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一音の響きで同じところに着地できる私たち

九月からの対面授業再開前に、2020年3月10日以来初めて大学のオフィスへ行ってみると、まるでポンペイ遺跡のように、次のクラスで配布しようとしていたプリント、三学期前の学生の情報カード、名前カードなどなどが机の上に並べられたそのままの姿で埃をかぶり、日に焼けて色褪せていた。

おそらく最後の出勤日に、いつもの如く帰りの電車の時間ぎりぎりになり、慌てて帰宅したような気がするので、仕事中に誰かに突然連れ去られたみたいな状態のままになっており、なんだか事件現場みたいな雰囲気。それにしてもコーヒーカップは洗ってあったのが救い。偉い!一年半前の私。

コーヒーカップと言えば、別の大学で働く友人は、最後の出勤日にゴキブリが出て、それをコーヒーカップでドンと上から叩いたものの、その時はどうしてもコーヒーカップを持ち上げてその残骸を処理する気にならず(まだ息絶えておらず持ち上げた途端すごい勢いでわさわさわさーっと走り出しても怖いし)、明日になれば完全に死んでいるだろうと放置したままリモートに突入したので、一年半ぶりにゴキを始末しなきゃいけないのがブルーと言っていた。

まさか一年半ぶりにゴキの遺体を処理するような状況になる日が一生のうちに訪れるとは、改めて、このパンデミックがいかに未曽有な事態であったか(あるか)、まさに我々は歴史的瞬間を生きているのだな、としみじみと感じた。少なくとも、そのゴキは議論の余地なく完全に死んでいるでしょうけどね。

それはそうと、オフィスの棚や机の上の埃をクイックルワイパーで落としながら、オンラインに慣れたこの頭で再び対面に戻るの、かなりエネルギーが要るなぁ。辛いなぁ…と思わずため息。

大学開始一週間前の今、絶賛イヤイヤ期に突入しております。

イヤイヤと思えば思うほど、もっと厭になるので、こういう時は泰然自若。心頭滅却すれば火もまた涼しの精神で、何事も気にせず、すーっと音もたてずに歩く能楽の演者のように、すーっと仕事をこなして、十二月までやり過ごそう、と自分に言い聞かせています。(このメンタリティもどうかと思うが。)

思い返せば、前に勤めていた大学での行き過ぎた過労生活から、燃え尽きて熱だけ少し残った炭のような状態で今の大学へ移ってきてから、しばらくは低空飛行を維持、とにかく墜落だけはしないように低いところを飛びながらエネルギーの回復を試みていた矢先のパンデミック。突如オンライン授業へ移行したため、ほとんど燃えカスだけをかき集めながら、なんとかじりじり~じりじり~と予熱で飛んできた1年半だった。

今までも一クラスはオンラインで教えていたので、オンラインというプラットフォームそのものに慣れていないということではなく、単純に対面用に準備していた授業内容を全てオンラインに変更していく作業が、現状で既に忙しい学期の途中に突如舞い込んできたことが辛かった。

それに加えて、オンラインに突入する一週間前に、私の教えているクラスと同じクラスの別のセクションを教えていた講師の方に脳腫瘍が判明し、私が急遽その方のクラスも受け持つことになってすぐのオンライン化で、仕事量もトリプルに増えてしまい、まるで燃えカスだけで地面ぎりぎりを飛んでいる私の翼の上に巨大な岩石が墜落したような打撃だった。

勿論、脳腫瘍と闘っておられた講師の方の辛さや大変さと私のそれとは、比べ物になるはずもなく…。人としても素晴らしく、仕事もできて頼りになる彼女は、結局、脳腫瘍が判明してから4か月ほどでお亡くなりになり、当時は、家のすぐ近くにあるコロンビア大医療センターの横に、コロナで亡くなられた方のご遺体を一時安置する冷蔵コンテナ車が何台も停められていた頃でもあったので、一人ひとりの死を悼む心が追い付かず、心が停止状態となり、昔の深夜のテレビ画面のように、砂嵐だけがざーざーと心の内に吹き荒れていた。

