじゃなく、営業やコピーライター的なことまでやらされている。だが、前向きな性格なので、これも勉強だと割り切って忙しい毎日をいきいきと過ごしている。失業してからも連絡を取り、いろいろアドバイスを貰ったりしていた。
 いつもメッセージばかりで滅多に電話は掛けてこないのに珍しい。
 仕事中の時間なのに、何か急用でもあるのだろうか。
『もしもし、めぐ?』
 倫果の声の後ろから、ざわめきと電車の音らしきものが聞こえる。外出先から電話しているのだろう。
「どうしたの、電話なんて」
『急ぎだったから。あ、いま仕事で移動中なの。時間がないから用件だけ言うね。SNSに桐生青の事務所が求人広告出してたよ。めぐ、桐生青のこと、好きだったじゃない? チャンスだから応募してみれば? アカウントは桐生青本人の名前になっている。あ、ごめん、電車来ちゃった。電話切るね』
 用件だけまくしたてると、倫果は唐突に電話を切った。いかにも、せっかちな倫果らしい行動だ。
「桐生青か」
 しばらく忘れていたが、なつかしい名前だ。
 桐生青は気鋭の装丁家として、業界では有名な存在だ。業界の片隅で細々雑誌のデザインをしていためぐみからすれば雲の上の人だが、同い年だという事で親近感を持っていた。装丁の世界でもやはり男性の活躍が目立つ。桐生青は同世代の女性デザイナーの星なのだ。
 めぐみの本棚にも、桐生青がデザインした本はある。たとえば、本棚のいちばん端にある『海の声、鳥の涙』という本がそれだ。
 めぐみは棚からその本を取り出した。ブルーのグラデーションの上に、白い独特な書体のタイトルが浮かび上がる。業界では桐生書体とも言われる個性的な文字だ。
 まるで海の底から浮かび上がる泡のように儚く、うつくしい。ふつうのマットな紙ではなく、和紙のような独特の質感。それがデザインの陰影を深めていた。最初に書店で見た時、その美しさに見とれてしまった。知らない小説家の作品だったのに、その装丁が欲しくて買ってしまった。いまでもお気に入りの本だ。
 その隣にある『いつか、ここを去る日のために』も好きだ。表紙はつるっとしたコート紙に桜の花が細かく一面に描かれている。その上からトレーシングペーパーのカバーが掛かっていたから、霞がかった桜満開の景色を見るようで、素敵だった。ほかにもカバーは真っ黒なのに、カバー裏に廃墟の城の写真をあしらった『恋と冒瀆』とか、文字をバラバラに配置した『孤島の罠』とか、ジャケ買いして本棚にある何冊かは、桐生青の仕事だ。
 自分も桐生青みたいな装丁家になりたい。
 就職してからは目先の仕事に追われて忘れていたけど、目指したのはそこだった。
 その人と仕事できるチャンス。そんなことは滅多にない。もしかするとこれは、運命のくれたチャンスなんじゃないだろうか。
 めぐみの胸は早鐘のように脈打った。
 めぐみはSNSを開いた。桐生青で検索を掛けてみると、すぐに名前が出て来た。
 桐生青 ブックデザイナー
 プロフィールにはそれしか書かれていない。投稿されているのもふたつだけ。
『SNS始めました』
『一緒に仕事をしてくれる人を募集します。年齢経験不問。興味ある方はメッセージ下さい』
 それだけだ。金銭面など条件は書かれていない。
 その辺は面談の時に話をする、ということなのかな。SNSに書き込むのもおかしいし。
 桐生青がそれまで所属していた田中祥平事務所から独立したことは、めぐみも知っていた。つい半年ほど前、事務所の所長だった田中祥平が亡くなり、長年田中の片腕として働いていた弟子が事務所を引き継いだ。同時に、事務所のスターであった桐生青も独立したのだ。多くのデザイナーは学校卒業後、数年はどこかの事務所や企業に所属する。そこである程度経験を積んで、技術を習得したら独立する。桐生は既に個人名が売れていたから、独立は当然の成り行きだろう。
 彼女ほどの有名人なら、独立してもすぐに仕事がたくさん来る。それで、ひとりではやっていけない、ということなのかな。同じ二七歳でも、私とは全然状況が違う。来る仕事も人気作家の装丁の仕事や広告のポスターみたいに大きな仕事ばかりなんだろうな。私なんかで戦力になるだろうか?
