#3 自思考を持って曖昧を人として議論し続ける
「#うなぎの10年」というマガジンをつくりました。このマガジンは、うなぎの寝床をはじめて10年、地域文化商社ができるまで、それが生まれる以前の思考と経験、そして、会社を立ち上げて以降の試行錯誤の10年を振り返ってみたいと思います。
#0 振り返るうなぎの10年
#1 「建築応用学」建築的な思考方法が地方においては役に立つ
#2 就職しないで生きる。東南アジアバックパック旅行で得た仕事感
#3 自思考を持って曖昧を議論する。
前回は、大学3年生の時に、東南アジアへのバックパック旅行で得た仕事感について記しました。今日は、大学の時の建築からデザインへの思考転換について書きたいと思います。
○ハルとの出会い、でっかいバックの小さな折りたたみ自転車の不思議な人。
僕は大学1、2年まで、本当に建築家になりたく本を読んだり、設計課題をしっかりと思考して取り組んでいました。学年では、ちゃんとプレゼンなんかに選ばれて、それなりにステップを踏んでいたように思います。
しかし、大学3年の時にグループ設計という3人-4人でチームを組み、実際あるフィールドを設定され設計課題に取り組むというお題が出ました。フィールドは大分の市内から車で4-50分ほどの場所の「里山」でした。事前リサーチとして土地に何度か通い、抱えている課題感やテーマが近い人たちとチームを組むことになります。
その時にチームになったのが、今一緒にうなぎの寝床を経営している春口丞悟、通称ハルです。ハルは他の大学を卒業して編入学で大分大学の建築学科に入ってきました。ですので学年は僕の2つ上です。彼は3年生の前期、僕が深夜から製図室に入り、朝方帰るという不規則な建築設計生活を行っていた時に、必ずと言っていいほど最後までいる人でした。ほとんど話したことはありませんでしたが、何か不思議なオーラを放ちながら佇んでいる人でした。今は坊主なのですが、当時は髪がくるくるとしていれロン毛で、毎日帽子を被っていて、ノースフェイスの30ℓくらいの黄色いリュックを背負い、めちゃくちゃ小さい白い折りたたみ自転車をキコキコと漕いでいる姿を目にしていました。「何やら面白そうな人だなぁ」と思いながらほぼ会話を交わさず半年間は過ごしました。
○僕の役割は議論のたたき台を提示すること。
しかし、何かの縁なのか、僕らはグループ設計でチームとなりました。当時から僕はひたすらコンセプトとたたき台をつくる役割です。敷地の読み方を提案し、こういうコンセプトでいった方がいいんじゃないか?チームに対して提案し、チームのみんなが「おーそれはいいねー。」とか「これはなんか違うんじゃないか?」とか批評をしていくスタイルです。僕は現在の仕事で地域においても、これをひたすらやっていて、なんら大学の時とやっていることは変わりません。
そして、ハルは、今も当時もあまり口数は多くはないですが「なんか、そこはこういうことだと思う。」とか「なんか違うような気がする。」とか、とても曖昧ではあるが、僕も気付けていない何か大事な違和感のようなものを捉えて、納得がいかないと首を縦に振らないという役割でした(なんだその役割。笑)。僕はハルのメンタリングによって自分のアイデアの変えるべき点や違和感に気づき次のステップに進めている感覚がありました。
○ハルはnendoにインターンに、デザインの概念を体感。
僕は、グループ設計を通して建築の面白さとむずかしさに気づきながら、建築にさらにのめり込みはじめていました。しかし、ハルは「nendoっていうデザイン事務所が東京にあるんだけど、インターンに行ってみようかなーと思って応募してみた。」と言い、ふらっと当時はまだ駆け出しの、少し名前が通りはじめたくらいのnendoに行ってしまいました。自分が得たいという情報や能力は体感で感じに行く感じすごいなーと思いながら見ていました。そして、僕には「デザイン」という概念が全くインストールされておらず、ハルがなぜ建築学科にきたのに、デザインの事務所に行ったのか全く意味がわかりませんでした。
そもそも、ハルが建築学科に編入学で来た理由を聞いてみると「都市に緑が足りないと思ったから、もっと都市を緑化したり、身体感覚を使った方がいいと思う。」的なことを言ってました。面白いなーと思いました。僕はなんとなく建築という分野を選んだのですが、目的がはっきりしていていいなと思いました。
○かっこいい建築家像でなく、今ある資源をつかうリノベーションへ。
僕は夏休みに行った東南アジアで仕事や生活に対する価値観が揺さぶられ、ハルはnendoに行ってデザインなどを体感で感じてきました。僕らは単純な業界的な「建築」という枠組みに違和感を覚えはじめました。当時は安藤忠雄さんのコンクリート打ちぱなしが全盛期の時代でありながら、同時にみかんぐみや、オープンエーなどが「リノベーション」という言葉を提言はじめた時代でした。
