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祖父が歩いた支那事変 〜戦場へ〜

人員の増強、弾薬、食料の補給も十分で体力も充実した9月、祖父たちの隊はいよいよ天津を出発しました。

部隊はモロコシ畑の悪路を前進し始めます。

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大部隊には国民党軍は近づいて来ないそうですが、祖父は「それでも敵地である、油断は出来ない」と気を引き締めます。

祖父は砲兵であるため、砲車、弾薬車を曳いていかねばなりません。

ぬかるんだ泥んこの道を行軍するときは必ず分隊単位で取り残されるのでした。

祖父は、江津湖や加勢川での悪路突破の訓練を思い出すのですが、ここは戦地の第一線。

体を洗うこともなければ休憩すらありません。

ひたすら歩き続けるのでした。

行き先は永定河、対岸には敵軍の陣地があり、そこを強行突破するとのことでした。

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9月14日、祖父は第三大隊砲小隊の渡河地点にたどりつきます。

祖父は堤防に大隊砲の砲座を作りました。

対岸の敵陣地までは1500m。

発射準備を終え周囲を見渡すと、見渡す限りの重火器の砲列に祖父は驚きました。

重機関銃、大隊砲、速射砲、連隊砲、山砲、重砲が60門以上も並び、今や遅しと発射命令を待っているかのようでした。

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その静けさの中で、突然ブルブルンと音がしたと思ったら、祖父の近くの工兵隊が作業しているところに敵弾がグワーンと炸裂。

渡河準備をしていた工兵数名が死傷しました。

「あぁ、戦争がはじまるのだ」
と祖父の体に緊張感が満ちてきます。

分隊長の「撃てっ!!」を合図に、祖父は自分が発射した砲弾がどこに命中したのかもわからずに夢中で撃ちまくりました。

大砲の音がまるで機関銃の音に聞こえるほどの砲撃の嵐は壮観だったそうです。

これでいかなる陣地でも完全に壊滅したであろうと思ったものでしたが、日本軍の砲撃が終わって飛び出した小銃小隊に対し、敵は対岸からチェッコ機銃で射撃をバリバリと加えてくるのでした。

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祖父は歩兵砲隊であるため、歩兵の前進に遅れてはなりません。

直ちに砲を分解し、部品を抱えて河を渡ります。

少しでも水流に流されでもしたら、重い部品と共に川底に沈むことになります。

祖父は必死で対岸にたどり着くことができました。

急いで歩兵砲を組み立て、逃げ去った敵の後を追います。

初陣でチェッコ機銃をお見舞いされた祖父は、歩兵砲の金具がチャリチャリと音を鳴らしただけで身をかがめてしまう癖がついてしまいました。

後で慣れはしたものの、チェッコ銃の弾が耳をかすめる音は実に嫌なものだった、と語っています。

永定河を渡った次の日、祖父は泥んこになりながらも友軍の後を追いかけていました。

とある村に近づくと何やら物凄い銃声が聞こえてきます。

静かになったので部落に入ると、「日軍歓迎」の旗が立ててありました。

話によると、この村は住民そのものが支那軍の便衣隊であって、この部落に入ってきたS場中尉の部隊を旗を振って歓迎し招き入れ、少数の部隊だと判明すると急に襲いかかってきた、という事でした。

しかしS場中尉はたちまちにしてこれを鎮圧したそうです。

「便衣戦術」とは、支那事変において支那国民党軍がとった戦法で、民間人を装って攻撃を仕掛ける戦術です。

民間人を偽装した戦闘員の事を「便衣兵」と呼び、これは国際法違反の為、捕虜となっても処刑されます。

ハーグ陸戦条約では民兵や義勇兵の交戦資格を認めてはいるものの、「公然と武器を携帯している事」が条件とされており、便衣兵は「犯罪者」として処分されるのです。

支那軍は女子供にまで武器を持たせて、民間人の振りをしては日本軍の背後から攻撃を仕掛けてきました。

日本軍は、誰がどこから攻撃してくるのか、一体誰が敵なのかもわからない恐ろしい戦場で戦っていたのです。

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天津で編成された時は不調和の気配があった祖父の部隊も、数日間の戦闘で「死なば諸共」という一致団結の気持ちが作られてゆきました。

