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【警鐘を打ち鳴らせ】 第九章「縁」

第九章「縁」

 ――その後は、筆者の今までの人生における思い出が、つらつらと綴られていた。その中は悲喜こもごもに満ちており、また、砂になって消えたという筆者の知人についての想いが、繰り返し繰り返し、幾度も振り返るように書き綴られていた。それに関しては、後悔や懺悔がほとんどで、時に好奇心によるのであろう文章が顔を覗かせた。

 私がその書物を読み終える頃には、陽が、やや傾いた頃だった。私は、朽葉の声ではっと顔を上げた。

「読み終わった?」

 私が書物を膝の上に置き、背表紙をじっと見つめているのを、朽葉はいつものようにふよふよと宙空を漂いながら、私同様、じっと見据えていた。

「ああ、読み終わったよ」

「じゃあ、お茶でも飲んで」

 朽葉のふさふさとした手には丸盆が乗せられており、其処には二人分の緑茶と、かまぼこの形をした寿甘すあまがあった。

 ふわふわと、たんぽぽの綿毛のように朽葉はカウンターに着地し、どうやって物を掴んでいるのか疑問に思わせる細い手で、器用に緑茶と菓子の載った小皿を私の方へ勧めて来る。

「ありがとう」

「ううん」

 しばらくの間、沈黙が続いた。まだ湯気の立っている緑茶は少し渋みが強かったが、現実離れした私の頭を奮い立たせるには丁度良かった。

 寿甘に手を伸ばし掛けて、「菓子」がどんな意味を持つのかふと考えたが、

「前も言ったけど、この店での菓子は大丈夫。食べて」

 という朽葉の声で、私はそれを口に運んだ。もちもちとした食感と、ほんのりとした甘味が口の中に広がる。

「大体、分かったと思うけど、どうかな」

 こと、と湯呑を置いて、朽葉が尋ねた。

「大体、というのは……」

「この世界の仕組みとでも言うのかな。そもそも、世界として定義付けて良いのかも僕には分からないけれど。君からしたら僕は色々なことを知っていそうに見えるかもしれないね。でも、実は決してそんなことは無いんだ。ただ、此処で過ごした時間が少しばかり多いだけ。しかも、菓子商店の女将には目を付けられている。これらは、君と同居している灰色と同じさ」

 朽葉は、気のせいで無ければ少し自嘲的に口元を歪めた。目は細く閉じられていて、此方が見えているのかいないのか分からない。

「其処に書いてあったことはほとんどが真実と言っても過言では無い――」

 と、朽葉の言を遮って、客が誰一人としていなかった貸し本屋の引き戸が急に開かれた。

「邪魔するよ」

 今日、初めての客となる人物は、先程の話にも出て来た、この町の菓子商店の女主人であった。彼女は、いつか見たようにあでやかな赤と黒の着物に身を包み、朱塗りの塗下駄ぬりげたを履き、重そうなくらいに長くつややかな黒髪を束ね上げていた。

「今日の客は私だけかい?」

 女主人は朱をいた唇を必要以上に、にこりと三日月形に揺らめかせて言った。私が肯定すると、彼女は朽葉に改めて向き直り、告げる。

「お久し振り。元気かい?」

「まあ、そこそこ」

「そこそこ。ほう、そこそこ元気かい。そいつは良かったね。それにしても、静寂を愛するとまで言っていた朽葉。お前が、これと馴れ合うなんてね。灰色の入れ知恵かい?」

 女店主の横顔。先立ってよりも唇を歪め、朽葉に尋ねている。私は何も言えぬまま、ただ二者を見ているしか無かった。

「そんなことは無いさ。それよりも、今は忙しい時間じゃあないの。こんな寂れた貸し本屋に、何の用」

「何の用、と来たか。偉くなったもんだね、朽葉。ただの人間の成れ果てが。誰のおかげで、此処で生活出来ていると思っているんだ」

 女店主が少々、語尾を荒げて朽葉に告げる。朽葉は珍しく瞳を開き、彼女を見据えていた。その名前と同じ色の両の瞳に、女店主の姿が映っている。

「ふん、まあそれは良いさ。私の道楽のようなものでもあるからね、お前達を生かしているのは。今日、来たのはこの彼のことさ。なあ、お前さん。もう一度、菓子商店に来る気はないかい?」

