負け犬の遠吠え 大東亜戦争53 硫黄島の戦い③日本人、立ち入り禁止
摺鉢山が陥落した米軍は戦力を硫黄島北部に集中させ、戦いはいよいよ激化していきました。
米軍はまるで巣穴の害虫を駆除するかのように日本軍陣地を潰していき、少しずつ前進していきます。
坑道を見つけると上部から穴を開け、大量の水を流し込みます。
坑道に潜んで飢えと渇きに苦しんでいた日本兵達はその水に飛び込むのですが、実はその水にはガソリンが浮いていて、米兵が引火させると坑道内は火の海になるのです。
最高指揮官・市丸利之助海軍少将は「米軍の戦法は、さながら害虫駆除のようだ」と語りました。
まさに地獄のような戦場でした。
日本軍は元山飛行場を守るべく、バロン西率いる戦車第26連隊を投入、M-4中戦車と一進一退の激しい戦車戦を展開します。
バロン西こと、西竹一は、オリンピックの馬術で金メダルをとった事により、アメリカ人にも尊敬されるロサンゼルスの名誉市民でした。
戦闘中、米軍はスピーカーでこう呼びかけます。
「オリンピックの英雄、バロン・ニシ。君は立派に軍人としての役目を果たした。ここで君を失うのは惜しい。こちらに来なさい。」
しかし西中佐にはほんの少しの動揺も見られませんでした。
2月26日にもなると、硫黄島の主戦場は元山飛行場一帯となっていました。
この時までに米軍の戦死者・戦傷者は7758名にものぼっていました。
戦車戦とは言うものの、日本軍の戦車は壕の中に身を隠しており、自由に移動することはできません。
いわば、日本軍の戦車は「壕の中を多少移動することができる、動く砲台」といったところでした。
米軍は戦車3両を破壊されますが、後続の戦車部隊を次々に送り込んできます。
この戦闘では日米双方とも大きな損害を被りますが、日本軍は「最後の井戸」を米軍に奪われてしまいます。
これは致命的な損害でした。
戦車隊の奮戦もむなしく、翌日には元山飛行場も米軍の手に落ちてしまいます。
この頃になると、日本軍の戦力はすでに半分に減少しており、弾薬も三分の一になっていました。
それでもバロン西の戦車隊は戦い続けました。
戦車を全て失った後も、凄まじい白兵戦を行なっていたのです。
仲間の死体の腹を裂いて内臓を出し、それを自分の腹部に乗せて仰向けになり、死を装って敵の戦車が来るのを待ち、側を通る時に起き上がって投雷するのです。
またある時は、突撃して戦車を破壊し、搭載してあった機銃を奪っては米軍に反撃を加えるのでした。
しかし、その阿修羅のような戦い振りも、水がなければ次第に朽ちていくのみです。
戦車隊が立て籠もっていた洞窟には負傷者がよこたわり、入り口からは幾度となく火炎放射器が浴びせられました。
3月17日に音信を絶った西竹一中佐の消息は定かではなく、戦死の状況も諸説あります。
西中佐が「自分を理解してくれるのはウラヌスだけ」と、共に金メダルを獲り信頼を置いていた愛馬ウラヌスは、西中佐の後を追うように、3月下旬に死亡しています。
西大佐があの世で、戦車ではなく愛馬に乗っている事を願うばかりです。
元山飛行場からさらに硫黄島の奥地へ足を踏み入れると、元山・二弾岩・玉名山があり、そこは千田貞季少将率いる混成第二旅団が守備していました。
地形の標高を考えると、「山」と名はついているものの、というより「丘」のような感じだったのではないかと考えられます。
練度の低い寄せ集めだった混成第二旅団は千田少将によって鍛え上げられれ、「突撃部隊」と化していました。
米兵たちはここで血の河を流す事になり、千田少将は「ミート・グラインダー(肉挽き機)」と恐れらるようになります。
3月2日からの8日間で米軍第4海兵師団は2880名の死者を出して壊滅、硫黄島に来てからこれまでの戦闘の間に30%が戦死してしまった第4海兵師団は壊滅しました。
しかし米軍は千田少将の部隊のある玉名山を迂回して進軍、第3海兵師団が硫黄島の中央突破に成功します。
硫黄島は南北に分断され、玉名山の千田少将の部隊は包囲されてしまいます。
千田少将は壕を出て、427名の兵とともに兵団司令部へと向かいますが、米軍の攻撃を受け壊滅、千田少将は自決しました。
司令部の栗林中将は、絶大な信頼をお置いていた千田少将の死を聞くと、最後の総攻撃を決意します。
3月16日、栗林中将は大本営へ決別電信を行いました。
「国のため、重き努めを果たし得て、矢弾尽き果て散るぞ悲しき」
17日には、米軍はついに島の最北端の岬にまで到達します。
3月26日、400名の将兵が米軍陣地に夜襲を行い、米軍側に53名の死者を出す損害を与えました。
この攻撃をもって、日本軍の組織的な戦闘は終結することになります。
栗林中将は階級章を外していたため、遺体を見つけることはできず、どこで戦死したのかはわかっていません。
日本軍の総兵力2万1千人、米軍は11万。
日本軍の戦死者2万人、米軍は6821人でした。
「5日で終わる」と豪語された硫黄島の戦いは、36日間も続き、さらにその後も散発的なゲリラ戦が行われました。
この最後の総攻撃の際、市丸利之助少将は「ルーズベルトに与える書」を書いていました。
この書は英訳され、村上大尉に渡されました。
村上大尉は戦死しましたが、懐に忍ばせておいた手紙は目論見通りに発見され、7月11日にアメリカの新聞に掲載されることになります。
しかし当のルーズヴェルト大統領は4月11日に死去していたため、この書を目にすることはなかったと思われます。
組織的な戦闘が終結したのち、米軍は日本兵の遺体や、まだ兵が潜んでいる壕の上にコンクリートを流し、滑走路を作りました。
そしてそこから戦闘機を発振させ、B-29の護衛につかせる事ができるようになったのです。
そのため、日本本土の爆撃は昼間でも、低高度でも可能になり、より確実に、効率よく日本人を殺す事ができるようになりました。
今でも、硫黄島には数千名の日本人の骨が埋まっており、一般人は立ち入り禁止になっています。