一周忌―もう親孝行できない娘の備忘録

先日、家族だけで父の一周忌の法要を営みました。
そして、祥月命日の今日。
一年があっという間だったのか長かったのか分からず、ふわふわとした心持ちのまま今日に至ります。
父が脳挫傷で植物状態となり一年一ヶ月、他界して一年、この二年一ヶ月の間、母とはよく父の話をしました。
私が父の話題をこれほど挙げたのは、人生で初めてでした。
父とはもう会話をすることができなから、その穴埋めをするように父のことを話していたと思います。
思い出話から、あの時腹立たしかったという愚痴まで、たくさん話しています。愚痴を言うのは私です。

母は時折、「あの時ああいう判断でよかったのだろうか」「ああしてやれば良かった。これしてやれば良かった」と言います。
父の生存に対する最終決定権を母に委ねていたので、母に対して酷な判断をさせていたなとも思います。
できるだけ自分の意見も述べた上で、でもやはり一番父と人生を共にした年数の長い母だからこそ、くだせる判断もあると考えたのです。
母の選択が正しかったかどうかなんて、誰にも分かりません。
父はもうこの世にはいないのだから、正誤などつけようがないのです。
母の決断に文句をつける者が現れたら、私が相手してやるという心構えでいました。

母が父にしてあげたかった色々なこと、それはコロナ禍においては制限があって叶わなかったものもあるし、どれだけ尽くしても心残りは必ず出るものだとも思う。
ただ、こうやってあれこれ思うことは悪いことではないと私は考えている。
父を思うことは、父を偲ぶことに繋がっていると信じたい。
思い出話やささやかな愚痴は、決してマイナスではない。
私も父に対して出来なかったことはたくさんあるし、それこそちゃんとした親孝行もできなかった、悪い娘だと思う。
父にできなかった分まで、母に対して色々してあげたい。
これは親孝行というよりは単なる自己満足なのだけど、私の言動をどう受け止めるかは母次第なので、そこはあまり気にしないようにしています。

「アキが側にいてくれて良かった」
母はそう言います。
私は一時期一人暮らしをしていて、もしそのまま離れて暮らしていたら、父も自分もどうなっていたか分からない。そうしみじみと語るのです。
たしかにもしあのまだったら、私は今も多忙な毎日を送っていて、母の脳幹梗塞も発見が遅れていたかもしれない。
それはゾッとします。
私ぐらいの年齢であったら、大抵は別世帯で暮らしていて、親と同居というのは今の時代少ないでしょう。
そう考えると、母は幸運かもしれません。
自分だけだったらまさか脳幹梗塞とは思わないし、救急車を呼ばなかったと言っていました。
発見が遅れたら、母はもしかしたら父よりも数日早く逝っていたかもしれません。
IFを語り出すときりがないのですが、不本意な両親との同居が、今になれば良かったなとも思いました。


一周忌の法要の際、最初に寺務所でお布施を渡した後、待合室で母と二人で兄弟を待っていました。
寺務所の入り口はガラスの自動ドアなのですが、ある時ウィーンと開き、誰も入ってこず、そのまままたウィーンと閉じたのです。
自動ドアの外にも内にも誰もいません。
しばらくしてまた誰もいないのに開き、また閉じました。
母と顔を見合わせて首をかしげました。
センサーが故障した?
当たり前にセンサーが誤作動起こしただけなのですが、その時定刻になっても兄弟が来ないので思わず冗談めかして言ってしまいました。

「…ヒロキ遅いって、お父さんが行ったり来たりしていたりして」
「まさか」

前にもこんなことあったような、と私は懐かしく思いだしていました。
祖母の法事の時だったと思うのですが、いつまで経っても兄弟が来ないので、父がしょっちゅう見に行っていたのです。
単なる偶然ですが、生前の父のそんな姿をふと思い出して、マスクの下で少し笑ってしまいました。



更新ができないまま一年経ってしまいました。
一周忌を迎えたことで、気持ち的にも一区切りついたと思うので、ゆっくり思い返していこうと思います。


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