 女店主が私に向き直る。その目は底が知れぬように深く黒く、まるで私を飲み込むかのようであった。

「待った。彼はもう既にうちで働いている。契約しているんだ。其方で働かせることは出来ないよ」

「いつ、契約を結んだというんだ。そんな話は聞いていないよ」

「此処で彼が働いている、それが証拠だ。給金も出す」

 そういえば、給金の話など全く聞いていなかったことを私は思い出す。此処では――この町では、頭の中でほとんどのことが何処かもやが懸かったようになってしまい、私はいつも大切なことを取り落としているような気がする。

 それにしても此処に来て何日かが経つが、私には良く分からないことだらけだ。それらについて、私は灰色や朽葉から説明を受けるのだが、やがて、ぼんやりとしたかすみの向こう側に彼らから聞いたことが漂って行ってしまう気がする。いや、漂流してしまうのは私なのだろうか。

 ふと、私は「振り返れ」という言葉を思い出す。灰色が何度も私に言った言葉だ。朽葉も言っていた。私は、此処に来て何日になるのだろう。確か、途中までは数えていた筈だ。今はどうだ? 思い出せるか?

「金など、此処では何の役にも立たないさ。大切なのは、えにしだろう?」

「良いのかい。店主自らがそんな核心を告げて」

「少しくらいは構わないさ。私はこう見えても今、機嫌が良いんだ。どうせ筋書はこうだろう? お前と灰色で、こいつを救おうというのだろう? その為に躍起になっているって所だろう?」

 朽葉は黙っていた。ただ、黙って、女店主をじっと見ている。

 私は、二者の会話を聞きながら、此処に来て幾日になるかを頭の中で必死に思い出そうとしていた。五日目までは数えていた気がする。それから幾つの日が経過したのだろう。

「出来やしないさ。大体、こいつ自身が必死になっていない。そんなこと、はたで見ているお前達には分かるだろう? かと言って、こいつを責めるのはお門違いさ。此処はそういう風に出来ている。誰しもが此処に従う他、無いのさ。お前も、こいつも――或いは、私もね」

 女店主が、何度目になるだろう、唇だけで笑う。

「出来るかどうかなんて、やってみなければ分からない。僕達は今、その途中なんだ。だから此処で働いて貰っている。此処で彼が働いている以上、菓子商店で働くことは二重の契約、不可能だ。彼が此処との契約を破棄するというのなら別だけれど」

 其処でやっと、朽葉は私を見た。朽葉色の両目が答えを促すようにちかりと光った気がする。私はと言えば此処に来て幾日になるかを考えていた最中だったので、急に話を振られて、遠くの場所から呼び戻されたかのように、はっとした。

「ねえ。君は、どうしたい?」

 朽葉が、言う。私は、かろうじて思い出す。この貸し本屋で働き出して今日が三日目になるということを。そして、それがとても大切だということを。

 思い出す。完全トーティエント数、三という数字。私には全てに理解が及ぶわけでは無いが、この町では三という数が非常に重要らしい。そうだ、春野華も言っていた。文字通り、消えるようにしていなくなってしまった彼女は、今、どうしているのだろう。この入り込んだ思考が、女店主へと向けて私の発言を紡ぎ出した。

「春野華がどうしているか、知っていますか」と。

 思えば、朽葉の問いを無視した形になった。それは申し訳無いと思う。だが、私にとって春野華は、順として灰色の次に親しくなれた、優しい少女だった。(灰色と私が親しくなれているかどうかは厳密には分からないが。)

 彼女は故郷へ帰った筈だったのに、あの日、私の前に現れた。そして、消えた。おそらくは雇用主であった女店主なら、何か事情を知っているのかもしれないと私は思った。目の前で彼女が消えてしまったという事実については、深くは気にならなかった。いくら私でも、もう分かっている。此処は、そういう町なのだ。