 いや、雇ってもらえなくても、会うだけでもいい。昔からあこがれていたデザイナーだ。会って、話がしてみたい。
 めぐみは桐生のメッセージを開き、書き込んだ。
『初めまして。お仕事募集の書き込みを見て、メッセージを送らせていただきます。私、赤池めぐみと申します。二七歳で、先月までサガワ出版で社内デザイナーをしていました。こちらに応募したいのですが、具体的にどうしたらよいでしょうか? 履歴書をお送りした方がいいでしょうか? ご教示いただければと思います。よろしくお願いします』
 何度も書き直して、文面を何度も読んでから、「よし」と送信ボタンを押した。その指は少し震えていたかもしれない。
 ああ、どうか桐生青の目にとまりますように。
 せめて面接だけでも受けられますように。
 祈るような気持ちだった。
 返事はすぐに来た。
『明日の三時に、事務所に来てください』
 えっ、これだけ?
 めぐみはすぐに返信した。
『明日、伺います。場所はどちらでしょう? 履歴書もお持ちしましょうか?』
 今度はなかなか返信は来なかった。めぐみはスマホの画面を睨んだまま、身動きもできずに待っていたが、二〇分、三〇分と時間が過ぎるばかりだ。そのうち、寝転がっていた胡桃がむくっと起き上がり、めぐみの顔を見ながら伸びを始めた。前脚を長く伸ばし、ぐっと肩を下げる。外に連れて行ってほしいという合図だ。
「待っててもしょうがないね。いつもより早いけど、散歩に行こうか」
 いままでは散歩は夜一〇時を過ぎてからにしていた。朝型の大家は、一〇時には電気を消して寝ている。犬がいることを知られないために、それから散歩に出掛けていたのだ。いまはもうバレてしまったから、まだ九時前だけど、もう関係ない。どうせ今月いっぱいで追い出されるのだし。
 散歩用のリードや排泄物を入れる袋などを用意しているところに、スマホの着信音がした。待っていた返信だ。めぐみは急いでメッセージを開いた。
「住所は、新宿区百人町〇–△–×」
 それだけだった。最寄り駅も書いてなければ、駅からの行き方も書かれていない。電話番号もない。それに、履歴書がいるかという問いにも答えがなかった。
 これは試されているのかな? これだけでちゃんと時間通りに来いってこと? スマホがあればたどり着けるとは思うけど。履歴書は一応持って行った方がいいだろうな。
 桐生青はちょっと変わっている、という業界の噂があったことを思い出した。
 打ち合わせの途中で突拍子のないことを言ったり、急に別の仕事のラフを描きだしたり。
 天才だから、発想が飛び過ぎてよくわからない。そんな風に言う人もいた。
 たぶん事務処理は苦手なんだろう。きちんとメールで返信するのも面倒がるタイプなのかもしれない。
 もし、そんな相手だとしたら、一緒に仕事するのはすごく面倒ではないだろうか。
 ふと浮かんだその想いを、めぐみは押し殺した。
 どんな相手かは、会ってから見定めればいい。無理だと思ったら、断ればいいし。
 足元の胡桃が、めぐみをうながすように「くうん」と鳴いた。
「ごめんごめん。ちょっと待っていてね」
 胡桃をなだめると、めぐみはスマホに返信を打ち込んだ。
『ご連絡ありがとうございます。では、明日一五時にこちらに伺います』
 それだけ書いて送信すると、めぐみはリードを持った。
「待たせたね。ごめんね」
 胡桃は嬉しそうに尻尾を振ると、玄関の方に向かう。めぐみは引かれるように、その後を付いて行った。

「来年度の契約は更新できなくなりました」
 つい二ヶ月前の一月の初めに上司の宇野愛子に呼び出され、めぐみはそう告げられた。美大を卒業して五年間、めぐみは社内デザイナーとして出版社で働いていた。契約社員だったが、やりがいはあった。周りはみないい人たちだったし、自分もスタッフの一員として役に立っていると思っていた。
