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年を重ねていく自分を心地良く表現するファッション

少し前、ディズニーが実写版リトルマーメイド(つまり人魚姫)のアリエル役に、姉妹R&Bデュオ「クロエⅩハリー」のハリー・ベイリーを抜擢したことが話題になった。

なぜ話題になったかというと、それは、おなじみ1989年のアニメ版では赤毛&白い肌で描かれていたアリエルを演じるハリー・ベイリーが、黒人だったからです。

批判をしている人々は、人種差別という意味ではなく単純に、実写版は登場人物の見た目を原作に寄せるべきだ、という意味で怒っているらしい(表向きにそう言っている人も中にはいる)。

特にディズニーのプリセンスたちは、女の子にとっての永遠のアイコンであり、そのイメージを壊すのは夢を壊すのと同じ、と憤慨している人が多い様子。とはいっても、実在した人物の話を実写化するのと違い、人魚姫のような架空の人物を描写する場合、どの人種が演じても物語として成立するし、そもそもの原作はアンデルセンの書いた本なのだから、あの赤毛のアリエルが唯一正解のアリエルというわけではないのにね。

子どもが触れる物語、人々、目にする画像、映像に、その子自身が身近に感じられる人々が登場することの大切さ、というのは言われて久しく、アメリカの学校では読み聞かせに選ぶ絵本の登場人物、教科書の挿絵、廊下に貼るポスターの写真などに様々な人種、文化的背景、身体的特徴などを投影するように注意を払うのがお決まりになっています。

お姫様は必ずしも白人である必要はないし、成功しているっぽいビジネスマンも背の高い白人の男性である必要はなく、スポーツをしている人の写真がアジア人であってもいいわけで、黒人が大統領であっても良いのです(その意味でも大統領としているだけでオバマさんの与えた影響というのは、大きかった)。

障害のある子も絵本の中の登場人物の一人として(障害にスポットライトが当たらない形で、ただの一人物として)登場するべきだし、ヒジャブを被ったイスラム教徒が近所の家族として描写されたり、ゲイカップルを両親に持つ登場人物が当たり前に存在する世界、そういう物語に小さい頃から触れることで、この世界に自分が(そして誰もが)属しているということ、属していて良いのだということ、そして誰もがどんなことでも成し遂げ得るのだということを感じながら成長していける、ということがとても大切なのです。

自分を投影するイメージを見るだけで、学びのパフォーマンスも上がるという研究もあります。女性科学者の写真を使用している教科書を使ったクラスでは、女子の科学の成績が男性科学者の写真しか使用していない教科書を使ったクラスよりも上がる、など。

自分を投影できるアイコンの存在というのは、子どもだけじゃなくいくつになっても大切で、四十代の私にとっても、そのようなアイコンというのは、この世界に属している安心感を与えてくれるだけじゃなく、これから目指す未来を照らしてくれるランタンのように、足を一歩先に進めやすくもしてくれます。

そういう私の近頃のアイコンは、その名も「Accidental Icon(偶然のアイコン)」というブログを書いておられるフォーダム大学の元教授、Lynn Slater (リン・スレイター)博士(67才)。

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今や多くの大人の女性にとってのアイコンとなったスレイタ―博士、とってもファンキーでいて上品、自分の個性を表現するアイデンティティの一部としてファッションを有効に使っておられ、流行や社会の形作る、こんな年頃のこんなあなたはこんな服を着ましょう、みたいなルールに縛られず、堂々とカッコよく、それでいて不思議とキツさが滲み出ることもなく、文句なしで様になっている。

スレイタ―博士曰く、女性を固定観念で束縛したり、女性から自由を奪うものとして語られがちなファッションを、固定観念や束縛への叛逆の手段として使えば、女性の生き方あり方にもっと幅広い選択肢を与えるツールにもなり得るのだ!そうです。(スレイタ―博士、どこまでも着いて行きます!と叫びそうになります。彼女の理念の真逆を行く姿勢でアレですが…。)

この年頃の女性なら、こんな格好、髪型、メイクをした方がよい(働きやすい、コミュニティに受け入れられやすい、愛されやすい)、に始まり、ノーブラで外を歩くな、ノーメイクでお得意様と会うなど失礼だ、などなど、男性と比べても女性に対しての方が厳しめのルールが数多く存在し、

