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ありのままを観る難しさ

「ありのまま」
実際にあった通り。事実のまま。ありてい。
ざっとこんな意味である。

言葉で言うのは簡単なのだが、自分以外の他者や出来事に対して、「実際の事実をそのまま受け取って観る。」という行為は、本当に難しい。

人間だれしも、それぞれの主観の中で生きている。
生育過程や経験、得てきた知識など人それぞれ。
だから同じ人を観ても、同じ出来事を観ても、人それぞれ解釈が異なる。
まさしく、百人百様。

ある人は批判的に物事を観る傾向にあるかもしれない。
またある人は共感的に物事を観る傾向にあるかもしれない。
人によってその反応も様々だ。

判断基準もいろいろ。
「好き、嫌い」「良い、悪い」「正しい、間違い」etc

必ず誰しもが他者や出来事の事実に対し、意味づけをして観ている。
いわゆる色眼鏡。(偏見や先入観など)
これ自体は当たり前であり、無い人はいない。

ただここで一点問題がある。
あくまで主観で観ている為、ありのままの本当の姿を見誤る可能性があるのだ。

そして、それだけではない。
他者や出来事に対する判断や解釈が何らかの反応を生み、それによって自分が悩みを抱えるようになってしまうこともある、ということだ。

例えば、ある人を観ていつも怒っている人がいた。
このある人は、性的に奔放な人であったのだが、その人はある人に対しいつも嫌悪感を露わにしていた。
第三者であったわたしは、「なぜそこまで怒るのか?」と客観的に見ていたのだが、どうにもその怒り方が一方的で過剰であったので、ある時理由を聞いてみたことがある。

そこで分かったこと。
自分が自分に対して禁止している事項を、相手が目の前でやっていたからである。

その人の持っていた、いわゆる信念。
「性的に奔放であってはいけない。」
これがあったのだ。

この思いを持つに至った理由も聞いているが、そうなっても仕方ない経験をしていた。

人は「自分がやってはいけない。」と自分に課した禁止事項を平然とやってのける人に対して、怒りを覚える。
自分はやってはいけないことなのに(思い込みや信念)、なぜこの人は平気でそれをするのかと。

自分で勝手に反応して苦しんでいる状態だ。

そうなると、事実はどうでも良くなってしまう。
この場合だと、ありのままの事実は「単なる性に奔放な人」であって、そこに良いも悪いも存在しない。
ましてやその人が性的に奔放であろうとなかろうと、この怒っている人(第三者)には全く関係ないことである。

でも、気になって気になって許せないのだ。

これについては、後日わたしの方で施術を行ったところ、本人が「気にならなくなった。」と喜んでいたので、やはり本人的にも持っていたくない感情(反応)だったのだろう。

そして今回、なぜ「ありのままを観る。」ことの難しさを記事に取り上げたのかというと、この件も含め、自分の他者に対するある傾向に気づいたからだ。

自分では自覚していなかった傾向。

「相手に期待する。」という、無意識のわたしの思い。
そして、「相手に自分の思い通りになってほしい。」と無意識に願っている自分に気づいたからだ。

「自分が勝手に期待している。」と言った方が正しいかもしれない。

実は普段のわたしは、あまり人に助けを求めない。
それは、「これまで困難なことは自分で解決すべきである。」という、いわゆる信念ともいえる考え方を、10代の頃から持っていたからだ。

この信念に気づいてからは、「生き方をつらくするだけである。」ということに気づいて、今では大分考え方が柔軟になったが、そのような頑なな部分があったので、他者に対して期待はないものだと、自分では思っていた。

でも違っていた。
自分に近い人たちに対しては、勝手に期待して、その視点で事実を歪めて見ていることに気づいたからだ。

そうなるとその事実に対し、自分が勝手に期待し、期待通りにならないと悩み苦しむ。
思い通りにならないと、不安なのだ。
このように相手には関係なく、自分の中で苦しみが生まれてしまったのである。

当然、この苦しみは相手には関係ない。
あくまで自分のこころの中で起こっていること。

よくよく考えると、思うとおりにならないというその事実をありのまま認めてしまうと、自分が不快な思いをするから、事実を歪めて観ているに過ぎないのだ。

相手にとっては迷惑な話である。

ではどうしたらよいのだろうか?

わたしの場合、まずはじめに、何を思っているのかを淡々と認識するようにしている。

「あー、こういうこと考えているんだな?」という感じで淡々と。

そして、そう思っている自分を否定せず受け入れる。
ここでその思いが不合理であっても、とにかく否定しない。

その上で、
「もしその事実に対する自分の主観がないとしたら、ありのままの相手(ありのままの出来事)はどんな感じ?」と自答するようにしている。

このように一旦自分の感情を認め、それから再度事実を観るようにしているのだが、これをしだしてから、かなり客観性が上がったように感じている。

当然、全部の主観を排除しきれないが、相手に対する期待度合いが下がったのだ。
それと共に、自分が感じていた不安感も減ったように思う。

この時、相手は一切変わっていない。
相手は最初から同じ、しかしそれを観ている自分の視点が変わったのだ。

物事を俯瞰する。

「言うは易し、行うは難し」である。

そして、事実をありのままに観ようとするとき、自分のこころの在り様も、ありのままに認めることが必要なのかもしれない。




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