「どうしてですか? 私の仕事、そんなにダメでしたか?」
 悲しいというより驚きが上回った。そこで泣きださなかった自分は偉かった、と後でめぐみは思った。
「そういうことじゃないの。あなたは大変よくやってくれていた。でも」
 上司であるデザイン室のリーダーの宇野は言葉を切り、ひとつ溜め息を吐いた。
「会社の経営の方の事情でね、うちの部署を閉鎖することになったの」
 めぐみが勤めていたのは、実用書系を手掛ける中堅出版社のサガワ出版だった。バブルの頃に出したグルメ雑誌がヒットし、それが会社の看板雑誌となっている。ほかにも健康雑誌やヨガの雑誌など四誌ほど手掛けている。めぐみが雇われたのはそのデザイン部門。中堅出版社にデザイン部門があるのは珍しいが、雑誌をDTPで作っているので、文字組みや直しなど、外注するより社内でやった方が安くて早い、という発想で立ち上げられたものだという。
「デザイン室が廃止ってことなんですか?」
「そういうこと。だから、あなただけじゃなく、新し ん藤ど うさんたちにも辞めてもらうことになりました」
 宇野のつらそうな態度は芝居ではない、とめぐみは思う。顔面が引きつって、泣きそうな顔になっている。もともと優しい人なのだ。クビを宣告する立場というより、自分がされたような顔をしている。
「新藤さんたちも、ですか……」
 だったら、いちばん下っ端の自分も当然切られるだろう、とめぐみは思った。若いという以外は、先輩たちに勝るところはひとつもないのだから。
 スタッフは正社員の宇野以外は契約社員が三人。全員が女性だ。めぐみ以外はキャリア一〇年以上のベテラン。先輩たちにいろいろ教えてもらいながら、最初は文字の修正やデザインの直しなどのオペレーター的な仕事から始めた。それから、チラシや広告、雑誌の連載もののデザイン、特集のデザインと少しずつステップアップして、ようやく単行本のデザインもまかされるようになってきたところだった。
「うちの会社、レストラン経営もやっているのは知ってるでしょ?」
「ええ、もちろん」
 バブルの頃、グルメ雑誌を立ち上げて大ヒット、アイデアマンの社長が調子に乗って、雑誌の名前を冠したレストランを作った。雑誌の特集とメニューを連動させたり、著名なグルメ評論家に監修を依頼したことで話題を集め、レストラン業は軌道に乗った。東京、大阪、名古屋、札幌、福岡と全国に店舗を構える有名チェーンになったのだ。
 しかし、高級志向のこのレストランは、長引くデフレで徐々に売り上げを落としていった。レストラン経営が危ないらしい、という噂はめぐみも知っていた。
「そちらがどうにもうまくいかなくなって、経営から撤退することになったの。だけど、そっちの借金もあってね、本業の方も事業の縮小を余儀なくされて、それで」
 本業の出版部門の方は出版不況にもかかわらず、立て続けに実用書の大きなヒット作に恵まれていた。雑誌も堅実に売り上げを立てていた。本業だけなら、縮小する理由はない。
「契約更新しないとなると、今月いっぱいでクビですか?」
 めぐみが聞き返すと、申し訳なさそうに宇野は視線を下に向けた。それが返事だった。
「こんなに急だなんて」
 目の前が真っ暗になった。来月から、どうやって生活すればいいのだろう。
「ほんとに申し訳ないです。私も話を聞かされたのが、つい先週のことで」
 正社員でさえ知らないくらいだから、ほんとに突然決まったのだ。
 私たちの境遇なんてそんなもの。エラい人の胸三寸で、簡単に捨てられる。
 めぐみは唇を嚙み締めた。
「その、せめてもの誠意として、会社から三ヶ月分にあたる給料を支払うようにしてもらいました。その三ヶ月で、次の職場をみつけてほしい。あなたならまだ若いし、いい転職先がみつかると思う。なんなら私が心当たりに推薦状を書いてあげるわ」
