負け犬の遠吠え 支那事変15 ニイタカヤマノボレ
南部仏印進駐によって日本とアメリカの関係は決定的に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結と、石油の禁輸を実行しました。
極限にまで追い詰められ、もはや開戦は避けられない状況となった日本でしたが、最後までアメリカとの戦争を回避する道を模索していました。
1941年8月、この状況に流石にまずいと思った近衛首相は日米開戦を避けるべく、自ら「フランクリン・ルーズヴェルト」大統領と会談する事を決意します。
日本とアメリカの交渉はこれまで何度も行われていました。
当初は「支那事変和平交渉の斡旋」や「日米関係の改善」などが目的だったのに、もはや「戦争するのか、しないのか」という抜き差しならない状況になってしまっていたのです。
「野村吉三郎」駐米大使によって、首相の面会意思はアメリカ国務長官「コーデル・ハル」へと伝えられますが、大統領は大西洋会談で不在だったため、冷ややかに断られてしまいました。