 私の発言を聞いた途端、もう何度目になるだろう、女店主は、にたりと笑んだ。

「あの子は故郷に帰ったのさ。それ以上、何か知りたいことでも?」

「そう、聞いてはいましたが……信じられないかもしれませんが、彼女は私の目の前で、掻き消えたんです。沼に案内してくれて。その途中で。故郷に帰ったけれど、土産を買う為に戻って来ていたんです。それで」

 私の言葉は、少々、整頓されていなかったかもしれない。私は、またも混乱していたのだ。いくら此処がそういう町だと思っていても、私と親しくしてくれた、此処での友人のような彼女が自分の目の前で消えてしまったのだ。あの時の混乱と困惑を、私は今、まざまざと思い返していた。すると、女店主は文字通り誘うように言った。

「それが知りたければ、うちに来て働かないかい? いや、あと一度、話をしてくれるだけでも良いんだよ」と。

 すい、と朽葉が私と女店主の間に移動した。まるで、私を庇うかのように。

「君に名前があれば、僕は君の名を強く呼んでいる所だよ。君が彼女を気にしていることは分かった。だけど、此処で君を奪われたくないんだ。これは、僕と灰色の彼のエゴイズムなのかもしれない。せっかく此処まで辿り着いた僕達を、邪魔されたくないんだ。今日で三日目になる。今日が本当に大事な日なんだ。今日を越えれば、君は少し自らの置かれている状況を理解する筈だ。かすみかった頭も、きっと、少し晴れる。此処で君を止めるのは僕らの勝手な行動だ。そして、君がどう行動しようと勝手な筈だ。どちらを選んでも構わない。だけど、もう一度、考えて選択してほしい。僕らか、菓子商店か。これ以上は言えない」

 ははは、と高らかに響く笑い声があった。

「これ以上は言えないだって? さっきからルールを壊してばかりのお前が良く言うよ。どうせ、その調子で色々なことを説明したんだろう? 説明したって無駄さ」

 私は、女店主の言に頷かざるを得ない。私は説明されたことを全て覚えていられていない。ただ、正しく振り返ること、というのは、何度も頭の中で警鐘が鳴るように繰り返されている。だから私は、こんな時でも考えている。私が此処に来て、何日が経過したのかと。

「なあ、お前さん。彼女のことを教えてやる代わりに、うちに来ないかい?」

 それは非常に蠱惑的こわくてきな声であった。また、その内容も、私の心を揺さぶるには充分過ぎる程のものだった。

 だが、三日、という数字が頭をよぎる。今日、この貸し本屋で勤務を終えれば私が働き始めて三日目が終了になる。三、という数字がこの町で如何に大切なのか、私にも薄々、分かってはいる。しかし、春野華のことが気になる。春野華が何処へ行ってしまったのか。一体、彼女に何があったのか。知りたい。

 私は彼女のことを思いつつ、女店主を見つめた。その深淵のような黒い瞳と目が合う。私はそれに耐えられず、女店主の着物に目を移した。あでやかな着物。緋色の生地に、黒い線が幾つも走った柄。そして、朱塗りの塗下駄ぬりげた。赤い、朱い色。

 途端、目の前が少しの間、真っ赤に染まった錯覚を覚えた。私は以前に、これに似た不吉な色を見たことがあるのではないか? 思い出せ。しかし、思い出せない。心の内側で葛藤が続いた。

「どうしたんだい。私の誘いを断るのかい?」

 ぐるうり、と脳味噌の中を掻き回すようにして女店主の声が私に響く。私は、しばしの沈黙の後、自らも思考として自覚していなかった言葉を吐き出した。

「あなたは、何者なんですか」と。

 聞いた途端、女店主の顔色が少々、変化したように見えた。気のせいかもしれないが。一方で私は、何故、そんなことを尋ねたのだろうと思い返していた。ただ、女店主を色で喩えると、恐ろしい程に真っ赤な色が想起される。何故、何故、私はそんなことを思うのだろう。また、私は忘れてしまっているのだろうか。自らの名前と同じくらい、忘れたくとも忘れられない筈の大切なことを。