 そう宇野が言ってくれるのを、めぐみは他人事のようにぼんやり聞いていた。
 次の職場なんてみつかるだろうか。
 自分はデザイナーと言っても駆け出し。文字の修正とかデザインの修正みたいな、ほかの人のフォローばかりやってきた。ポートフォリオに自分の作品として並べられるような立派な仕事は、あまり経験がない。
 それなのに、年齢はもう二七歳。
 デザイナーはセンスで勝負するから、ほんとうに優秀な人間は学生時代に仕事をスタートさせている。デザイン事務所や出版社にコネを作って、仕事を貰うのだ。
 社会に出た当初は、三〇歳までにひとかどの人物になりたい、なんて思っていたけど、現実にはまだまだ中途半端だ。自分程度の人間は、デザイナーとも呼べない。特別な才能もないし、コネがあるわけでもない。なのに、雇ってもらえるだろうか。
 その途方に暮れた気持ちは、宇野に契約終了を告げられてから、ずっと続いている。電車に乗って、桐生青との面接に向かう今この瞬間にも、自分のふがいなさに落ち込みそうになる。
 電車が揺れて隣の女性に肩が当たり「すみません」と謝る。女性はちらりとこちらを見て、何事もなかったように視線を窓の外に戻した。スーツを着て、大きなショルダーバッグを抱えているから、どこかへ仕事のために移動しているのだろう。ほかにも新入社員らしき後輩に営業をレクチャーしている年配の男性がいたり、ドアのすぐ際に立って声を潜めて電話をしているスーツの女性もいる。
 この人たちはみんな、どこかの会社に所属して、誰かに必要とされているのだろう。だけど、私はどこにも必要とされていない。この広い東京で、どこにも所属する場所がないんだ。人々の存在がまぶしくて、めぐみは思わず目を伏せた。
 これといった取り柄もないし、経験もない。そんな自分を、桐生青みたいな天才が必要としてくれるだろうか。
 出かかった溜め息を、めぐみは無理に押し殺した。
『溜め息を吐くとしあわせが逃げる』佐賀にいる祖母の口癖を思い出したのだ。
 いやいや、落ち込んではいられない。今日は面接の日だ。気持ちを奮い立たせて、強気で勝負しなきゃ。せめて明るいふりをしなきゃ。
 めぐみは口角を上げて笑う練習をした。目の前に座っていた中年女性と目が合った。訝し気にこちらをみつめる女性の視線から逃れるように、めぐみはスマホを出して、画面に視線を向けた。
 住所から検索して出て来た桐生青の事務所の最寄り駅は、意外にも新大久保だった。
 売れっ子装丁家の事務所だったら、青山とか麻布にあると思っていたのにな。
 東京の人は、住んでる場所でその人を判断しがちだ、ということを、めぐみは上京してから知った。どの街に住むかは、どんな建物に住むかより重要なのだ。特に、センスのよさを誇示したがるデザイナーは、こぞっておしゃれな街に事務所を構えたがった。たとえそこが築四〇年の古いアパートだとしても。
 新大久保にデザイン事務所があるって珍しい。同じ新宿区でも神楽坂や早稲田ならまだわかるけど。新大久保って言えば、韓国関係のお店とラブホテル街で知られている。山手線沿線だからどこに行くにも便利だけど、おしゃれな街とは違う気がする。
 そんなことを考えながら、めぐみは雑踏の中に足を踏み出した。
 新大久保駅で降りたのは二回目だった。つい三ヶ月前の会社の忘年会の会場が、新大久保の韓国料理屋だったのだ。
 会社の忘年会は嫌だっていう人もいるけど、同じ部署の人たちだけだし、みんな仲がよかったから楽しかったな。ビンゴの景品で二万円の旅行券が当たって、いい年の締めくくりだと思っていたのに。
