見出し画像

メメント・モリとヴィータ 死と生を思いながら生きろ

死を想えーメメント・モリ

メメント・モリという言葉は、ラテン語の有名な名言ですね。直訳は「自分がいつか死ぬことを覚えていなさい」という意味で「死を想いながら生きろ」「自分がいつか死ぬことを忘れるな」というような意味合いで使われる言葉。歴史的な背景は色々とあるようですが、西でも東でも知の先人たちは昔から、人は必ず死ぬのだから生に執着せず今を生きなさいと言っています。

明日でいいかと思う人間の不思議

私たちは自分がいつか死ぬことを知っているはずなのに、今日と同じような日が明日も明後日も続いていくかのように確かに生きています。「明日が来るなんて必ずしも言えないのに」とも思うけれど、どうやっても明日は同じように来るとやっぱり思っている。今日やった方が良いことが目の前の手の届く場所にあるけれど「明日でいいか」と思ってしまう不思議。

明日はくるの?本当に?

誰も知らないのにこれだけ信じていられるというのもよくよく考えるとすごいことですよね。 みんな数十年後の自分の老後が幸福であることは信頼できないけれど、明日がくることには全幅の信頼を寄せているように思えます。なんだか面白いことです。

ピンチやリスクというものに恐れを抱く人間だからこそ、そういうものに目を向けることは極力少ない方が良いと潜在的に思っているのでしょう。命を守るためには向き合うべきことだろうと思いますが、生存という意味で比較的安全が担保されている現代では向き合うメリットが見出しにくいという現状があると思います。

けれども、死というものはやはり人にとってはわからないし、事故とか病気とか事件とか、何か暗い印象を与えてくるものであるのはということは否めない。そういった点で、やっぱりわたしは死を恐れて生きているということなのだろうなと、いつもこういった話を考えると思います。

さて、今日はもう一つの言葉メメント・ヴィータについてもご紹介します。わたし自身は死をいつも想いながら生きるというのは好きな生き方ではありますが、わたしがメメント・モリという言葉を折に触れて思い出したくなるのは、それと陰陽のようにセットになった言葉があるから。それがメメント・ヴィータ。

生を想えーメメント・ヴィータ

メメント・ヴィータの直訳は「生きることを忘れるな」となるそうです。memento vivereと書き、ヴィータと書きましたが、vivereはウィーウェレと発音するそうです。一般的にメメント・ヴィータと呼ばれていることが多いようなのでそのままメメント・ヴィータと書いていきます。

「生」にフォーカスした言葉

メメント・モリが「死を想え」と「死」にフォーカスしていたのに対し、メメント・ヴィータは「生を想え」ですから、実際にこの言葉を口にしてみると、今ある「生」にフォーカスをする体感が生まれます。言葉っていうのは不思議で、その言葉を語る者や聞く者に何かしらのインパクトを与えてくれますよね。なるほど。確かに「生」にフォーカスすれば今ここを目一杯楽しみ生きる力が湧いてくるように感じます。とは言え、わたしにとってはどちらの言葉も生死の存在を感じさせてくれる言葉で、陰陽の法則をここに感じるのです。

メメント・モリとヴィータを英語にすると

mementoは「記憶している」という動詞 memini,-isseの命令法、能動態、現在、二人称単数の言葉です。メメント・モリは英語だとRemember your deathとなります。「死ぬことを忘れないで」「死ぬことを覚えていて」という印象になるなと感じるのですが、ということはメメント・ヴィータはRemember your liveでしょうか。「生きることを忘れないで」「生きることを覚えていて」

モリとヴィータの訳から感じる「今」というインパクト

「いつか死ぬことを忘れないで」と言われると、その「死」という言葉の裏に存在する「生」をやはり感じるわけで、今生かされていること、今生きていることを大切にしたいなと思えてくる。

これはやっぱり死と生というものに対する人(わたし)の価値観が影響しているのだと思います。わたしたちは生きている限り、自分で死を経験することは死ぬ時までないわけで、どうやっても死を恐れて生きていく。恐れているが故に、普段は死なんて自分には関係ないかのようにふるまってしまう生き物で、だからこそ死という状況に近づけさせられると嫌でも生を感じるのでしょう。

そして、「生きることを忘れないで」と言われると、「今ここ」という感覚が強く浮かび上がってくるように思います。「今ここにある生を楽しもう!」的な。そんなエネルギーというのかな。そんな感じがするのはわたしだけでしょうか。

モリとヴィータにみる陰陽の世界

法則として言えば陰陽のエネルギーの割合は1:1となるはずだけれど、この割合は常に揺らぎながら均衡を保とうとしています。普段は陽の方がナチュラルに強く反映されるけれど、陰の力はある瞬間、フォーカスが当てられるとその力が増幅しやすい傾向にあると思っていて、普段は「ない」くらいの感じで扱われることが多いけれど(または抑圧されている)、一度認識されると強烈にインパクトを持つ、そしてある時にはその裏で対応する陽の存在も同じく強く認識されることがあるという印象があります。

当たり前の有り難みを忘れる人間

例えば普段元気な時はなんとも思わないけれど、骨折をしたら当たり前に歩けたことに有り難みが増したりとか。そういうことってよくあると思うのです。わたしたちは普段当たり前ですが息をしていて、もう本当に普通に息してるわけだけど、溺れたら空気があることの有り難みを知るわけで。普通に生きてるわたしと、溺れた直後のわたしなら、絶対に溺れた直後のわたしの方が酸素に感謝すると思います。

先ほど書いた「陰の力はある瞬間、フォーカスが当てられるとその力が増幅しやすい傾向にあると思っていて、普段は「ない」くらいの感じで扱われることが多いけれど、一度認識されると強烈にインパクトを持つ、そしてある時にはその裏で対応する陽の存在も同じく強く認識されることがあるという印象があります。」というのはそういう感じで、生死の中に存在する陰陽のイメージもそんな感じ。

生は常に当たり前にあるかのように私たちは振る舞い、当たり前すぎて「ない」ものになっているからこそ、「メメント・ヴィータ(生を想え)」という言葉で今ここに在るものを強く認識させられる。

生きろ!楽しめ!」

と言われている感じ。

そして、死は常に見ないようにしているものだからこそ、「メメント・モリ(死を想え)」という言葉で死を認識した瞬間、今生かされていることを思い出す。

「いつまでも命があると思って生きてるんじゃねえ!」

って言われてる感じ。

これも今ここの感覚。どちらも強く「今ここにある命、人生」を強くフィードバックさせてくれる言葉であると思うのです。

今ここに生きられないわたしたち

それほどにわたしたちは「今ここ」にすら生きておらず、ふわふわとこの世界を彷徨い続けているのかもしれません。こんなに生きてるのに。みんな悩んだり笑ったりしながら生きてるのに、それでも死んだように確かに生きていて、生きる意味もわからず悩んでいる人も多いです。かつてわたしもそうだったことを思うと、なんとも言えない心もとなさがあります。

いつこの迷路に迷い込んだような感覚から抜け出せるのかと思っていたなぁと。今ここを楽しんだり、今ここを生きるということよりも何かこの迷いこんだ場所から抜け出したかったような、何かしっかりとした答えがほしかったような、そんな感覚が大きかった若い頃を思うと、今は幾分か地に足つけて人生を楽しめるようになってきたかなと思います。それと同時に、あの頃の自分と同じような、またはそれ以上に悩み苦しんでいる人もたくさんいるのだということも日々感じます。

メメント・モリ、メメントヴィータ、どちらもとても素敵な言葉だと思います。生と死を思う心が、みんなが豊かに生きていく力となりますように。

いつもありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?