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ある秋の月曜日の雨と、習慣。

 秋だ。秋。満を辞してようやく秋が来た。夜道を何の気なしに歩いていると、金木犀が咲いている。賛否両論あれど私はこの香りが好きだ。まさに秋が来たという感じがする。秋が来たから金木犀の香りがするのか、金木犀の香りがすれば秋なのかは難しいところだが、とにかくそこに秋が来たということに変わりはない。秋の何が良いかって、過ごしやすい気温に合わせてシックな装いができる。マスクをすれば5割増に美人に見えるとすれば、正しく秋服を着こなしている人は26割増くらいで美人になる。普段はチャランポランな彼も秋色を身に纏っているとどこか素敵に見える。やはり秋色は秋の専売特許だ。そして食べ物がうまい。もはや高級食材になりつつある秋刀魚、モンブランの中心で宝石のごとく輝く栗、哀愁漂う花火のような舞茸。味覚ももう秋の専売特許のようなものだ。そして何故か秋は私をどこか哀しい気持ちにさせる。それがまたいいのだけれど。

 だけど秋の雨はいけない。特に秋のある月曜日の朝に降る雨は最悪だ。家でコーヒーでも飲みながら眺める窓の外に降る雨なら悪くはないが、これから一週間が始まるぞ、とネジをまかなければいけない月曜日の朝、扉を開けて雨が降っていたなんてことがあってはいけない。ある秋の月曜日の雨を告げる天気予報は、どこかの大統領が政治的パフォーマンスをするためだけに側近の健康を顧みないことよりも悪いニュースかもしれない。少なくとも私にとっては。そして今日がその日だった。

 そんな時に役に立つ対策が一つある。それが習慣化だ。習慣とは意識せずとも行われる半自動的な行動パターンのことで、つまり習慣化とは日常的に繰り返し行うことでその行為を半ば意識せずに行うことができるようになることである。例えば初めて通勤列車に乗る時は時刻表やホームの場所を調べて慎重に行っていた人でも、一ヶ月も乗っていれば考え事をしていながらでも気づいたら乗り換えのホームに立っているなんてことは珍しくない。この習慣化を使って乗り切るのだ。意識せずとも行われる習慣を意識するというのは多少の矛盾を孕んでいるが、そんなことはある秋の月曜日の雨を乗り切ることに比べればとるに足らない。その矛盾について考えることで半自動的な行動を促進することだってできる。とにかく、そんな風にしてじっと耐えるしかない。

 そもそも多かれ少なかれ我々は自分の生活をパターン化して習慣を形成し、それに沿って日々を過ごしている。何かをする度に時刻表を見て、何番ホームの電車に乗れば良いかを考えていたら頭がパンクしてしまう。日常生活を習慣化することは至って自然な営みなのだ。だからこそ、習慣化されていない時間が光る。何をしよう、どんな風に行動しようとじっくり考えることが新しい道を発見することに役立つこともあるかもしれない。あるいは夏服から衣替えをするように、今の習慣を一つ一つ取り出して整頓することも豊かになるための一歩かもしれない。

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