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ピカソとミロの心温まる交友を綴るミロ美術館の特別展

2023年はパブロ・ピカソ没後50周年で、それを記念してスペインやフランスなどでピカソに纏わる様々なイベントや展覧会が開催されていました。

バルセロナのミロ美術館ピカソ美術館でも10月からピカソとミロの交友を描いた特別展が開催されています。ミロも没後40年ということで可能となった特別展。両美術館が共同で開催するという初の試みだそうで、合わせて338ものピカソとミロの絵画などの作品が展示され、ロンドンのテート・ギャラリー、ニューヨークのMOMA、ワシントンDCのナショナルギャラリー、パリのピカソ美術館など世界中から両アーティストの絵画が集められています。

当初から行きたいと思っていましたが、しばらく忘れており、今回無料開放の日を利用してミロ美術館の特別展を訪れてみました。

ミロ美術館では1917年にミロがピカソを初めて見かけるところから始まり、ピカソ美術館では両アーティストが1920年にパリで会うところから始まるので、ミロ美術館を最初に訪れるのが一番だとか。

ミロ美術館は舞台裏ツアーも含めて何度か訪れています。

今回足を踏み入れて最初にびっくりしたのは、常設展のスペースが今回の特別展に使われていたこと。いつもと違う特別展だというのがすぐ分かりました。


ピカソとミロの出会い

1917年、バルセロナのランブラス通りにあるリセウ劇場でバレエの舞台セットとコスチュームをデザインしたピカソ。鑑賞に訪れたミロはそこで初めてピカソを目にします。ミロにとってピカソは雲の上のような人でその時は声をかけられなかったといいます。当時ミロは24歳くらい。

ミロの母とピカソの母は友人で、1917年にミロ本人もピカソの家でピカソの絵を見たことがあるそう。ピカソが描いたバルセロナのピカソ宅のバルコニーから見える景色。ランブラス通りの終わりにあるコロンブスの像が描かれています。

そして1920年のパリ、ミロはピカソの母に頼まれた荷物を持ち、ピカソと遂に対面します。

1920年にパリでピカソに会った後、ミロが描いたのがこちら。よく見るミロの作品の作風とは全く異なるキュービズムの作品。

Horse, Pipe, and Red Flower, Joan Miro, 1920 フィラデルフィア美術館

テーブルの真ん中にある本にはピカソの絵が描かれていて、ピカソの影響がどれだけ大きかったかを表しています。そしてピカソの下の絵と構図が似ています。この作品をどこかで見て描いたのでしょうか。

Still Life with Compote and Glass 1914-15. 米コロンバス美術館,

2021年にはパリで個展を開いたミロ。ピカソも訪れ、ミロの下の絵を購入したそうです。

Joan Miro, Spanish Dancer, 1921, ルーブル美術館

パリで試みたシュールレアリズム

1920年代中頃、ピカソがシュールレアリズムに興味を持つようになるとミロも同様にシンプルなラインと色の継ぎ接ぎを組み合わせたシュールレアリズムを試みます。 ピカソは「The Three Dancers」(下)でより歪んだ人物像を描き、彼独自のスタイルを模索します。

The Three Dancers 1925 Tate Gallery

ミロも先ほどの「Spanish Dancer」と全く異なる、より抽象的なDancerを描くようになります。よく知られているミロのスタイルで、Dancerと言われなければ分からないです。

Joan Miro, Spanish Dancer 1924, ベルギー王立美術館

ピカソもより抽象的でより歪んだ人物像になっていきます。

Figuras al Borde del Mar 1931

ピカソとスタイルは違っても、背景やボディの構図が似ているミロの絵。

MOMA

スペインの内戦過の作品

1936年にスペインの内戦が勃発。1937年のパリ万博のためにピカソは内戦で爆撃されたバスク地方のゲルニカを題材にした「ゲルニカ」を作成し、ミロは、スペイン政府のパビリオンの壁に直接 「The Reaper」を描きます。

ゲルニカはマドリードにありますが、大作だけに恐らく持ち出し厳禁。ゲルニカの下書きがいくつかマドリードから来ていました。馬の悲痛の叫びが印象的です。

ミロの壁画はカタルーニャのナショナリズムの象徴である赤い伝統の帽子をかぶる農家がモチーフ。残念ながらこの作品は保存されず、白黒の写真しか残っていないそうです。

Joan Miro, The Reaper

ミロのBlack and Red Series。後に独裁政権となるフランコ勢力を表すと思われる鼻の長いモンスターのようなものが描かれています。当初は黒一色だったとのことですが、ピカソが色を入れてはどうかと提案し、赤が入ったそう。赤が加わったことで躍動感が出ているとともに血を象徴するかのようです。

ゲルニカを描いたあと、ピカソは何か月も内戦で泣いている女性を描いたそう。ミロも同時期に内戦の悲惨さを表現した男性の顔を描いています。

ミロの「Head of a Man」(米MOMA)とピカソの「The Weeping Woman」

晩年のピカソとミロ

第二次大戦後になると広場などのパブリック・スペースにアートを設置する動きがあり、1960年代にはピカソはシカゴのデイリープラザにあるパブリックアート(無題)を作成。模型が飾られていました。

無題 1967

同時期にシカゴ市はミロにも作品を依頼。予算の関係で1980年代まで設置されませんでしたが、ピカソの作品がある広場の前のスペースでみることができます。この小さいスケールのものがバルセロナの町を背景としたミロ美術館の庭にあります。

The Sun, the Moon and One Star

どちらの作品もシカゴに住んでいた時によく見ていたので懐かしくなりました。グーグルマップのストリートビューでピカソの作品の右斜め前を軸にぐるっと回転させて見ると…

お互いの顔が見えるように設置されています。

ピカソとミロの死後もお互い見つめ合っている2人の作品。意図的なのでしょうか。

80歳を過ぎてピカソが描いた絵。この頃でも一日二枚の絵を描いていたそう。

The Painter and the Model, 1963. ソフィア芸術センター

1971年、ミロがピカソの90歳の誕生祝いに描いた絵。誕生日に地元紙の表紙を飾ったそう。

この頃はピカソは南仏に、ミロはマヨルカ島に住んでいて晩年は恐らくそれほどコンタクトはなかったのでしょうが、出会いから50年経ってもミロのピカソに対する深い尊敬の念が感じられます。

116点の作品があり見ごたえがありました。このほかにも…

最後に

全体的にミロの作品はミロ美術館所蔵のものが多かったです。他方でバルセロナのピカソ美術館は主にピカソ本人がバルセロナ市に寄贈した初期の作品が多いため、今回の展示では海外やマドリードから来ているものが多く、普段バルセロナでは見られない作品の数々を一同に見れたのは良かったです。

作品の数やクオリティーもそうですが、あまり見かけないミロの初期の絵などもあり期待以上の展示でした。そして、全く異なるスタイルでありながらお互いに影響されあって作品に共通するところもあるのも面白かったです。

本当ならもっと早く行きたかったのですが、閉幕直前になってしまい記事を書くのが遅くなってしまったのが残念。ミロ美術館とピカソ美術館の本展覧会は2024年2月25日まで開催しています。

この後はピカソ美術館の特別展にも行って来たのでそちらは次回お伝えします。


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