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「装幀苦行」第2回

 前回、地獄の原因として以下の三つを挙げた。
 
・凡庸なものにはしたくない
・装丁の手法や有り様を少しでも更新したい
・自分がやる意味のあるものになっているか
 
 このそれぞれの煩悩を解体していき、引き続き、堂々巡りの地獄の苦しみを書き綴りたいと思う。
 
 そもそも凡庸とは何か。
 
 あまりにも身の丈に合っていないテーマなので、ここではあくまで装幀における「凡庸」で、書籍の中でも僕が主戦場としている人文書、文芸書、実用書などいわゆる一般書についての非常に個人的な範囲に絞って進めたい。とはいえ、あらゆる分野で同じような事が起こっていると見える。
 
 どういう装幀が凡庸なのか。
 まず、この直方体。本の形が退屈。白く平滑な紙が退屈。オフセット印刷が退屈。そして、そこに印刷される図像や文字が、書名は書名らしく、著者名は著者名らしくあること、当たり前とされていることを疑わずに作られたものが退屈。凡庸だと感じるものの多くは、常識的な造本、図像、タイポグラフィによるもの。奇を衒ったものも大抵は出自が知れる。
 しかし、四六判やA5判などおよそ決まり切った形である書籍は、もともと常識的なものになる定めにある。凡庸なものに惹かれない反面、合理化された製造と流通によって安価に頒布できるという本の良さもその凡庸さにあるので、常識からの逸脱は諸刃の剣だ。
 実際、退屈でありながらも美しいものはあって、オーソドックス、クラシックと言い換えられるものもある。活版印刷の効率を根拠とする伝統的なレイアウトは美しく、禁欲的で端正なタイポグラフィ、ただそれだけで美しい本はいつの時代も色褪せない。前回オールタイムベストとしてあげた中公新書のようにミニマルなものや古い辞書のようなもの、あるいは文学全集のようなものなど、それらをモチーフにしたデザインは一つの手法として理解できるし、良作も多い。しかし自分がやるかというと、結局はパロディに過ぎず、ただ退屈なものを作っているのではないかという気持ちになる。                 
 ショパンやバッハを誰よりも感動的に演奏できることの素晴らしさは言うまでもなく、装幀においても新しさを求めることが目的でなくていいのではないかと考えないこともない。吉岡実[1]や晩年の戸田ツトム[2]はその域にいたように思うが、ある時期を経て、辿り着くのかもしれない。そこにはまた別の地獄があることと想像する。
 
 一方、退屈を避けるためなのか、仕事した気になるためなのか、何かしらの手を加えることによって、別の凡庸が顔を出す。流行に寄せたり、安易な賑やかしなど、よくある感じにしたりすることで、より厄介な凡庸となる。新鮮より安心を目指した手の加え方。もちろん安心は良いことなのだが、よくある感じを吉とするかどうかは人それぞれだ。今のところ、自分は吉とできずにいる。「最近売れている本みたいで良いですね」には苦笑いしか出ない。皆が喜んでいるのならば、正しいゴールなのだろう。褒め言葉と受け取れる人はおめでたい。
 この厄介な凡庸は「誰のためのデザインか」という根源的な問題に行き着く。ユーザーである読者のためというのは分かり切った答えなのだが、「何が読者のためになるのか」という問題だ。版元の担当編集、その上司、制作や営業、それぞれに「良い装幀」があり、それぞれの「読者のため」がある。装幀者は、自分の信じる「読者のため」を貫くより、仕事を成立させることが先に立つ場合もあるだろう。というか、まずは仕事が成立しないとそのデザインは世に出ることはない。凡庸さの要因は、この歩み寄りだ。何か異物を書店に出現させたいと願う装幀者の想いは行き場をなくす。
 
