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負け犬の遠吠え 第一次世界大戦3 清の滅亡

アヘン戦争、アロー戦争の敗北、太平天国の乱、日清戦争の敗北と、アジアの宗主国であったはずの清が没落の一路をたどる中、とどめを刺したのは義和団事変終結後の「北京議定書」でした。

これによって列強の駐兵権を認める事になり、清の弱体化は致命的な物になったのです。

清は列強からの要求を飲む事しかできなくなり、「清」という国家はもはや名前だけの物になりました。

清の皇帝・光緒帝は、伯母である西太后の傀儡の立場であったものの、何とか清の滅亡を防ごうと、西太后手主導のもとで「光緒新政」を推し進めました。

権力にしがみつき変革を望まなかった西太后も、流石に今回ばかりは保守的な考えを改めなければなりませんでした。

「光緒新政」は明治維新をモデルとし、立憲政治を目指した改革でした。

日露戦争で日本が勝利するとその改革はますます加速し、日本へ留学する者は一万人以上にのぼりました。

1908年、明治憲法に倣った「憲法大綱」を公布した2ヶ月後、光緒帝は37歳の若さで崩御してしまいます。

自然死なのか、毒殺なのか、病死なのか、死因は不明のままでしたが、2008年には調査の結果「ヒ素中毒」という事で結論づけられています。

つまり毒殺です。

誰が殺したのかはいまだに不明のままだそうです。

そして光緒帝がなくなったその翌日、伯母の西太后も息を引き取りました。

西太后は死の直前、光緒帝の弟である「醇親王」の息子、「愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)」を後継者に選んでいました。

溥儀はわずか2歳にして第12代清朝皇帝「宣統帝」に即位する事になります。

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こうした混乱の中、清国の経済状況に変化が訪れます。光緒新政によって「民族資本家」が台頭してきたのです。

清の経済に蔓延る「外国資本」に対し、支那人自身の投資による産業を「民族資本」といいます。

民族資本家はその多くが「漢民族」であり、満州の「女真族」が興した清王朝に不満を持っていました。

外国資本に奪われていた利権を回収しようと試みていた民族資本家達の資金源となっていたのが、東南アジアへ移住して成功を収めていた漢民族の「華僑」と呼ばれる人々です。

華僑との繋がりや、光緒新政によって盛んになった留学などにより、海外の知識を身につけ近代的政治思想を持つようになった知識層から次々と革命家が生まれました。

列強に屈する清朝は倒すべしと、多くの識者は考えたのです。

近代化していた日本は言論の自由が保障されており、革命家達の潜伏先としてはもってこいでした。

多くの革命家達が留学生と接触して秘密結社を組織し、政治運動を行うようになると、外交問題になる事を恐れた日本政府は「清国留学生取締規則」などを制定しましたが、東京では、革命家達が作った秘密結社が結集し、「中国同盟会」が結成されます。

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これは革命運動の先陣を切り、日本へ亡命していた「孫文」を中心とした大規模な革命組織です。

中国同盟会は何度も蜂起を試みたり、暗殺工作などを行いますがことごとく失敗します。

それでも立ち上がる不屈の革命精神に民衆の心は触発され、清国内でも革命の機運が高まっていきました。

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1911年、清朝政府は「責任内閣制度」を導入します。

しかし民主的な政治を目指して導入したはずの内閣制度ですが、選ばれた大臣達は満州人の皇族が大部分を占める人選となっていた為、地方の有力者や貧困層の反発を招きました。

さらに清朝政府は、「鉄道国有令」を出し、国有化した鉄道を列強からの借金の担保にしようとしました。

この行為に民族資本家は激怒し、四川省では大規模な暴動が発生します。

政府はこれを武力で平定しようとしますが、武漢駐屯地の軍には革命支持派が多く、軍隊は政府に反旗を翻し、武昌、漢口、漢陽の「武漢三鎮」と呼ばれる地域を占領しました。これを「武昌起義」と呼び、「辛亥革命」が始まります。

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武昌起義に続いて、清の18省のうち14省が蜂起し、清からの独立を宣言しました。

独立した各省は、政府をどこに置くのか、リーダーを誰にするのかで争いましたが、アメリカにいた孫文が帰国すると革命派達は臨時大統領として迎え入れ「中華民国」の建国を宣言しました。

1912年1月1日、アジア初となる共和国の誕生です。ちなみに、清朝の支配領域であった「チベット」と「モンゴル」は1913年に独立を宣言し、中華民国には帰属しませんでした。

また、清を興した女真族の故郷、「満州」は無政府状態となります。

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瀕死の清朝に最後の一手を打ったのは、「袁世凱」です。

袁世凱は清朝最大の権力者だった「李鴻章」の後を継いで「北洋軍閥」を支配していました。

野心家の袁世凱は、自らの理想とする国家を欲していました。

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袁世凱は清朝からの革命鎮圧の命令に従わず、革命家達と連絡を取り合い、清の皇帝を退位に追い込みます。

1912年2月、清の宣統帝(溥儀)の退位とともに、支那の政権は完全に中華民国へと移りました。

これによって、「秦」から始まり2000年にも渡って続いた支那王朝の帝政支配が終焉を告げる事になりました。

「ラストエンペラー」となった宣統帝を退位させた袁世凱ですが、何とその翌日には中華民国の大統領に就任します。

臨時大統領の孫文と袁世凱は、「清朝を滅ぼす代わりに大統領の座を袁世凱に明け渡す」と裏取引をしていたのです。

この事を知って激怒、落胆したのは「内田良平」をはじめとする日本人の志士達でした。

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「列強に対抗する術を持たない清を倒し、新政権と日本でアジアを強くしよう」という孫文の理念を、日本人志士は命を賭けて支援していたのです。

そして袁世凱にそのような理念がない事は明白でした。

孫文はそんな袁世凱に中華民国を譲り渡してしまったのです。

これは多大な支援をしてきた日本人に対する裏切り行為でした。

案の定、大統領に就任した袁世凱は野心をあらわにし、中華民国政府が置かれた南京に行く事を拒んで北京に居座り続けました。

孫文は袁世凱の暴走を抑えるために議院内閣制を導入し、「中国同盟会」を「国民党」として政党化しましたが、選挙に圧勝した党首の「宋教仁」は袁世凱に暗殺されてしまいます。

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孫文は袁世凱の軍事力に歯が立たず、結局また日本へ逃げ込みました。

こうして袁世凱は独裁体制を確立し、「辛亥革命」は結局「独裁政権が交代しただけ」に終わってしまいます。

そして支那の混沌はより一層複雑に、深い霧となって日本を迷い込ませるのでした。

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