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#1 乗り掛かった舟


   17歳の春、指で言葉を追っていただけの人との邂逅が、後の自分にとってありふれた日常も、訪れる煩わしい事柄も全てが例外なくいとおしく、それでいて年輪を重ねながらも中心のない、空洞化した愛すらも特別なものになろうとはその時まだ、想像していなかった。

   2008年春、つばめきたる日に高校へ進学した。姉と同じ国際高校に行くことを諦め、東京の郊外に隣接する祖父母の住む町にある高校を選んだ。中高一貫のキリスト教系の学校だったが、冬に参加した礼拝で聴いた女性の歌声に惹かれ、賛美歌も悪くないな。と思っていた。
真新しい制服を着た生徒たちがそわそわと校門をくぐり、校舎の前に集まっている。そこに置かれていた1枚のプリントには、新入生の名簿、クラス、下駄箱の番号など全てが書かれていた。膨大な情報量のなか、逆から自分の名前を探し、

平子….比奈木…菱川…樋口…
伴 以おり 普通科B
ようやく自分の名前を見つけ、教室へ向かう。
月日は流れ、何ら変わりのない普通の女子高生として過ごしていた。友人との日々、くだらないけど可愛い男子高生のノリ、中学生の時に好きだった子の目線を知りたくて1年間だけ所属していたハンドボール部、憧れの先輩、勉強もそれなりにやりながらも山奥の厳しい冬を超え、暖かい気候へと向かう。

年度の終わり、クラス発表を迎え普通科の中でも進学に向けて選抜されたAクラスに自分の名前があった。仲の良かった百合とはクラスが別になってしまったが、万智と恵麻と同じだった。特に万智とは一緒に居ることも多く、学校の情報通でのんびり屋の私がぼーっとしていても様々な事を教えてくれていた。その見返りと言ってはなんだが真面目すぎる彼女をいかにして楽しませて、笑わせてあげるかを、高校生活の小さなテーマの一つに掲げていた。あまり広く交友関係を持っていなかったし、選抜クラス、なんだか息が苦しくなりそうだ、と思いながらも辺りを見回した。
そこには木村の姿があった。賛美歌を歌っていた女性の弟だ。木村は地元が一緒で、モテる2トップの1人としてマラソン大会があれば2人のどちらが1位になるかで話題がもちきりになるほどの男でー私は流れに反して色白の男の子が好きだったがー女子たちに惜しまれつつも中学で私立に進学していた。離れてからも木村とは地区が近いこともあって中学に入学したての頃にお互いのブレザーとネクタイを交換して着てみたり、時折メールをする仲であったが、こうしてまた同じ制服を着て同じ空間にいることが不思議で面白かった。彼もまた2年生から選抜クラスに入ったにも関わらず、瞬く間にクラスのムードメーカーになっていた。

日々を重ね、想像とは裏腹に朗らかなクラスのなかで、私は明るい子と仲良くしながらもどこか大人ぶった落ち着いた生徒だった。そんな雰囲気からか、初対面で膝の上に座る猫のような女の子もいた。男女がそれぞれ、適度な距離を図り、模索しながらも集団のなかで自分の存在を表出している様子をどこか遠くから眺めているようだった。

   高校生活を送るうえで女子高生の一番の醍醐味はきっと恋愛なのだろう。ただ、私は【興味があって話してみたい人】【好きな人】【付き合いたいと思うほど好きな人】このそれぞれの気持ちの間にはすごく壁があったが、そんな中で限りなく好きに近く、すごく興味のある人がいた、同じクラスの慧くんだ。

慧くんとは遡れば部活が一緒だったのだが、特別話をした記憶がなかった。
部活の男子たちはみな男子高生らしく健全で、集まればいかがわしい話ばかりしていたし、合宿へ行った際に女子たちが部屋で恋愛話をしているとドアから聞き耳を立てているような、愉快な人たちであったが、やけにつっかかってくる樋口という人を除いて、あまり話をすることはなかった。
慧くんはそんな仲間やクラスの中にいても春風駘蕩としている姿に次第に興味を持つ私がいた。

少しずつ親交が深まりお互いの共通の話題であるサッカーの話を中心に、偶然にもW杯イヤーと重なり特集雑誌の貸し借りや、試合を観ながら深夜にメールをすることもあった。
教室内、2人で話をする事はほとんどなかったが、他クラスと合同の選択授業で私が慧くんの席に座る事があった時期には机上で一言ずつ会話をするような小さな喜びを感じながらも、自分の中で感情をずっと問い続けていた。
冬、バレンタインが近づき、私は友人と慧くんにあげることにした。それに伴い初めて自分の感情をいつも一緒にいた万智と鈴香、愛衣、七海に打ち明けておく決心をする。

“私、バレンタインの日に慧くんにチョコあげるね。”
“いおりすはそうだと思ってたよ”
“なんだかこっちがどきどきしちゃうね”

その言葉通り自分よりもどきどきしている様子の友人が後ろから眺めつつ、放課後の教室で他愛のない話をするふりをしながら渡した。好きな人に渡すことは初めての事ではなかったが、少しばかり緊張した。その後のカモフラージュのつもりで仲のいい男の子にも渡したのが木村に見られてしまい、しばらくの間面倒な事になったが、3月も過ぎ、滞りなく一連のイベントを終えた。ただ、友人に話した瞬間から、どこか自分の中で感情が綿毛のように散り散りと舞い、軽く感じるようになっていたのを自覚しながらも、一度言葉にしたものを簡単に手離したらいけないと頑ななプライドに縛られながら、3度目の春を迎えた。



―猫は今日も膝の上にいた。名前はことこだ。
彼女は人懐っこく、可愛らしい一面もありながら、ギターを掻き鳴らしバンドのボーカルを務めていた。メンバーの名前は聞いていたが、面識のない人だったので気にも留めず、バンドとしてではなく彼女のそばで歌声を聞いていた。
ある時、学生の中で流行っていた前略プロフィールを何気なく辿っていた時に見覚えのある名前にたどり着いた。

比奈木 優

ことこが組んでいたバンドのベーシストだ。どんな人か知らなかったが、“ゆう”という名前であることと、ベーシストであること。それだけで、私の中で興味があるに十分値する存在だった。ページの最後にはブログのリンクがあり、それからというもの、少しずつ言葉を追っていく日々を重ねた。その中で実は隣のクラスに居ることを知った。隣のクラスとは選択授業で一緒になっていたが、私が受けていた授業にはいなかったはずだ。しかし教室をお互い行き来するなかですれ違っていた事が自分の気付かないうちに幾度となく訪れていたことにドキリとした。そしてその日は突然訪れ、いつものように選択授業を終え、自分のクラスの授業が終わるのを待って、自分の席に戻った。教室に人がたくさんいる中で誰かが“ゆう”と呼ぶ声が聞こえた。その声に反応した人こそが比奈木くんであることは、確かめなくても解った。

それからの日々も変わらずに進み、すれ違いながらも私は言葉だけを追い続けていたが、ある日ことこと廊下で話をしていた。教室と教室の間くらいの位置に寄りかかりながら会話をしている最中にふと隣のクラスに目を向けると、その目線の先に見える一列の中に比奈木くんがいた。話を続けながらも彼の方に目線を向けていると、彼は顔を上げ、一瞬だけ、目が合ったような気がした・・・。

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