「何者? ただの菓子商店の店主さ」

 女店主は、飄々ひょうひょうと答えた。だが、「ただの」という言葉に引っ掛かりを覚える。繰り返すが、この町が異質なことくらい、もう私にも分かっている。女店主が「ただの」菓子商店の人間であるわけが無いのだ。否、人間かどうかも分からない。

 私は、もう一度、女店主が着ている着物を見た。鮮やかな、赤。その色が私に警告する。近付いてはいけないと。

 そうだ、真に信用するはどちらだ? この、菓子商店の女主人なのか? 違うだろう。これまで、必死に私を助けようとしてくれた灰色と朽葉だろう。考えてみれば、私のことを何も知らない内から、灰色は私を助けようとしてくれた。未だ、何故、私をそうしようとしてくれるのか理由は聞き出せていないが、灰色はいつも真摯だった。菓子商店でも、自らの身を危ぶめてまで私を助けてくれた。朽葉も同じだ。おそらくは、この町での決まり事を侵してまで、私に協力してくれている。その朽葉が言うのだ、今日で三日目だと。今日を越えれば、私は置かれている状況を理解する筈だと。

 春野華のことは気になる。気になるが、菓子商店の女主人を信用することは出来ない。それから、灰色と朽葉の二者については、信用していることもあるが、情、もあったのかもしれない。私は二者が好きだ。共にいた時間は短いかもしれないが、惹かれている。彼らを、好きになっている。私の返事は決まった。

「其方には行かない。私は、此処で働く」

 その時、私は此処に来てから十二日が経過していることを思い出した。

「……ふん、そうかい。なら、用は無いさ。まあ、気が変わったらいつでもこちらは歓迎するよ。ああ、朽葉。灰色の奴と同じく、やり過ぎは禁物だよ。忠告したからね。これでも大目に見ているんだ」

 言い残し、女店主は乱暴に扉を開け、ぴしゃりと閉めて去った。不意に朽葉が振り返る。

「ありがとう、僕らを選んでくれて」

 光る朽葉色の瞳は、濡れたように光っていた。

「いや、此方こそありがとう。何処の誰とも知れぬ私の為に、色々と良くしてくれて。感謝している。右も左も分からないこの町で、私は灰色の彼と朽葉、君がいてくれたからこうしていられる」

 朽葉は、ぱちぱちと瞬きをした。

 すると、かんはつれずにまたも貸し本屋の扉が、がらりと開いた。灰色の彼だった。

「今、女店主が来ていたようだが」

「うん、大丈夫」

 灰色と朽葉は短い会話を交わし、両者共に私を見た。

「今日は此処に泊まって行くと良いよ。君の記憶が少しでも戻るかもしれないし、話したいこともあるんだ。今後、きっと君は忘れない」

「ああ、ありがとう」

「此処での三日は勝負の日数なんだ。皆、そのことに気付かず、菓子商店に行ってしまい、誘われるままに三度、自らの体験談を話してしまう。事実、君もそうだったろう?」

「私が止めねば、こいつは三度目の話をしてしまっただろうな」

 灰色が口を挟む。その通りだったので、私は頷く。

「そうなると、もう戻れない。此処で生きて行くしかなくなる。それくらい、その数字は大切なんだ。そういったことも含めて今日は君と話をしたい。それに、気になることもあるんだ。今日は此処にいた方が良い」

「気になること?」

 私の問いに、朽葉は肯定を返す。

「そうだな。とりあえず私は外灯を灯してくる。朽葉、あとで松明たいまつの用意をしてくれ」

「うん」

 言うと、灰色は玄関扉を開け、出て行った。

「じゃあ、店番の続き、よろしくね。それと、本当にありがとう。僕達を信じてくれて」

 ふより、と朽葉は奥へと引っ込んでしまう。私は再び椅子に座り、客が来るのを待った。だが、以降で外灯を灯した灰色が玄関扉を開ける以外に、その日、扉が開くことは無かった。





