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夢と現実、そして幻覚と妄想

 朝目が覚めたとき、その時点から少しずつ薄れゆく夢を思い出してみる。すると、今まで見ていた夢がひどく奇妙なものであったことに気づくかもしれない。黒い竜巻は四つも目の前に渦巻いてはいないし、豹柄の着物を着たサイはいないし、お婆ちゃんの踵が取れて中から餡子が見えたりもしない。夢の中では自然なこれらの現象も、一度目を覚ますと現実(と思っているもの)には適応できずに却下される。一方で、時には現実に影響を及ぼすほどにリアリティを帯びた夢を見ることがある。夢で見た芸能人のことが好きになっていたり、誰かが死んだ夢を見た後は悲しくて涙が流れたり、空のポストを開けて漸くあの手紙が夢の産物であることに気がついたり。ここでは夢と現実の境界線が少しだけ曖昧になり、この時私はその曖昧さの程度に応じて混乱することになる。しかしながらどんなに混乱しようとも(大抵の場合は)、落ち着きを取り戻し現実に立ち返ることができる。ではもし、それを許さないほどの曖昧さに直面したとしたらどうすればよいだろうか。

 統合失調症という病気がある。生涯罹患率が1%(知ることからはじめよう みんなのメンタルヘルス、厚生労働省ホームページ)のこの疾患の症状に、幻覚や妄想といったものがある。幻覚妄想状態の患者はしばしば「隣の家から電波を流されている」、「誰かに思考を抜き取られる」、「ノアの箱舟の生き残りに選ばれたから行かなければ」等と話す。これらの訴えは単なる夢で片づけられはせず、臨床的診断が下され、薬物療法をはじめとする医学の範囲となる。幻覚や妄想では、現実には起こり得ない(と我々は確信している)ことが現実に起こっている(と彼らは確信している)。ここでは主語を我々と彼ら、こちら側とあちら側というように分けているが、これは便宜的区別に過ぎず、これらが入れ替わる可能性だってもちろんある。

 では、入れ替わった状態を考えてみよう。テレビの全国放送で自分の悪口を報道されていたら、何かよくない誰かの考えが自分の頭の中に植え付けられていたら、何故かわからないけれど自分の食事に毒が盛られていたら。本来なら有り得ないことが起こっていたとしたら、耳を塞ぎ、叫び、走りだしたりすることは適切でさえあるだろう。相手のリアリティを考えることができたとしたら、現実(少なくとも私にとっての現実)では奇異な相手の行動を笑うことはできないだろう。

 夢と現実、そして幻覚と妄想。少し考えてみるとわからなくなってくる。自分が生きるこの世界は本当に現実か?それとも夢か?あるいは、、、

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