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祖父が歩いた支那事変〜大激戦〜

祖父は原隊と合流すべく歩き続けました。

もう半分は来たかと言う頃、
「コラッ」
と祖父を大喝する声がしました。

「こらーツンコピンばい。色が白すぎるバイ」
と言う声もします。

「俺たい!三砲隊のN田タイ!」
と祖父が叫んだら
「ほんなこったい」
と言いながら小銃中隊の人たちが横の土手から出て来たのでした。

さすが歴戦の勇士、下士哨の動作も上手くなったものだと感心するのでありました。

祖父の原隊復帰を戦友達が喜んでくれたのは言うまでもありません。

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ここは五家牌楼という所でした。

高い丘の頂上に望楼があり、監視哨には都合の良いものでした。

ここに大隊砲が一門、敵の方に睨みを利かせています。

砲の前方はすぐ崖になっていて、200m先の山頂には敵陣があります。

山の稜線を辿りながら行き来するツンコピンの姿が肉眼でも確認できるのでした。

野砲隊もそれぞれ砲位置を定め、夜間でも射撃できるように照準を定めていました。

緊迫した警備生活を送っていましたが、どういうわけか陣地を撤収して部隊が集結することになりました。

身軽な小銃中隊はさっさと出発準備をしているのに、祖父の分隊は十数発ぶちかましてから行けという命令が下りました。

夜空にこだまする砲声のうなりを聞いた後は砲を分解して斜面を降ります。

あちこちに懐中電灯がピカリピカリと動いています。

敵兵がすぐ後方を追って来ているのです。

なんとか集合地点にたどり着いた時には、既にたくさんの部隊が集結していました。

「田家鎮要塞」を攻略しないと、揚子江を船が自由に上れないとの事でした。

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祖父達が集結した広済の周囲には敵の大軍がいましたが、さらに田家鎮では蒋介石の直径軍が堅固な陣地を構築していたのです。

