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「お茶にしよっか。」

自分の好きなところをあげるとすれば、ささやかなことに幸福やときめきを感じるところと真っ先に答える。
つい3,4年前までは、震えるような情動や激しいうねりに心惹かれる習性があったのだが、そんな瞬間だって日々のささやかな幸福を基盤としていたはずだ。私はささやかで幸福なときめく営みのうえに立っているということを、無意識に認知し、当然のこととして享受していた。あえて着目するようなものではないと判断するほどには当然に。

そんな私も、たくさんのアイデンティティを揺るがすことに直面し、私を構成するすべてのささやかな営みに目を向けざるを得ぬ状況になったのだろうか。私が世界の中心だという万能感から脱皮した青二才は、たくさんの幸福に気づくようになり、そしてまたその気づきを幸福だと感じている。

そんな私には大好きな瞬間がある。
休日のリビング。私はソファで大好きな作家の新作を夢中で読み耽っている。少々だらしない格好なのは許してほしい。父はパソコンと向かい合ってなにやら書類を作成している。おっかしいな、なんでや、などと呟きながらプリンターと格闘中だ。最近うちのプリンターは機嫌が悪い。兄は自分の部屋でゲームをしているか、お笑いを見ているはず。盛大な引き笑いが聞こえてきたので、今日はお笑いだ。

すぐそばに人がいるのに、誰もそんなことには気にもとめず、もくもくと自分の世界に没頭している空間。
この真空状態を解き放つのは、いつも決まって母の声だ。
「そろそろお茶にしよっか。」

熟読していた雑誌をパタンと閉じて、コーヒーやお菓子の準備をはじめる母につられ、私もほっと息を吐きだす。
授業終わりのベルが鳴ったと同時にふわりと緩んで、やわらかみを帯びだすあの空気と同じだ。

母の声を聞きつけた兄もトン、トトンと軽快に階段を降りてくる。
みんなが内側にため込んで張りつめてぴんぴんにしていた呼吸を、いっせいに解放して寄り集まってきたリビングの空気は、透き通った紅茶の色をしている。

ここは私の居場所。
これみよがし名札つきの席が用意されているわけじゃない。
どこに座ったって、どこに寝ころんだっていい。走り回っても、踊りだしても、この空間は私を包み込む居場所だ。

帰ってくる場所があるという絶対の安心感を抱いて。
荒れ狂う大海原の情動に心痺れるもよし、小さくあたたかい灯に心うたれるもよし。
疲れたときは、お茶にすればいいんだからね。