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文章は夜に降ってくる。それも前触れもなく、突然。

※自分のためだけに書いたきらいがあるので、
じっくり読まないことを勧める。

私は文章を夜に書くことが多い。

過去の投稿を遡ると、例外はあるものの、
23〜1時台に投稿しているものが多く見当たる。

所謂「夜型」なのか、と思うがそうではなく
健全極まりない早寝遅起き人間なのである。

さっきまで村上春樹のエッセイを読んでいたというのに「あぁ、今書けるな」とこうして文章を打ち込んでいる。

(まったく、多動症は治らないものである)

ところで、昨年の8〜9月ごろからこうして1〜2週おきに1回、600〜1,000字前後の文章を定期的に書いているわけだが、ここまで継続できた習慣というのも自分の中では珍しい。

どうして書き続けられるのか、そしてなぜ書けるのか、自分の文章の生成プロセスみたいなものについて考えてみようと思ったわけだ。

大した内容のものを書いている矜持はない。
むしろ「駄文」と言うべきよしなし事を絶え間なく生産している自覚がある。
誰にでも書けるような、誰でも考えつくような内容をわざわざ形にしているつもりなので、その点で極めて非生産的、非効率的な営為である。

とはいえ、とはいえ、である。
それを皆が継続できるわけではないので
自分にも何かしらの性質のようなものが備わっているのだろうと、ぼんやり考えたのである。

冗長な前置きはさておき、
私の文章生成プロセスの粗描にお付き合い願おう。

まず前提として、
私は「右脳的」にものを考え、書く。
ぼやっとしたものを遥か頭上に見つけ、それを言語の縄で引っ捕えて、手繰り寄せてピントを合わせ、逆算的に言葉として受肉させていくイメージだ。

テーマはまちまちだ。
だいたい、「なんとなくこれについて書くか」
みたいなものが見えるので、それを編み物みたいに形成していく。

格好良く聞こえるが、ただビジョンが曖昧で言語化能力の貧しいだけなので、どうか誤解なさらず
(同様の理由で"芸術家タイプ"という表現も信じていない。あれは、鮮明なビジョンが見えないあまり、自分の社会化されていない拙い言葉で頑張ってそれっぽく仕立てている人間のことをやさしく表現しているだけだ。被表現者である私はそのように感じている)。

そんなわけで、いつも何かしら漠然としたものが頭上に降ってくるのを待っている。
正直なところ、待っている感覚は無く、気づけば降ってきており、他の作業などやってる場合ではなくなり、気づけば文章を書いているだけである。

この漠然としたものが降りてくるプロセスに関してはもう考えることを辞めている。
こうやって生きてきてしまっているのだから、それでいいじゃないか。
プロセスを理解できたところでそれが終わるわけではないのだし、それならもうわざわざ正体を暴くという野暮なこともせずに付き合ってあげようというわけだ。

嘘である。
本当は考えるのが面倒でイヤなだけだ。
自分の行動習慣や嗜好について分析を加えると
ブラックボックスを覗くようであまり良い気がしないということを経験的に把握している。
そしてそれを意図的に拒んでいる。

必要な作業ではあるから、
皆一度はやっておいた方がいい。
何度も繰り返すのはおすすめしない。
ただそれだけである。

さておき、冒頭の話に関わってくるが、
このように命題めいたものが降ってくるのが
決まって休日の夜である。

休日である理由は一瞬にして分かる。
仕事がないからだ(今日は出社して働いたが)。
平日は文字通り忙殺されているので、自分の自由な思考は閉鎖されている。

理由が分からないのが夜という時間帯である。
先にも触れたが自分は夜型でも朝型でもない、
ただのぐうたら人間である。
できれば0時までには寝たいし、9時に起きたい。

そんな人間が、寝る間際または寝る間を惜しんでまで、淡々と文章を書き、満足してから寝る。
何かに取り憑かれているとしか思えない、
と、半ば書きながら考えている。

そういえば、学生時代の卒業論文の執筆でもこの兆候は確認できた。
とにかく無心で書いていた。

当時から性格は変わっていないので、
「そろそろ皆、卒業論文の最終章まで書けたかな」という段階でまだ碌なものを書いていなかった
(今だから分かるが、就職活動をしていたため、
先ほどの話と同様、自由な思考をできる余地がなかったのであろう)。

就職が決まった8月以降、急に何かが降りてきた。
そして、御法度レベルのテーマ変更をした。
というか、研究対象そのものを変えた。

その後というものの、狂ったように文章を書き殴っていた。当時の友人たちも私の様子を見てそれなりに引いていた気がする。

1時間で1,000字を生成する作業を4〜6時間程度続ける。3〜4日で卒論の土台ができた。簡単な計算である。

出来上がったそれを先生に見せる。
「ここが良くない」「ここはつながっていない」
そんな指摘を受けて、「わかりました!」と該当部分をすべて反故にして、まったく観点を変えた数万字を数日でまた生成する。

その繰り返し。
卒論自体は6万字弱ぐらいだが、
合計ではその1.5倍は書いたと思われる。

研究の道に進んでいたら、たいそう苦労をしていただろう。
毎日これだろ?
他人か自分かどちらかが確実に壊れている。

どうして書き続けられるのか
なぜ書けるのか
という、当初の疑問に立ち返ってみたのだが
蓋し、どこまでいっても私が自己中心的な人間なのだからだろう。

自分が頭上で感じたものは文章にすべきだ。
そうしないと落ち着かない——。
そんなエゴイスティックな考えを内心で保持し続けているため、継続的に作業ができるのだと思う。

また、利己的観点から考えると、自分が感じた漠然としたものを、漠然としたままで済ますのではなく、形にしていくことでそれについてはクリアにしておき、次の漠然としたものに歩を進めることができるのではないだろうか。

あくまで自分が落ち着くために書いている。
自分のためでしかない文章。

これはいただけない。
言葉や文章は誰のものでもあり、誰のものでもない状態が望ましい。
誰かが吐露した感情が、顔も知らない誰かの手に取られ、その誰かが自分のための文章だと感じ取る。しかし、文章はその人のものではない。
そんな曖昧で中間的な媒体であってほしい。
それなのに、私は、私は——。

結論ですが、労働は悪です。
やりがいとか、楽しみとか、そんなものを見出す対象ではありませんので、皆さんは周囲のペテン師に騙されないように、それぞれの旗を高く、固く、掲げ続けてください。

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