 駅を降りたすぐの道路は、人でいっぱいだ。韓流ドラマが好きな中年女性と K-pop 好きの若者たちで賑わっている。通りには、韓国料理や軽食、韓国アイドルのグッズを売る店が並んでいる。店頭で売っているスナックを買って、その場で食べている人もいる。歩道いっぱいに広がって、楽しそうに行き来する人たちの間を縫うようにして、めぐみは脇道に入っていく。山手線の外側を高田馬場方面に歩くと、五分もしないうちに商店は途絶え、一戸建ての住宅が立ち並ぶ住宅街になる。狭い道に沿って、古い一戸建てや二階建てアパートも建っている。狭い敷地の保育園や教会やテニスコートもある。だが、閑静な住宅街というには緑が少なくごちゃごちゃと建て込んでおり、電車や自動車の音が表通りから響いてくる。
「えっと、この辺りだと思うんだけど」
 住所から察するに、集合住宅ではなく一戸建てだろう。だが、オフィスらしき建物はない。ふつうの住宅ばかりだ。
 スマホを片手に、番地を確かめながら、辺りを歩き回る。五分ほどして、該当する番地を探し当てる。
「えっと、やっぱりここだ」
 同じ場所を二度通り過ぎていた。一見そこはふつうの民家だった。敷地は佐賀の実家と同じくらい、一五〇坪はあるだろう。この辺ではかなり広い。おそらく昔はモダンな建物だったのだろう。白いコンクリートの二階建ての母屋と、一階建ての離れからできている。壁が敷地を取り巻いているので、中はうかがい知れない。
 表札を探すが、何も出ていない。何度も周囲をぐるぐる回り、番地があっていることを確認した。早く家を出たつもりだったが、約束の時間が迫っている。
 ええい、もし間違っていたら、間違っていた時だ。
 めぐみはようやく決意して、玄関のチャイムを鳴らした。
 すぐに中から鍵を開ける音がして、ドアが開いたと思ったら、足元を何かがすごい勢いで通り過ぎた。
「あ、だめ、出ないで!」
 独特のハスキーボイス。テレビで聞いたことがある桐生青の声だ。そして、目の前にある顔も、まぎれもなく桐生青。
「あの、あの、私」
「悪いけど、それ捕まえるの手伝って」
 青の視線は走り去った小動物の方を見ている。
 猫だ。たぶんあれは……。
 青は猫を追って建物の裏手へと走る。めぐみも訳がわからないまま、ハイヒールの足でそれを追いかける。
 裏手は五〇坪ほどの広い庭があった。大きな桜の樹が一本あるだけで、あとは膝の高さほどの雑草が生い茂っている。
「ほら、あの辺」
 雑草がうごめいている。その間から白と茶色と黒のまだら模様が見える。猫にしては、ちょっと大きめかもしれない。
 青は雑草をかき分けて、うごめいている辺りへと近づいていく。青が近づくと、猫は遠ざかるように別方向へと走り出す。青は懸命に近づこうとする。
 めぐみは猫の進行方向の先を予測し、そちらへ移動する。猫はめぐみの方へと走って来た。めぐみはためらうことなく手を出した。すると、猫はめぐみの手をシャッと引っ搔いて、逃げ去って行く。
「痛……」
 手の甲に鮮やかな一文字。そこから血が滲む。
「待って!」
 庭の隅に逃げ込んだ猫の前に、青が立ち塞がる。猫は背中の毛を逆立てて威嚇する。近寄ったら爪を出すぞ、と言ってるようだ。その勢いにのまれて、青は動けない。
「あの、バスタオルか何かありませんか?」
 めぐみは青に話し掛けた。
「バスタオル?」
「猫の視界を覆ってしまうんです。そうすれば動けなくなりますから」
「わかった」
 青は走って部屋の中まで戻り、すぐに白い厚手のバスタオルを抱えて戻って来た。
「これをどうすればいいの?」
 タオルを持って、青が困惑したように突っ立ってる。猫は隅に追い込まれたまま、鋭い目でこちらを睨んでいる。
「貸してください」
 めぐみは奪い取るようにしてタオルを持つと、両手で持ってカーテンのように広げた。
「この仔の名前はなんていうんですか?」
「えっと、ミケ」
 三毛猫だからミケ。そのまんまだ。