しかし、日本軍はこれまで、戦えば絶対に勝って来ました。

上級幹部は今回の敵も大したことはないと考えていたようで、支給された食料や弾薬は1週間程度のものでした。

九月十五日の早朝、指定された地点に集合すると、何やら口論が起こっています。

どうやら同村出身のE濃が、曹長殿に向かって「大丈夫ですから、一緒に連れて行ってください」と喰い下がっています。

祖父が安慶の病院にいた時、E濃は盲腸炎で運ばれて来たのです。

E濃の看病は、軽傷だった祖父の担当でした。

祖父が退院するときは
「俺もすぐ帰るからナァ」
と見送ってくれたものでしたが、今日、祖父の目の前にいるE濃は痩せこけて顔色も冴えていませんでした。

第十三連隊が作戦行動に移るという情報は、入院中の患者にも伝わっており、祖父が退院した後、続々と退院するものが続いたそうです。

E濃は、手術後未だ体力が回復していないのに、勝手に原隊を追求して来たそうでした。

あるいは余病を併発しているのではと思うほど、衰弱している体でした。

祖父は
「E濃、お前の気持ちはわかるが、結局曹長殿にご迷惑をかけることになるから」
と説得したのでした。

陣容を整えて出発し、松山口という所に到着すると、たちまちにして敵軍から包囲されました。

祖父は敵陣に砲撃を加えます。隣に構える山砲隊も攻撃を加えていました。

砲手がやられる度に攻撃は一時中止されるのですが、味方は砲手交代を非常に敏速に行なっていたようです。

歩兵と最後まで協力するのは祖父達、歩兵砲の任務です。

発射する以上は有効弾を射ちたいものですが、砲弾の数が少ないため、祖父は発射弾を節約することにしました。

翌日も死傷者が増えるばかりで一向に先に進めません。

そこで、夜のうちに凹地を通りラクダ山に登って陣地を構えました。

この山の名前は知りませんが、コブが二つあるから「ラクダ山」と祖父達が名付けたのです。

祖父の陣地のそばには松の木が二、三本あり、その下にIIIMG(機関銃)が銃座を構えていました。

K池中尉は熱があるようで、ラクダ山のすぐ下の民家に入って雨露をしのいでいました。

とにかく敵弾が激しく、なんとかして身を隠すだけの壕を掘らねばなりません。

しかしここは岩石の地質、一生懸命掘っても数センチも掘れません。

「なるようになれ」と祈りながら寝転ぶしか他にありませんでした。

IIIMGが火を吹きはじめました。

また敵の来襲です。

「射手交代」と重機分隊長が叫びます。

その度に射手が死んだ事がわかります。

銃座が狙われるのはわかっていたのですが、傾斜地であるため、陣地が変えられず、機関銃は直接照準であるため敵から丸見えで、敵弾を受けやすいのです。

それに比べて、祖父の歩兵砲は間接照準もできて便利なものです。

九月十七日、雨になりました。

雨には困りました。

友軍の飛行機が援助を行えないからです。

友軍機が敵陣地を攻撃している間は敵陣地は黙っているのですが、雨が降ると全く哀れなものでした。

雨が降っても逃げ込む場所はありません。

山の下の民家は病身のK池隊長や、負傷者が多数収容されており、元気な者達が休養する余地は全くありませんでした。

祖父達は一晩中歩兵砲とともに雨に濡れ震えながら体を寄せ合い、眠りにつくのでした。

次の日も敵の迫撃砲、野砲の砲弾が次々に身近く爆裂します。

しばらくすると敵兵が山肌を埋めるように真っ黒になって斜面を這い上って来ます。

嫌な奴等だと思いました。

ラクダ山の前方のコブには大隊砲第一分隊が陣地を構えていましたが、這い上がってくる敵が意外にも強力で支えきれなくなり、砲を引きずりながら逃げ降りることになりました。

その時、同年兵のS藤がすぐ後ろに迫った敵兵から撃たれて戦死してしまいました。

同年兵のHがS藤を探しに行こうと言います。

敵兵が去った後、斜面一帯は敵味方の負傷者、死者が折り重なっていました。

やっとの思いでS藤を探し出して連れ戻します。

遠くから狙撃されながらも何とか逃げ戻ることができたのでした。

九月二十日、敵の射撃は益々激しくなります。

雨は止みました。

早く友軍機が来てくれるように祈りました。

戦友が炊いてくれた里芋で飢えをしのぎます。

芋畑はいつの間にか敵軍の攻撃目標になっており、芋掘りに出かけて戦死したものが幾人もいたそうです。

又々、敵兵が攻め寄って来ます。

「あそこだ、あそこに打ち込め」
と大隊長が叫ばれます。

分隊長は
「直接照準だ!砲口を覗いて方向を定めろ」と命じられます。

祖父は立ち上がって大隊砲の車輪を回して方向変換しようとしました。

その瞬間、目の前に迫撃砲がグワーンと破裂しました。

砲側にいた者は吹き飛ばされました。

体の右側にガクッと衝撃を感じ体がフワリと浮きます。

目の前が真っ黒になりました。

ハッと気がつくと敵兵が目の前に迫っています。

彼奴等は負傷者を銃剣で刺し殺すのです。

初年兵の誰かが祖父を引きずりながら斜面を降りてくれました。

衛生兵のY山さんがズボンを切り裂いて手当をしてくれます。

Y山さんの話によれば、W辺さん、M本さんは即死でした。

H木、H、祖父は重症、他に誰が負傷したかは把握できませんでした。

敵の攻撃の合間を利用して患者収容所に運ばれることになります。

衛生隊の人々は勇敢に担架を担ぎます。

担架の列にもピューンピューンと敵弾が飛んで来ます。

運ばれる身で申し訳ないことながら、やはり戦闘している方がズーッと気楽であると感じました。

腰のあたりが濡れてくるのは、大腿部あたりからの出血のようでした。

ボーっとした意識の中で、文通のみでまだ会っていない彼女のことが意識のどこかで浮かんだり消えたりするのでした。

担ぎ込まれた民家には、家の周囲にも負傷兵が並べられ、蝋燭の灯りで手術が行われていました。

ガス壊疽が進行すれば足を切断するより他ないとの説明を受けます。

この負傷者の収容所にまで敵襲があるため、輜重兵や軽傷者が銃を手に取り負傷兵を守ってくれるのでした。

同じ合志村出身のW辺達也さんは第7中隊に所属していましたが、手榴弾の破片を顔に受けて負傷していました。

赤チンで真っ赤になった姿で祖父を探しに来てくれ、「カライモ食ってはいよ」と芋を差し出しました。祖父は嬉しく思いました。

九月二十七日、熱にうなされ、日夜夢の中に明け暮れていました。

疲れ切った衛生兵が田家鎮が陥落したと教えてくれます。

あれほど優勢だった敵を一体どうして追い散らしたのか。

祖父の歩兵砲にしても、弾薬はあと二、三発しか残っていませんでした。

あれから一週間どうして戦ったのでしょうか。

おそらく白兵戦の繰り返しだったのだろうと、祖父は考えました。