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負け犬の遠吠え 大東亜戦争59 沖縄の戦い⑥シュガーローフ は甘くない

沖縄県那覇市安里には、すり鉢をひっくり返したような丘陵があり、日本軍はこれを「すり鉢丘」、米軍は菓子パンになぞらえて「シュガーローフ 」とそれぞれ呼びました。

ここは那覇市街を守るための最後の要衝であり、日本軍が予備兵力や砲兵をつぎ込んだ為に沖縄戦最大の激戦地となります。

現在でも掘り起こせば砲弾の破片や人骨が出てくるこの地は再開発が進み、配水池としてかろうじて丘の姿を残しているのみで、誰も気にとめる者はいません。

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シュガーローフ の南側は「ホース・シュー」と呼ばれた馬蹄形の斜面になっており、ここに日本軍は迫撃砲陣地を構えました。

また、東側には「ハーフ・ムーン」と呼ばれた丘があり、古い沖縄式墓地を利用して豪が掘られ、いくつもの通路で連結させていました。

このようにしてできたハーフムーンの地下陣地は、地下通路を通じてシュガーローフと通じており、違いに連携して戦う事ができました。

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5月12日、第22海兵連隊第2大隊がシュガーローフ付近へ到達、戦車小隊の支援の下、E中隊、G中隊が攻撃を開始します。

日本軍はこれに対し猛烈な射撃を加えたため、E中隊の進行は停滞しました。

予定通り進軍できたG中隊もこの日だけで2人の隊長が負傷後送される事になり、夜を迎える頃には3人目の隊長になっているという異常事態に陥っていました。

地雷により戦車2両が撃破され、第二大隊は撤退命令を出さざるを得ませんでした。

この日だけで、G中隊は戦力を75%にまで低下させてしまう事になります。

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5月13日、米軍は艦砲射撃、地上砲火、航空爆撃などあらゆる火力を用いてシュガーローフ を攻撃、その支援下で戦車部隊による進撃が行われました。

日本軍の戦車殲滅隊は勇猛果敢に戦いますが全滅、陣地を突破されてしまいます。

しかしその戦車部隊も3方向からの攻撃に遭い、まったく身動きが取れなくなってしまいます。

2日前まで215名いたはずのG中隊はこの日の戦闘が終わる頃には50名にまで減っていました。

E中隊、F中隊は連隊本部でも状況が把握できなくなってしまい、米軍は混乱します。

この日の戦いを見ていた米兵は「刈り取られる草のように兵士が倒されていった」と証言しています。

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5月14日、第22海兵連隊第2大隊は、残存兵力による総攻撃を行います。

日本軍の激しい反撃により兵力はみるみる減少していきましたが、なんとかシュガーローフに到達、稜線を挟んで手榴弾の投擲合戦が行われる壮絶な接近戦が展開されました。

5月15日、シュガーローフ稜線付近に張り付いている部隊を救援すべく、米軍第29海兵連隊D中隊が向かいます。

米軍はコックや会計担当の兵まで戦線に投入せねばならない程の状態であり、このままでは戦線崩壊する恐れもありました。

結局、稜線にたどり着いたD中隊第3小隊も日本軍との手榴弾合戦に巻き込まれ、350発あった手榴弾はあっという間になくなってしまいます。

この小隊は当初60名いたのですが、わずか1時間半で11人にまでになっていました。

この日の午後3時、米軍海兵連隊は撤退を完了、シュガーローフから姿を消しました。

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日本軍は周囲の丘からシュガーローフ に張り付いている米軍に側方から射撃を浴びせていました。

そのことに気づいた米軍は「ハーフムーンを占領することが、シュガーローフ攻略の鍵になる」と考えたのです。

5月16日、米軍はシュガーローフ とハーフムーンの同時攻撃を行います。

鉄道の切り通しだけが、シュガーローフ とハーフムーンからの射撃を避けられる場所でした。

米軍はここを通って戦車大隊をハーフムーンの麓へ送り込みます。

しかしいざ掩体を掘ろうとすると、周囲の洞窟から手榴弾が投げ込まれ、大隊は生存者60名全てが負傷するという多大な損害を被り、日没前に撤退を開始しました。

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ハーフムーンに友軍が到着したのを確認した米軍はシュガーローフへ同時攻撃を行いましたがこちらも結果は同じ、日本軍の反撃によって戦車は撃破され大打撃を受け撤退することになります。

第22海兵連隊は戦闘能力を40%にまで低下させ、もはや作戦遂行能力を失っていました。

米軍第6海兵師団は「連隊は全力で攻撃したが失敗に帰した」とその失意を記しています。

5月16日は、沖縄作戦最悪の日として記録されたのです。

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5月17日、第29海兵連隊はハーフムーンへの攻撃を開始します。

しかしこの日も変わらず日本軍の反撃は壮絶なもので、米兵達は立ち上がるだけで忽ち正確な狙撃を受けてしまい、全く身動きが取れなくなりました。

A中隊は「荒波の中で岩につかまっているような状態」となり、前進するどころか攻撃目標を指示する事すらできず、同士討ちも発生しました。

A中隊はパニックに陥り独断で撤退を開始、米軍の前線は後退を余儀なくされます。

シュガーローフ方面の攻撃においても戦果を残せず、ハーフムーン・シュガーローフの同時攻撃は挫折する事になりました。

5月18日、これまで米軍の猛攻を退けてきた日本軍も流石に戦力の低下が否めない状態になっていました。

対戦車網jは消耗し、正規兵ではなく義勇兵の姿が多く見られるようになりました。

米軍は、ハーフムーンに面してしないシュガーローフの「西側」から攻めるという、最後の賭けに出ます。

米兵達は前日までの戦闘でバラバラになった戦友達の遺体を踏みつけなければ前進できないほど、シュガーローフの斜面は遺体で埋まっていました。

この日、米軍は遂にシュガーローフの頂上に到達、ホースシューからの砲撃による反撃を受けながらも、反対側の斜面の陣地を破壊して南進していきます。

5月20日、米軍はホースシューの制圧に成功、シュガーローフを完全に攻略する事になります。


しかしハーフムーンは日本軍が首里から撤退する5月31日まで陥落する事はありませんでした。

海兵隊員達はここでようやく、この地区の防御機構の核がハーフムーンであった事に気付きます。

シュガーローフを最大の攻撃目標に定め、小兵力を逐次投入するというミスを海兵師団は犯していたのでした。

米軍海兵隊員の死傷者数は2662名、戦闘疲労患者は1289名にも達しました。

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