そんな中、最初に敵弾に倒れたのは同年兵のH道でした。

畑の中を行軍中に敵襲を受け、祖父の目の前でバッタリ倒れ、そのまま小隊で初めての戦死者となりました。

観測の名手でした。

その後も、かつて練兵場を共に走り回り、世話をしていた軍馬「勇完号」が首を打たれて死亡する別れもありながらも敵の陣地を一つ一つ潰して行きながら行軍し、やがて最終目標は「保定」である事を知らされます。

保定には敵の軍官学校もあり、随分と堅固な城だという事でした。

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保定城に近づくと、昼も夜も戦闘が続くようになりました。

保定城の城壁には友軍が波のように押し寄せており、その姿はなんと豪勢な事か、満潮のように敵に攻め寄せていくのです。

祖父は城壁の下に敵陣を発見、これを叩くべく敵前800mの地点にまで前進すると、なんとその先にはすでに観測将校が電話線を引いて観測しているのでした。

それを見て我が軍の砲撃が正確な理由が理解できたそうです。

しかし敵の反撃も凄まじく、祖父は死を覚悟する瞬間もあったそうですが、突然パッタリと攻撃が止みます。

小銃中隊が突入に成功したのでした。

入城してみると、現地住民が日本軍を出迎えてくれました。

敵兵は影も形もなく、退却したのか便衣になったのか、祖父は「見事である」と思いました。

保定市から南下すると滹沱(こだ)河という大きな川が流れており、その対岸には敵軍の大部隊が日本軍を待ち受けていました。

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十月十日、祖父は小隊長K池中尉に呼び出され、
「気の毒なことではあるが、工兵隊に協力して敵前渡河の準備をしてくれ」
との命を受けます。

これはいわば決死隊であり、命を落とす危険性の高い作戦でした。

指示された場所に行くと、若い兵ばかりが集っており、工兵はすでに鉄舟を組み立てていました。

重い鉄舟を数人で持ち上げ、敵に面している堤防の斜面を一気に駆け下ります。

たちまちにしてチェッコ機銃のお見舞いを受け、だれかが「ウーッ」と声を出します。

次は「ワーッ」と叫び声も聞こえます。

声が聞こえるたびに一人分の負担が肩に食い込んでくるのでした。

水際まで来て舟をジャブンと投げ込めば、工兵がひらりと飛び乗って舟をつなぎ合わせます。

橋を作るようでした。

祖父は剣道の「間の取り方」を戦場で発揮し、敵の攻撃の呼吸を読んでは安全地帯へ帰ることができました。

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友軍の戦闘の結果、滹沱河を悠々と渡ることができた祖父は、次の攻略は「正定」「石家荘」だと張り切っていたのですが、そのどちらも既に友軍が既に占領しており、祖父の部隊は石家荘郊外の「趙県」に駐屯し、警備することになりました。

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この辺りの農家では綿花を小屋にうず高く取り込んでおり、祖父は綿花の山の上に寝転ぶのが好みであったようです。

分隊の仲間が見つけ出して来た、土民が隠していたチャン酒を嗜んでいると、程よく酔いが回ってきた同年兵のY沢が歌を歌ってくれるのでした。

綿花の上に寝転んで、彼の体のどこからそんな声が出てくるのか、女性の如き美声が静かに北支の夜空を流れるのでした。

『夏の涼は両国で 出舟入舟八方舟』(曲名・縁かいな)
「女が来とると思った!」
とそっと覗きにくる兵隊、あるいは思わず涙を流して故郷をしのぶ兵もいたわけでありました。