「ミケちゃん、いい仔だね」
 そう言いながらめぐみはふわっとタオルを広げて、猫の顔を覆った。タオルをのけようとしてバタバタ暴れている猫を、くるむようにして抱き留めた。
「さあ、このまま部屋に連れて行きます」
 腕の中で猫が暴れているのがタオル越しに伝わる。小走りで玄関の方にめぐみが行くと、先回りしていた青がドアを開ける。玄関を入り、靴を脱ごうとするが、たたきらしきものがない。どうしようかと躊躇していたら、青が言う。
「靴は脱がなくて大丈夫」
 どうやら洋式の家らしい。入るとすぐの部屋は広く、ソファなどが置いてある。ここがリビングなのだろう。
 青は隅にあったケージを運んで来た。
「この中に入れてちょうだい」
「扉を開けてくれませんか? 私、猫を抱えているんで」
「あ、ごめん」
 青がケージのドアを開けると、めぐみはタオルごと押し込むように猫を入れ、それからタオルを引っ張って外にだす。猫だけケージに残された。最初はバタバタと暴れていたが、すぐにあきらめたようにおとなしくなり、背中を丸めてちんまりとケージに収まった。
「助かった、ありがとう」
 青は感嘆したようにめぐみを見上げた。青は思ったより小柄で、一六三センチのめぐみと比べて一〇センチは低い。
「いえ、すぐに捕まってよかったです」
「この仔、昨日から調子悪いから、獣医のところに連れて行こうとしたんだけど、それを察知して暴れ回って」
 そういうことだったのか。だけど、獣医? いまから? 面接があるのに?
「さっき、引っ搔かれたんじゃない?」
「大丈夫です。これくらい」
「ほんとうに?」
 青はそう言って、めぐみの顔をまともに見た。ためらいも恥じらいもなく、ただまっすぐにこちらを見る。まるで胡桃みたいだ、とめぐみは思う。
 アーモンド型の大きく、黒目勝ちな瞳。抜けるように白い肌とあいまって、エキゾチックな印象を与える。胸の辺りまである長い髪を束ねもせず、そのまま垂らしている。まるで雑誌のグラビアから抜け出してきたような生き生きとした美貌だ。
 めぐみはカッと頭に血が上った。高校時代にあこがれていた気持ちが急に甦って来た。大学受験の時には、彼女のインタビューの切り抜きをお守りのように持っていたのだ。
 何か言わなきゃ、と思ったが、言葉が出てこない。
 すると青が言った。
「ところで、あなた誰?」
 不思議そうにこちらを見る瞳。めぐみは絶句した。

碧野 圭
愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家デビュー。ドラマ化もされた、累計50万部を超えるベストセラー「書店ガール」シリーズや、同じく累計10万部を超す「菜の花食堂のささやかな事件簿」シリーズ、その他「銀盤のトレース」シリーズ、「凛として弓を引く」シリーズ、『スケートボーイズ』『1939年のアロハシャツ』『書店員と二つの罪』『駒子さんは出世なんてしたくなかった』『跳べ、栄光のクワド』等、多数の著書がある。

■あらすじ
ひょんなことから天才装丁家・桐生青の元で働くことになった駆け出しのブックデザイナー・赤池めぐみ。
10代の頃からセンスあふれる装丁を手掛け、業界でも注目されていた青のことを、めぐみはずっと憧れていた。
青の元で働ける、と張り切って出社しためぐみは、1日目から夢破れる。職場にはパソコンも机もない。与えられた仕事は電話番。編集者からの催促をうまく受け流す事だった。ほんとに自分はここでやっていけるのだろうか、と不安に思うめぐみは、やがて自分が雇われた本当の理由を知るのだが……。
育ってきた環境も性格も異なる二人は果たしてうまくいくのか?
デザイン事務所の先行きは?

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