そのような規定から外れた人は損をしたり、奇異な目で見られたり、排除されたりする社会において、自分の存在感を自分で決めるアイコン(象徴)としてファッションを使うことで、その束縛をほどき、もっと自由に、もっと多様な発想で生きられる社会を作っていきましょう、というようなことを提唱しておられるスレイタ―博士。

ところで、スレイター博士は実は服飾や美術系の専門家ではなく、社会サービス学、社会正義学(ソーシャルジャスティス)の教授であります。特に子どもの性的虐待に関する専門家であり、ニューヨークで初めて子どもの擁護人センターを立ち上げた人でもあるのです。

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ニューヨークを歩いていて、「ファッション業界の方ですか?」「どのファッション雑誌の方ですか?」と声を掛けられることが多く、それなら、と大好きなファッションをメインにしたブログ「偶然のアイコン」を立ち上げたそうですが、

そのブログを始めてすぐの頃、ファッションイベントをしていたリンカーン・センターの前をたまたま通りかかった時、到着するモデルやファッション関係者を待ち構えていたカメラマン達が、スレイタ―博士をファッション関係者と勘違いして写真に撮った。それを見た観光客が、我も我もとシャッターを押し、その写真がニュースに使われたり拡散したりしたことで、ブログの名の通り「偶然のアイコン」となってしまった、という。ブログが先で、この状況が後という、なんという偶然!なアイコンなのです。

スレイタ―博士のファンの多くは、いわゆる「アンチ・アンチエイジング」派の若い女性。「いつまでも若々しい見た目を保つことが至上命令、それこそが私たちの目指す道!」というアンチエイジングに反対する(アンチ)ということですが、

だからと言って、社会の求める「年相応さ」、おばさんならおばさんらしくこんな服に髪型で、というようなイメージに沿って生きるのではなく、しわや白髪を隠すことなく、自然なビジュアルのまま、自分が心地良く自分らしさを表現できるファッションを探求する、というところでしょうか。

このアンチ・アンチエイジングも難しいところで、年を重ねて変化していく自分の姿を堂々とポジティブに愛しながら生きていく、という感じって、やっぱりちょっと難しいし、そうは言っても、朝晩の洗顔後に必死で高級クリームを親の仇!といわんばかりに塗りたくったり、せっせと顔パックをしたりして、できるだけのことはやっていきたいというのが私の本音。

アンチエイジングもしながら、かと言って美魔女を目指すわけではなく、丁度良い塩梅で自分自身が心地良くいられる加減を探しつつ、アンチとアンチ・アンチを行ったり来たりしているややこしいアラフォー世代です。

そこに来てスレイター博士のこの感じは、ドストライク!アイコンとしてこの上なく最適。

いつかそのアイコンに辿り付けたらと少女が人魚姫のアリエルをうっとりと眺めるように、私もスレイタ―博士の姿を眺めております。

スレイタ―博士からあふれ出る魅力、美しさというのは、おそらく年と共に増していく種類の魅力。人としての佇まい、あり方が重要な要素となっている美しさであると思われる(勝手な想像も含む)。

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若くて美しいモデルが同じような恰好をしてもそりゃ成り立つし、かなり素敵だと思うけど、きっと、スレイタ―博士ほどには支持を得られない。

年を重ねた女性がするからこそ、強烈なメッセージ性を含有し得るのだし、そのメッセージの強さに耐えうるのではないかと思います。

それから思うに、学者としてきちんとすることをしてきたからこそ(学者としての仕事そのものも社会への叛逆であり、弱者の擁護であった方です)、あのような重みあるファンキーさがキツさなしで身についていて、文句なしに着こなせている秘密ではないのかな、という気もするのです。

ここ最近のアフガニスタンや、ミャンマー情勢、シリアの内戦など、世界には自分が今すぐにどうこうしたくてもできない、けれど逼迫した胸をえぐられるような大問題が日々発生しており、そんな時に、ジャングルの道を整備するために目の前の小さな小石を一つ一センチほど左に避けただけ、みたいな仕事をしている(そういう地味な研究プロジェクトに取り掛かっている)自分に絶望的な気分になってばかりですが、

人間社会が一人の人間だとすれば、一人ひとりは細胞組織のようなもので、それぞれの持ち場でそれぞれの仕事をコツコツとすることが(そしてそれが間違った仕事でなければ)、それが人間(社会)を成長させる唯一の方法なのだ(なのかもしれない)と言い聞かせて、今日も小石を一つ一センチほど右へ避けたり左へ避けたり…。

結果は派手でも、そこまでの一つ一つは地味なのが世の常。

さ、がんばろ。