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負け犬の遠吠え 大東亜戦争32 ギルバート諸島の戦い・大東亜会議

1914年に勃発した第一次世界大戦において、連合国として参戦した日本は戦勝国側に立つことができました。

その結果、ドイツ領であったマーシャル諸島やカロリン諸島を委任統治領として治める事になったのです。

そのマーシャル諸島の南東になるギルバート諸島はイギリス領であり、日本は大東亜戦争開始とほぼ同時にギルバート諸島を占領していました。

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1943年になって反攻を進め、ソロモン諸島を手中におさめた米軍の次なる矛先はこのギルバート諸島でした。(ガルヴァニック作戦)

しかし日本軍は守勢に立たされる中、戦線を縮小し戦争を継続するために1943年9月に「絶対的国防圏」を定めます。

この範囲の中にギルバート諸島は入っておらず、日本軍はマーシャル諸島海域での艦隊決戦に固執します。

9月、10月と立て続けに空母部隊「第三艦隊」を出動させますが敵に出会うことすらできずに空振りに終わり、中部太平洋に日本海軍の拠点・トラック島基地の燃料は底をついてしまいました。

艦隊行動が不可能になってしまった日本軍をあざわらうかのように、11月に米軍のギルバート諸島侵攻が開始されるのでした。

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ギルバート諸島のマキン島の日本軍には693名の兵力と水上基地がありました。

11月21日、米軍はマキン島へ艦砲射撃を行ったのち、上陸を開始します。

日本軍の抵抗を受けずに上陸を完了させた米軍でしたが、油断していたところに日本軍の砲撃を受けて後退を余儀なくされました。

日本軍はその後も奇襲攻撃など激しい抵抗を見せますが、米軍の執拗な艦砲射撃と空襲によって砲台が破壊されてしまいます。

日本軍の接近戦を恐れた米軍は一日中、日本軍陣地へ砲撃を加え、日本軍守備隊の中で戦闘可能な兵力はたったの30人という状態になりました。

11月23日午前4時、日本軍残存兵力は米軍陣地へ最期の黎明攻撃を仕掛け、玉砕しました。

日本軍の戦死者は589名、圧倒的な戦力差において「1日」で終わるはずだったマキン島攻略に4日間も費やした事について、米軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツは「拙劣な指揮」と米陸軍の第27師団を非難したと言われています。

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マキン島上陸と同日の11月21日、タラワ島へも米軍は上陸を開始しました。
ここには2600名の日本軍兵士と、2200名の労働者がいました。

35000名の兵力の米軍が上陸を開始すると、日本軍は砲台から攻撃を加え、上陸部隊に大損害を与えます。

これに対して米軍は激しい艦砲射撃で応酬、日本軍の弾薬庫に砲弾が命中して地面が揺れるほどの大爆発が起こり、タラワ島は「生きている人間などいるはずがない」という状態になりました。

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それでも再び米軍が上陸すると日本軍はどこからともなく反撃を行い、米軍に大損害を与えます。

島に上陸した米兵5000名のうち三分の一は既に死傷しており、米軍は再び艦砲射撃を行うことになります。

繰り返される艦砲射撃の前に、さすがに日本軍の損耗は激しかったのですが、士気の衰えない日本軍は激しい抵抗を続け、11月23日に突撃攻撃により玉砕しました。

日本軍の戦死者は4713名、生存者は17名でした。

米軍にも1000名以上の戦死者を出したこれら戦いは、「恐怖のタラワ・マキン」と呼ばれ、アメリカ本国では軍部への批判が起こり、一時的に志願兵の応募率が低下するほどだったという事です。

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ギルバート諸島をめぐる戦いは空でも起こりました。

日本軍は本来、連合軍がギルバート諸島方面から侵攻して来た場合には、空母部隊、地上基地航空戦力、潜水艦などの総力をあげて迎え撃つ「Z作戦」を計画していましたが、前述した通り、9月、10月と立て続けに行った艦隊出動が不発に終わり、燃料を切らしていました。

ギルバート諸島を狙う米軍のガルヴァニック作戦には11隻の空母、660機の航空機投入されていたのですが、日本軍はこの方面に配備されていた航空機150機のみで迎え撃つ事になります。

4度に渡る「ギルバート諸島沖航空戦」の結果、日本軍は敵空母一隻を損傷させるも、60機を失う大打撃を被ってしまいます。

日本軍は「敵空母8隻を撃沈」という戦果誤認を起こし、連合艦隊は大本営に抗議を行いますが、問題はうやむやにされてしまいました。

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さて、タラワ島・マキン島などギルバート諸島の要所を手中に収めて目的を達し、ギルバート諸島沖航空戦でも軽微な被害で済んだ米軍には余力がありました。

そこで、次なる目標であるマーシャル諸島への事前攻撃として、日本軍基地へ打撃を与える命令が下されます。

日本軍は、ギルバート諸島沖航空戦での戦果の誇大報告を信じてしまい、「米軍のマーシャル諸島への行動は相当に遅れるだろう」と楽観視していました。

12月5日、6隻の米軍空母から386機の攻撃隊が出動、日本軍にとってこれは予想もしない奇襲となりましたが、レーダー探知によってなんとか迎撃体制を整える事ができました。

この「マーシャル諸島沖航空戦」で日本軍は敵空母1隻を中破させる事ができましたが、多くの艦船と57機の航空機を失う大損害を被りました。

1941年12月8日から始まったこの戦争もこの時点で2年が経ち、1943年は連合軍の反転攻勢の一年となりました。

日本軍の戦局は一進一退から徐々に劣勢に転じ、ここに来て消耗は限界に達します。

これ以降については、「悲惨な悲劇」しか書く事がありません。

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南洋の日本軍が苦戦を強いられていた1943年11月5日、東京では「大東亜会議」が開かれました。

大東亜戦争において日本軍は東南アジア諸国を長年に渡り植民地支配下においていた欧米列強の軍隊を駆逐しており、ひとまず軍政を敷いていました。

その事実については功罪いろいろあるでしょうが、ここでは語ることを避けます。

重要なことは、大東亜会議は近現代史上初の「有色人種のみによる首脳会議であった」という事です。

参加国は日本、中華民国、満州国、フィリピン、ビルマ、タイであり、インドはオブザーバーとしての参加となりました。

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この会議を開催するために奔走した重光葵外相には、戦後、東南アジア各国の独立構想があったとされています。

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6日には「大東亜共同宣言」が前回一致で採択されます。
これは連合国による第二次世界大戦の戦後処理を謳った「大西洋憲章」に対抗するものでありました。

内容は以下の通りです。

そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。
しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。
大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。
大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。
大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。
大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。
大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。

「もし日本が勝っていたらどのような世界になっていたのか」と思いを馳せるのも悪くはありません。

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