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死の香りを嗅いだことはあるか。【村上春樹『羊をめぐる冒険』をめぐる省察】

 ふと思い立って、村上春樹の作品『羊をめぐる冒険』を5年ぶりに読んでみました。京都に住んでいた当時、古本で買って読み、その後東京に連れてきたのでご覧の通りボロボロです。

この通り、ページも日に焼けてしまっている。

『羊をめぐる冒険』とは

 そもそも、これはどんな本なのかというところから軽くご説明しておきます。
 『羊をめぐる冒険』は村上春樹の初期代表作とされていて、『風の歌を聴け』(1979年)、『1973年のピンボール』(1980年)、『羊をめぐる冒険』(1982年)という連作の3作目にあたります。

 旧友と立ち上げた出版社に勤める、名前のない「僕」と、彼の別の友人である「鼠」との物語なので、通称「鼠三部作」と呼ばれています(私はこの呼び方がとても気に入っています)。
 「僕」と「鼠」は行きつけのバー「ジェイズ・バー」でビールを飲みながら他愛もない話をしながら歳を取っていきます。2人とも、ほどほどに社会に関わりながら、ほどほどに女性と出会い、ほどほどに精神的な危機に瀕していきます。作品を経るごとに「鼠」が自身の憂鬱に沈み込み、やがて姿を消すようになっていく。そんな彼の影を「僕」が追っていくのが粗筋です。
 ここではとてもざっくりと触れる程度に留めておきますが、『風の歌を聴け』で交わした会話を辿るように、3年後の『1973年のピンボール』で「僕」が2人の桃源郷ともいえる3フリッパーのスペースシップのピンボールをもう一度プレイすべく旅をし、さらに5年後の『羊をめぐる冒険』で「鼠」本人の影を追いかけるようになります。

 今回は『羊をめぐる冒険』にフォーカスを当てます。姿を消してしまった「鼠」からかつて受け取った、何気ない風景の写真を雑誌に掲載した「僕」を尋ねて、大物右翼の秘書を名乗る人物がその雑誌の発行を止めるように"相談"(脅迫)してきます。
 なぜその雑誌が発行停止されなければならないかというと、「僕」が掲載した風景の写真が秘書の目に止まったからです。
 その写真は素人が撮った山の風景で、羊が数匹写っているだけであるため、「僕」にはその理由が見当がつかない。そんな「僕」に、秘書が写真の中にいる1匹の羊に注目するよう促す。その羊の体にはシミとも見間違う星形の斑紋が刻まれていた。秘書はその羊が問題だと言うわけです。
 この羊は世界上で存在しない羊だが、大物右翼(秘書は「先生」と呼ぶ)の夢の中に現れた羊の特徴とピッタリと一致している。いないはずの羊が、写真の中で生きてしまっている。その事実が秘書にとってマズイわけです。
 秘書は「僕」に会社の存続および彼の人生を天秤にかけさせ、この羊を1ヶ月以内に見つけるよう"促す"わけです。こうして、「僕」の「羊をめぐる冒険」がスタートしたのです。

読み返す行為について

 さて、前置きが大変長くなってしまいましたが、『羊をめぐる冒険』はこんなあらましです。
 記憶というものは実に曖昧なもので、5年前に読んだときと今とでは感じ取るものが全く違っていました。というか、前回はほとんど何も読み取らず、村上春樹ワールドの雰囲気だけをしがんでいたのではないかとも思います。
 当時の私の読後感想は「『鼠』との記憶を振り返る淡い青春物語」だったのですが、5年経ったいま読み返すと「そんなことないな」が感想になりました。
 読み返したとき、そもそも、なぜ羊を探すことになったのかという前提を完全に忘れていました。「先生」の秘書に脅された事実を失念していたわけです。こんなに政治色の強い物語だったのか、と思い直しましたので、もはや初見読みに近いと思います。

 本を読み返すという行為には、こういった面白さがあると思います。時間が空けば空くほど、当時とは全く違った観点で読むことができ、自分自身の考えやモノの見方の変化を感じ取ることができる。また、以前の自分の読み取り方や感情を客観的に判断することができる。
 若干オカルト的な考え方を述べますので眉唾物として聞いていただければと思いますが、ある本を手に取る時には必ず意味が込められていると私は考えています。自分の無意識の中で形成されていた思考や課題感がその本を通して解決されようとしているのではないでしょうか。『羊をめぐる冒険』を初読から5年経ったいま改めて読まざるを得ない"何か"が私の中にあった。そんな気がしています。

死の香りを嗅いだことはあるか

 ここからタイトルに関わってきます。えらく物騒な表題で一抹の不安を抱かれるかと思いますが、その通りです。ちなみに『羊をめぐる冒険』のネタバレしか含みませんので、ご了承を。

 「僕」が追いかけていた「星の斑紋を持つ羊」は時代精神のような概念的存在でした。右翼団体の構成員の「先生」はかつてビジョンを持たない平凡な人間でした。そんな彼に羊が"入り込んだ"ことにより、彼は社会を統べる人間となったわけです。しかし、その羊が「先生」から抜け出したことにより、彼は死の淵を彷徨うことになる。そんな事態を受けて秘書は「僕」に羊を見つけ出すように依頼したのでした。
 それでは、羊はどこへ?「鼠」のもとでした。羊は宿主の生命力と引き換えに圧倒的なビジョンと力を与える。「先生」が長くないと判断した羊は「鼠」を次の宿主として選び、「先生」の権力機構を大成させようとしたわけです。羊のビジョンが完成してしまえば、訪れていたのは完全なるアナーキーの王国だったと「鼠」は語ります。
 なぜ「訪れていた」と過去形なのかというと、それは失敗したからです——「鼠」は羊を宿したまま首を吊ったのです。「そうするしかなかった」と「鼠」は「僕」にまるで他人事のように語ります。

 さて、本題に入りますが、「鼠」は自身の死を悟り、宿命ごと抱えて"あちら側"に行ったわけです。
 死を感じ取るという経験はどんなものでしょうか。逆に考えてみましょう。私たちのいまの生活は"死なないこと"を大前提として形成されている。「来週飲みに行こう」「次の休暇で旅行するんだ」「ダイエットをしよう」「資格の勉強をしよう」等々。「○○をしよう」という未来形の言動はすべて、"自分が死なないこと"を前提にしている。

 だけど、私は少しずつ気付いていきました。一見独立しているように見えていたメッセージは、そうではなかったということに。世の中に溢れている情報はほぼすべて、小さな河川が合流を繰り返しながら大きな海を成すように、この世界全体がいつの間にか設定している大きなゴールへと収斂されていくことに。
 その"大きなゴール"というものを端的に表現すると、「明日死なないこと」です。

浅井リョウ『正欲』(2021)

 「この生活は無限に続いていくだろう」。全く保証されていない未来を(何故か)100%信頼して、私たちは生きている。"死の香り"は街に充満しているにも関わらず。
 哲学者のハイデガーは『存在と時間』にて、自分の実存がいつか不可能な状態(=死)に向かう事実を引き受けることを「死への先駆」と表現しました。
 有限な現実存在である私たちは、いつか来る"有限の限界"と向き合わねばならない。それなのに、その機会をどんどん先延ばしにし、"いまこの瞬間"が続くことを享楽している。
 まだ羊は、私たちの中に棲まうことを拒んでいるのかもしれません。自己の有限性に気づいた者にのみ羊は訪れ、その有限性を最大限に引き出す手助けをしてくれるのでしょう。

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