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寂しさを過大評価しない

好きでやっている一人暮らしだが、しばしば「寂しい」と言う感情が湧き出して、底無し孤独沼のなかで発狂しそうになる。

寂しいという感情は惨めで、不幸なイメージがある。
特に強くそう感じたのは18〜25歳の、コンプレックスが強かったとき。
寂しさの扱い方を間違えて、他人に依存したり、対して欲してもない娯楽に課金したりしてしまうこともあった。今思えばこの行動こそ、惨めである。
扱い方を間違えた寂しさの埋め方と言うのは、余計に寂しさを強くさせるだけだ。

今はもう、そんな行為はしなくなったけど、冒頭にあるように、寂しさが消えたわけではない。寧ろ、一人暮らしになってから寂しさが深刻なものになっていった。人と会うと寂しさは紛れるけど、また数日経てば寂しくなる。

なぜ急に寂しさについて語り出したのかと言うと、さっき、気付いたのだ。

ここ数日、仕事が忙しくてストレスが溜まっていたのもあるのか、気付くと必死に漫画を読みまくったり、スマホを連タップしたりしていることに。お菓子の量が増えていたことに。
心が現実逃避したがっていた。

一連の行動の本意が「寂しさ逸らし」であると気付いたので、一呼吸。また、寂しさを邪魔者扱いしていた。

俯瞰する。
寂しさは本能だから、寂しいと感じることはなにも危険なわけではないし、惨めなことではない。つまり、今の私は人が持つ自然な感情を過剰な不安に捉えて、必死に逃げようとしている。そう自分を俯瞰すると、なんだか気持ちが楽になった。

自分を惨めにさせるのは、寂しいと感じることではなく、寂しさを敵にして必死にスマホに逃げている行動のほうである。感情を過大評価してしまうのは、悪い癖だ。

感情のコントロールはヒトの生涯の課題だと思う。自分の感情をそのまま感じ、どんな不快なものでも戦わないことが大事なんだと感じた。

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