 夜、日付の変わる少し前、私達は囲炉裏を囲んで、ただその小さな火を見つめていた。

 私と灰色は、以前のように此処に泊まることになった。今日を越えれば、私が貸し本屋で働き始めて三日目を終えることになり、朽葉の話では、私は置かれている状況を理解する筈で、かすみの懸かった頭も晴れるということだった。それは私としても願ったり叶ったりだ。

 だが、私の心情とは裏腹に、灰色と朽葉はほとんど言葉を発さず、雰囲気が重い。もう数刻はこうしているが、聞かれたことと言えば、「寒くない?」と「喉、乾いた?」くらいだ。いずれも朽葉によるもので、灰色に至っては無言だ。灰色が言葉少ななのはいつものことだが、心なし、その表情が固かった。

 今日は確かに三という数字を越える日で、大事な日なのかもしれないが、そのように厳しい顔付きをするようなものなのだろうか。私としては、自分の記憶か何かしらが得られるものと思い、少なからず喜ばしく思っているのだが。

「女店主の言葉を覚えてる?」

 不意に沈黙を破り、朽葉が私に話し掛けて来た。その朽葉という名前と同じ色の瞳をしばたたかせ、私をじっと見る。

 女店主は様々なことを言っていたので、正直、どのことを指しているのか分からず、私は問う。

「どの言葉のことだ?」

「此処ではえにしが大切だ、っていう」

「ああ、そういえばそんなことを言っていたが。どういう意味なんだ?」

「此処では――この町では、おそらくほとんどのことが縁で繋がっている。僕も、決して詳しいわけじゃない。ただ、長い間、此処で色々なものを見て来てそう思ったんだ。君は菓子商店で二度、話をしているよね。それはきっと、君自身に深く関わることだ。そして此処に来ることになったきっかけすら、含んでいると思う。それから、君は春野華という人のことを気にしていたね。それも、縁だ。君と全く関係の無い人物では無いと思う。そういうことが、もうすぐ少しでも君に伝わる筈だ」

「伝わる?」

「うん。何処か、遠い所から。もともと君が持っていたものが、少量でも、もうすぐ返される。ただ――」

 その時、ずずず、という、何か重たいものを引き摺るような音が聞こえた。

「来たな」

 灰色が、言う。

「うん」

 朽葉が、返す。

 二者は座布団に着けていた身をふわりと浮かせ、周囲を窺うように両目を動かした。ずずず、ずずず、という音が、一定の間隔を置いて繰り返される。私は、この音をいつかに聞いたことがある気がしていた。

「来たって、何が来たんだ?」

 私の質問に対する答えは無く、二者は互いに頷くと、灰色は玄関扉の方へと飛び、朽葉は私の真横に移動した。その間も、重い音は続いている。私は少々、空恐ろしくなり立ち上がろうとした。それを、朽葉に制される。

「動かないで。静かにしていて」

 押し殺したような声に、私は起こし掛けていた膝を元に戻す。がらり、と玄関扉が開く音がした。灰色が表に出たのだろうか。重く不気味な音は、気のせいでなければだんだんと近付いて来ているように思えた。何者かが、此方に来ている?

「朽葉」

 私が小さく名を呼ぶと、目だけで朽葉は応えた。

「私は、この音を聞いたことがある気がする。この町で。そして、それは確か、ひどく不気味で禍々しくて、およそ人の踏み入れられる領域のことでは無かった気がする。はっきりとは覚えていないのだが、私は其処で、見てはいけないものを見てしまったような……」

 朽葉は黙して答えなかった。

 代わりに、

「此処にいて」

 と言い残し、玄関扉を開けて表へと出て行ってしまった。

 重たい何かを引き摺るような、ずずず、ずずず、という音は、確かに近付いて来ていた。私は冷や汗が滲むのを感じる。大の男が情けないと思われるかもしれないが、私は得体の知れない恐怖から心細さを感じ、灰色、朽葉、と小さく声に出して呼んだ。答える声は無く、その間も不気味な音は続いている。しかも、大きくなって来ている。近付いているのだと明らかに分かる。

