親ガチャは構造主義

正直、哲学は門外漢ではあるけど

「親ガチャは構造主義」だと思った。

僕が学んだ浅い知識を疲労するなら

実存主義は「世界、自分の存在に意味がないという虚無を受け入れ前を向いて生きよう」

という哲学であり、サルトルは自己啓発顔負けのポジティブさを展開したように思う。

マルクス思想に即した思想を展開したのは資本主義化における「奴隷的である立場の打破」を実存主義における「自分の人生は自分の手の中に」を体現しようとした結果なのだろうと思う。

しかし、僕らの親世代から時代は代わり、僕らの世代を経由して、Z世代には「親ガチャ」というワードが生まれた。

悲観的であり、退廃的な発想ではあるが、親ガチャは構造主義であると思う。

構造主義とは、「人間の人生はその後ろのある構造(マクロ的には生まれ、環境、社会的慣習や秩序等)によって支配されている」というもの。

構造主義の父、レヴィ・ストロースは西洋的な価値観を良しとするサルトルの実存主義を破壊したと言われてるそう。

親ガチャは変えられない事実による自分の人生の西洋文化的敗北をうまく表現している。

親ガチャは戯言でもなんでもなく事実である。

そしてその度合も人それぞれ、酒に例えれば「ちょっと酒飲む親が嫌」から「アル中で手がつけられないレベル」のものまで存在していて

その中に、人それぞれの「だから頑張れた」もあれば「だから頑張れない」も本人が生まれ持った気質との構造主義的マッチングの結果である。

あらゆる素質、環境等のマッチングの結果が人生でありそれに優劣をつけるような社会は不公平である。

結果、これを救うのは共産主義的制度をつくるしかなさそうだ。

しかし僕は共産主義を手放しで称賛はしない。

ポスト資本主義における社会主義的な制度は日本にある程度の軍配があるようにも思う。

日本は世界で唯一成功した社会主義国だなんて言われ方をすることもある、貧乏な人でも不遇な人でも生きていく事ができる。

ただ、幸福において…、その価値観が西洋文化に毒されているため

「より多く持ち、より多くの不特定多数の人に愛される人」が幸福であるという間違った価値観がまん延している。

これだけ豊かに生きられるのに、不満が漏れるのはそのせいだろう。

まぁもちろん、コレ以後もこの社会主義制度、いわゆる社会保障制度が維持されるかは疑問ではあるのだけど。

構造主義を学んで僕が思った事

悲観的な話をしていても仕方ないので構造主義の突き放しのような結論を僕がどう受け止めたかメモる。

  • 人は構造の奴隷である。物理法則よろしく、人間ももただの原子や電子やらの連鎖の結果、自然現象でしかない。

  • 環境、遺伝、生まれた場所、その土地の文化風俗、社会的慣習、出会った人や本、etcこれらによって形成される人間存在はそれ自体を肯定する他ない。

    • 構造主義はヘレニズム哲学や東洋哲学における「諦観」のような思想を納得する鍵になる。

  • 他者と比べる事は無意味である

    • それぞれ生まれ持った素質や環境が違うから)

  • 何も持っていなくても幸せである

    • アレがあれば、これがアレば、ショーペンハウアーや釈迦らが苦痛の根源であると説明している。

    • 西洋的な多くを得て多くを使うは幸福と結びつかない事は科学的にも一定のコンセンサスを得ている

得ることは楽しい。しかし、得られないものが多くある事を受け入れれば、知足の精神で今を楽しめる。

構造主義の残酷さは、僕らに諦め方を教えてくれるのではないかと思う。

諦めるのは決して悪いことではない。

バガボンドで「諦める」という事について仏師が語るシーンがあるが、これは作者の心境の変化なのか、それとも時と場所によるというものなのか、読者が少年世代か青年世代かの違いでかき分けたのか、意図はわからないけど

バガボンドであのシーンがある事こそ、人は、人生は、常にその時その時に変化しているという事の証明のような気がするのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?