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頭のノイズが鳴り止まない

基本的に思考が散らかっている人間である。
「脳内多動」というやつであろうか。

眼前で現象している事態から情報は得つつも、
頭の中では別のことを考えている。

具体的には何を考えてる?と聞かれると
分からない。

「思考にすらなり得ない何か」が脳内を満たし、
眼前にも脳内にも集中できていない木偶の坊の完成である。

丁度最近読んでいる森博嗣の『アンチ整理術』では「物体や事象は本来発散/拡散していく性質をもつのだから(エントロピー)、散らかることに対して整理しようと思う方が不自然」という旨の文章が書かれていて、幾分救われたものの、
救われたからといって、この脳内のざわめき(そう、まさしくノイズである)が静かになってくれるというわけではない。そこは別の話だ。

例えば、同じ作業に打ち込み続けることが苦手である。
自分は読書も好きなのであるが、文字を追っている途中で別の思考にもなりえないノイズが沸き始め、気づけばスマホを触っていることが屡々だ。

あとは、対して気分でもないのに、
外出して環境を変えようとし始める。

下北沢の喫茶店にはそんな感じでよくお世話になっている。休日だとだいたい今ぐらいの時間(14〜16時)で限界が来て、外に飛び出す。

飛び出したものの、喫茶店でも同じフローを踏む。
本を読み始める。別のことを考え始める。何かしら思いつく。スマホを触る。触っているうちに違うことを考え始める。なぜスマホを触っているのかが分からなくなる。本に戻る。また別のことを考え始める——。

何がしたいんだ。こいつは。

この多動癖と言うべき性質を、なんとか飼い慣らす努力はしている。

例えば、音楽。
イヤホンをつけて音楽を聴くことで聴覚を世間から隔絶させる手段を心得た。
外部からの情報は多動人間にとって毒だ。
すぐに触発され、あっちの世界に行ってしまう。

さて、土壌も整ったのでようやく視覚に集中だ。
本を読むことで周囲の情報を減らす。
文字を目に入れておけば、多少の視覚的なノイズはカットできる。

聴覚を絶っているにも関わらず、これでも数メモリ分の進歩しかしない。
ほんの気持ち、いつもより集中できる程度である。

考え出したメソッドが失敗していることを証明しよう。すぐにできる。
現に、こうしてnoteを書いている。
10分前まで森博嗣の『人形式モナリザ』を読んでいたというのに。

『エヴァンゲリオン』で、シンジかゲンドウが
「イヤホンと音楽は世界と隔離するツール」などと言っていて感心した記憶があるが、
イヤホンと音楽は自分を自分から隔離してはくれない。

「私は私とは別れられない」。
邦画の一セリフがこれでもかと責めてくる。

抑制剤か何かを注入しない限り、
このノイズは消えないのだろう。

文章を書いているうちに、
また別のことを考え始めてしまっている。

飽きたので、次のアクションに移ります。

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