不幸中毒

初めて書くテキストのタイトルがこんなにも変だと、今後一切読み手が現れないかもしれないとも思ったが、インパクト重視でこんなタイトルにした。

世の中にはさまざまな「中毒」がある。酒、タバコ、ギャンブル、ドラッグは昔から問題視されてきたが、最近ではスマホ、ゲーム、浪費、セックス、カフェインなど、新たに中毒と名のつく事象が続々と増えている。
かくいう私も、お金を使うことでハイになれる浪費中毒者であり、スマホを片時も手放せないスマホ中毒者であり、高校・大学と授業中にゲームをし続けたゲーム中毒者である。

そして私はもう一つ、「不幸中毒」という厄介な中毒症状に悩んでいる

不幸中毒という言葉が既存のものかどうかは知らないが、私の言う不幸中毒とは、自分が人と比べて不幸であることで安心し、逆に幸せなことが起きると戸惑い受け止められないというものだ。

成功者が他から賞賛されることでハイになったり、やる気がみなぎったり、気分が良くなったりすることはよくあることだろう。ただ、世の中には自分を成功者として注目を集めるよりも、自分を悲劇の主人公として注目を集める方が楽だと感じる人がいる。この場合、自分に不幸が降りかかれば降りかかるほど悲劇度が増すうえに、不幸度が客観的に見て高ければ高いほど中毒者は安心する。(あくまで私の見解だが。)不幸中毒発症のきっかけとなる不幸とは、自分の力では消えることも、やり直すことも、不可能でかつ、自分に直接的な原因がなく受動的に被った不幸である。

例えば、「勉強を死ぬほど頑張ったのに大学受験に失敗した。」は本人にとっては間違いなく不幸な結果だが、そもそも自分の能力が届かなかったのが原因であるうえに、次またチャレンジすることができる。対して「性犯罪の被害者になった」は自分ではどうしようもなく、なかったことにもできない不幸であると言える。

このような不幸を経験した人が全員不幸中毒になるというわけではない。このような不幸が複数降りかかると不幸中毒になる可能性が高まってくる。そして、一度不幸中毒になると身の回りの小さな不幸であっても、被害妄想であっても中毒者にとっては十分なドラッグとなりうるのだ。

初投稿にこのような内容にしたのには、この内容を話す際に私のことを知ってもらえると思ったからだ。

私は生まれたその日に紙袋に入れられて電話ボックスに遺棄された。幸か不幸かその日のうちに保護されて二歳ごろまで施設に入ることになった。そして特別養子縁組である夫婦の一人息子となった。養子であることを告知されることもなく育ったが、高校の時、初めて自分が養子縁組した両親から受けていた仕打ちが躾ではなく虐待であったことを知る。その後助けを求めることも叶わず、家族という鎖に繋がれたまま来年には自立を迎える。

簡単に言えば遺棄と虐待という二つの不幸が私の中に不幸中毒のタネを蒔いた。愛着障害を抱え、根拠もなく自分の未来が幸せである、うまくいくと信じることのできない私は予想外の幸福には戸惑い、不幸によって安心するという厄介な性質を身につけた。ちゃんと今も私は不幸であるという安心。

私は人に好かれるよりも、人に嫌われることで安心してしまう。人に嫌われたという悲しみは他の人と同じよう感じる。だが、その悲しみにくれている時間が自分が自分であることの証明となってしまっているし、自分を可哀想だと憐れむことのできる瞬間なのだ。

よくできたね!頑張ったね!えらい!と言った言葉よりも、大丈夫?辛かったね。かわいそう…、のような言葉の方が私を安心させる。

これが私の名付けた「不幸中毒」だ。心当たりのある人のもとにこの文章が届いていればいいのだが。私自身、中毒状態を抜け出す方法がわからないが、果たしてそんなことは可能なんだろうか?そしてさらにいうと、不幸中毒の私は無意識のうちに自分が不幸中毒であるという不幸に溺れて、抜け出す努力を怠っているのだろう。

※今後不定期でこんな感じの長文を書いていきたいですが、需要があるかは一切考慮していません。また、なにか聞きたいことがあれば是非コメントで聞いてください。プライベートな情報以外は隠す気がないので、過去の経験談も含め遠慮なくご質問ください。
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