 かつての人文書や文芸書では装画一つ取っても抽象度の高い絵画やイラストレーションを用い、読者に問う、考える余地を残すべきものとして装幀があった。いま、「どんな本だろう」と読者を誘うことに知恵を絞るより、出会い頭に内容を伝えることに注力した本で書店は溢れている。紙の本が売れない時代、動画やSNSなどが主流メディアの時代、少しでも売るための手段として、本の帯はもちろん、カバーも販促物としての役割を担わされることとなったのは仕方がない。書店での広告としての装幀が読者のためなのか、そうではないはずなのだが、残念ながら販促物として優れていること以上に美しさや異物感が求められることは多くないのが現状といえる。そういったさまざまな時代の要請を飲み込んだ上で何を提示できるかがデザイナーの力量となる。
 時代の要請にも1年で収束しそうな流行の波もあれば、3年はもちそうなもの、10年は耐えうるもの、20年は古びないと考えられるものと、周波数のようなものがあって、一人のデザイナーの生涯としては、20年単位くらいの波に乗った方がよさそう。自分が生きる時代において何をすべきで何をやらないべきか、射程を定め、20年で折り返し、40年で答えが出る。どの波に身を置くかは自分次第、どんな仕事に巡り合えるかは運もある。ただ、他者の仕事のフォロー、もしくはカウンターでは大した成果は得られず、自らの思考の発展、蓄積がなければ大きな跳躍には至らない。少なくとも10年単位で見ないと評価ができないというのが実感ではあるのだが、職人の修行か、と、それこそいつの時代の話をしているのだと、遥かに軽薄な世界にいながら、いかにも凡庸な人間の考えることのようでやるせない。
 うっすらとは気づいていたが、凡庸について考えること自体が凡庸で、もがけばもがくほど凡庸に塗れていくのだ。凡庸から逃れようとするそのさまを本が体現してしまう。非凡は凡庸の向こうにあるのではないのか。どんな波に乗ろうと向こう側へは行けないのか。考えることすら許されないのであれば、どうやら行けないようだが、凡庸でいいと思った瞬間終わる気がするので、もう少し続けてみようと思う。
 そんなようなことを考えながら書店を徘徊。今回も特に取り上げたい本は見当たらないので、参考文献を紹介する。
 
 蓮實重彦著『凡庸さについてお話しさせていただきます』(中央公論社 1986年)。装幀は田淵裕一[3]。
 ここにまさに「凡庸を避けようとするさまが凡庸で」とある。仕事に対して初っ端に「凡庸なものにしたくない」をあげた浅はかさ。自分のような凡庸な人間が軽々しく触れてはいけない言葉だったと悶絶したが、凡庸を飼いならす、諦観へ半歩進めたような気がしなくもない。


[1]1919年―1990年。詩人、装幀家。1941年満州への応召に際し詩集『液体』上梓、終戦まで軍隊生活を送る。1951年筑摩書房入社。1955年『静物』刊行、1958年『僧侶』でH氏賞受賞。1959年飯島耕一らと「鰐」創刊。戦後最高の詩人の一人に数え上げられる。書籍の装幀も多く手がけた。

(『吉岡實詩集 紡錘形』吉岡實 著 1962年 思潮社)

[2]
1951年―2020年。グラフィックデザイナー。工作舎在籍時には雑誌「遊」などのエディトリアルデザインを担当。独立後、「観客席」など天井棧敷の公演ポスターをたびたびデザインする。1985年、『エリック・サティ』(マルク・ブルデル著、リブロポート、1984年)ほかで、第16回講談社出版文化賞・ブックデザイン賞受賞。1989年、フルDTPによる『森の書物』(河出書房新社)刊行。デジタルデザインの可能性にいち早く着目し、日本に知らしめる。

(『ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト』ジル・ドゥルーズ 著 宇野邦一/堀千晶 訳 2016年 河出書房新社)

[3]
1940年、大阪生まれ。多摩美術大学日本画科卒業。1962年美術出版社入社。「季刊デザイン」の編集を担当。1977年独立以降、装幀・エディトリアル・写真・グラフィックまで一人でこなすデザイナーとして、多くの作品を手がける。仕事のかたわら、オブジェ制作や出版も行うアーティストとしても活動した。

水戸部 功(みとべ・いさお)
1979年生まれ。2002年多摩美術大学卒業。在学中から装幀の仕事をはじめ、現在に至る。2011年第42回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。2021年、『現代日本のブックデザイン史 1996-2020』(川名潤、長田年伸との共著)を刊行。2022年、『装幀百花 菊地信義のデザイン』(講談社文芸文庫)を編集。

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