そこから気持ちが上向きになったのか、なっていないのか、エネルギーが回復したのか、していないのかも分からないまま、遂に再び対面で仕事をする時がやってきたのである。

そんなこんなで、のろのろと過ごしていたある日、犬友(犬を介して出会った人間の飼い主友だち)から、ニューヨークに新しくオープンしたリトルアイランドというハドソン川に浮かぶ公園に行った話を聞いた。

リトルアイランドは、ハリケーンサンディーに破壊されたPier55(55埠頭)に超大富豪の夫婦が260ミリオンダラーズを注いで自腹で作った公共公園です。リッチ具合にもほどがある!っちゅう話ですが、ちょっとした散歩に最適な都会のオアシス、ハドソン川の向こうに沈む夕陽やニューヨークの夜景も見渡せて、観光客にも丁度良いスポットになっている。

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〔このように高さの異なるチューリップのような土台の上に、芝生や樹木が植えられているリトルアイランド。〕

丁度今月リトルアイランドでは毎日無料イベントが催されているというので、ウェブサイトでどれが良いか吟味して、野外ジャズライブを聴きにいくことにした。(リトルアイランドには、大小二つのステージが設置されており、ダンスやライブ音楽、詩の朗読など、様々なイベントがそこで催される。)

到着するとステージから二列目の中央の席に案内された。待つこと30分、いよいよ演奏者が出て来て、音や機材の調整を始めると、

ん?このジャズピアニスト、見覚えがあるよね??

そう、そのジャズピアニストは、我が家の犬の幼馴染である仲良し犬Sassyの飼い主だったのです。

ジャズピアニストだとは聴いていたが、まさかたまたまクリスの演奏を選んで聴きに来たなんて、なんという嬉しい偶然。観客席にはクリスのパートナーのエヴァもいて、ドッグパーク以外でこんな風に会って話するのも何だか新鮮。そして楽しい。

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〔音の調整をするクリス〕

そして演奏が始まってみれば、夕陽とハドソン川、そこを行きかうボートや船、空を飛ぶカモメ、舞う蛍、その全てとあまりにもマッチしたトランペットとピアノとドラムのハーモニー。まるでマッサージを受けているように全身から疲れが抜けていくような気持ち良さ。

(演者へのリスペクトという意味で、演奏が始まってからのスマホの使用禁止だったので、演奏中の写真はありません)。

以前、RavelのAdagio Assaiという曲をクラシックコンサートで聴いた時に、出だしのピアノのメロディーのところと、曲中でオーボエ(?たぶん)が静かに主旋律を奏でる箇所で、その満席の会場にいる全ての人たちの心がすーっと、けれどとても強い引力で、何か美しい風景を見た時のような、切なさと心地良さの混在する「うぅっ」と胸の辺りが暖かくなるような不思議な感情に掴まれるのを目撃したことがある。

それぞれ違う家からやって来た、年齢も経験も信条も政治的スタンスも違う全ての人が、この1音の響きで、すっと同じところに着地した感じ、ハドソン川と夕陽を背にしたジャズの生演奏の最中にもそんなミラクルが度々訪れるのを感じた。

いつもは人間という生き物(自分も含めて)に絶望することの方が多いけれど、こうした瞬間、もしかするとひょっとすると、私たちは大丈夫かもしれないという小さな希望のようなものを感じられて、胸が暖かくなってくる。(いちいち大袈裟でアレですが。)

そしてこれこそが、前よりはちょっとだけ高いところを飛ぶためのエネルギーになってくれるような暖かい期待に、よし、9月からもやれる、大丈夫、大丈夫、やっていける、と思えてくる。

きっといつか、ニューヨークでの生活を思い出す時、この瞬間を思い出すに違いない、という確信を感じながら、夜が更けるにつれ、ジャズミュージシャンも入れ替わり、その圧巻のインプロ―ヴの演奏と生のセッションで紡ぎ出される数々の会話的音楽に、酔いも回って踊り出す人もいたり、笑顔に溢れる会場を後にしたのでした。

みなさん是非、Chris Pattishall Quintet とRiley Mulherkar Trioをチェキラっしてみてください。

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〔リトルアイランドから望むニューヨークの夜景〕