僕らが育ってきた時代はわりと豊かで、物は満たされていました。さらに、住宅ももうすでに空き家の問題が出始めたり、建物ももう十分行き届いているんじゃないか?もう、新しく建物を建てる必要なんてないんじゃないか?ハルとそういう議論を繰り返していきました。
僕が東南アジアから得た感覚を元に、グループ設計の課題である「里山」というテーマに向き合ったり、ハルが東京のnendoから得てきた知見や感覚を元にしながら、一緒に、将来の方向性や未来について議論を繰り返しました。コンペなどもたくさんやっていて建築のコンペだけでなく、プロダクトデザインや、グラフィックデザインのコンペなどもハルと二人で行ってきました。どれも、コンセプトがちと強く、現物をつくりこむ能力がまだ低かったので賞などは取れなかったのですが今見てもよくできていると思います。
○来る日も来る日も、ガストで議論、思考のトレーニング
来る日も来る日も、僕らは建築について、デザインについて、将来の仕事について、話をしました。僕の生活は、昼の12時ころ起き本を2-3冊夕方まで読みました。デザインや建築の本もありましたが、小説やエッセイなどこのころは幅広く本を読んでいました。そして、19時くらいからハルとガストに集合します。僕が昼間読んだ本を読んだ感想や、コンペの案、グループ設計などのアイデアをプレゼンというか話します。そして、ハルがそれについてボソボソっと感想をくれたりします。そして、その感想に対してまた議論する、これを永遠と7-8時間行います。お金はないから、ほうれん草のソテーにドリンクバーをつけた最安値でひたすらとそこに居座っていました。店員さんは、冷たい目ではなく、なんとなく暖かい目で見守ってくれていたように感じます。終わりの合図は、ハルが眠くなってコクコクと首が落ち始めた時、その合図が出始めると「じゃ、帰ろうか。」とお互いの家に帰っていきます。そういう生活を1年半くらいは続けていました。
○曖昧で重要な何かについて議論をし続けれる筋トレのようなものが大事
富永とは高校の友人であるが、富永とも、行って来たことはそう変わりません。ひたすら、何か自分たちが今みてきた現象や、考えている思考、世の中の動向に対して議論をしていました。それが何の結論があるわけでもない、その時どういう考え方をお互いが持っているか?その思考がどう今後動いていくかの交換でしかありません。そのひたすら思考の交換と議論を繰り返す、これがこの時期から最も重要だと考えていることで、それは16年たった今でも変わらないと思います。この議論の対象が20歳のころは「デザイン」や「建築」または「東南アジアの人たちの生き方」だったものが、「地域」や「文化」や「地域経済」「産地」などに置き換わっていっているだけだと思います。人間ってなんなのか?ということを、その時の自分たちの社会・環境との接点(ときには建築、ときには地域文化)を起点にしながら話しているだけのようにも感じます。
社会に慣れてくると、人はすぐ「課題」と「結論」を求めます。それ以外の人間的に重要な部分はどうあるべきか?という部分は置き去りにされ、短期的な対価を得れるだけの受け売りの仕事を連続しようとします。それは、特に悪いことではないですが、その短期の連続が何か不具合を起こしているように思います。
なぜやるのか?私たちはなぜ行動しているのか?なぜ仕事をしているのか?なぜ生きているのか?特に答えのない問いに対して議論していくことができる、それが僕とハル、僕と富永の関係性なのかもしれません。
○地域も文化も、魅力と醜態は表裏一体。それを解釈して再編集できるのか?
「地域」や「文化」は合理的なものばかりではない「曖昧の塊」でもあります。その曖昧な中で合理化した方がいい部分、曖昧を曖昧のまま良きものとして残していく気概、家業という生活と仕事が一体化したプライベートに突っ込んでいくどうでもいい勇気。課題はあれど、プロセスは非常に生々しい人間模様がたくさん。そして、この曖昧さこそ、僕は独自の文化や思考を生んでいる源であり、同時にそれが地域を衰退に追い込んでいる膿でもあると思っています。
それを源とみるか、膿とみるかは、見る人の視点によって違います。解釈次第なのです。その解釈をできるための思考と議論を社内だけでなく、様々な人たちと行っていきたいと考えています。ディスカッションという打ち負かすための会話ではなく、ダイアログ、対話のようなものがとても重要だと考えています。
つづく
本質的な地域文化の継承を。