 灰色と朽葉は外へと行ってしまったが、大丈夫なのだろうか。私は、此処で何をしたら良いのだろうか。そもそも音の正体は何なのだろうか。そんなことが一度にぐるぐると頭の中を何度も何度も駆け巡り、私は少し気持ち悪さを覚える。

 その時、不意に高く細い鳴き声のようなものがした。それは女性の叫び声を凝縮し、糸の形にしたような、何処かさびしく、だが、空恐ろしいものだった。動物の声では無い。およそ、この世の生き物では無いと思われる鳴き声だった。

 そして、重たく鈍い音は止まった。私の勘違いで無ければ、音はこの貸し本屋の前で止まったように思える。私は凍り付いたようにして、ただ其処に座っていた。いつの間にか下を向いていたのだろう、両膝の上で握り締められた自身の両の拳が目に入る。此処にいて、と言った朽葉の声が心の中で飽和するように繰り返された。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。四半刻しはんときは経っていないように思えるし、それ以上の時が経過したようにも思える。未だ、灰色も朽葉も帰って来ない。あの重たく、何かを引き摺るような音も聞こえては来ない。ということは、その生物とも何とも分からない何かは、まだ貸し本屋の前にいるということではないだろうか?

 私はゆっくりと立ち上がり、玄関扉の方を窺った。其処で、私は息を飲む。煌々こうこうとした二つの火に照らし出された黒い影。それは扉より遥かに大きく、上が見えない、巨大な何かであった。二つの火は、おそらく松明たいまつであろう。そして、それが生み出す影から、持っているのは灰色と朽葉であろうということが分かった。

 私は思わず、一歩を踏み出す。同時、朽葉の言を思い出す。だが、私は彼らが心配だった。そして、巨大な影に恐怖を抱きつつも、負の好奇心を覚えていた。

 私は、これを見たことがあるのだ。そうだ、僅かながら覚えている。借り宿としている自室の明かり取りの窓から、金色こんじき猩々緋しょうじょうひの色彩を見たことがある。そして、いつかにも灰色と朽葉と共に遭遇したことがある。私は記憶を辿る。一人、明かり取りの窓からそれを見た時、激しい赤の中にある輪郭を見極めようと、目を凝らした覚えがある。結局、明確に認識することは叶わなかったが、私はもう二度も、この「何か」に遭遇しているのだ。

 二度。その回数が引っ掛かる。此処では、三という回数が重要視されている。そう、朽葉に聞いた。

 ――振り返れ。

 どきりとする感覚を伴って、灰色の言葉が脳内で反響する。それは、今までになく強く響き、私の心の真ん中に落ちた。

 私は、未だ動かない三つの影を見ながら、思い出そうとした。何を思い出そうとしているかは分からない。だが、思い出したいことがある。それだけは、はっきりと分かった。焦燥感が火のように私に滲む。思い出せ。私はこれまで、こんなに簡単に物事を忘れる性質では無かった筈だ。此処に来てから何かが狂い出してしまっている。思い出せ。

 私は知らず、玄関扉に近付いていた。恐怖で目を閉じてしまいたいという心情と、全てを見極めたいという心情が葛藤し、結果、私は目を見開くようにして此処に存在していた。あと数歩で扉に手が届くという時、私は以前、朽葉に言われた言葉を正しく思い出した。

 ――三は最小の完全トーティエント数。まあ、それ自体にはあまり意味は無い。完全云々は三という直接の呼称を避ける為に用いているだけなんだ。言わば、忌み名や隠し名のようなものだね。それで、三という数字には古来から様々な意味があってね。たとえば、物事の成り立ちとか物事が複雑化する象徴であるとか。色々な捉え方がある。此処では特に、そういう意で使われているんだ。つまり、物事の成立、或いは複雑化。或いは、反転。

 ――反転?

 ――そう。もしくは現実化。この町では三という数字、回数が極めて重大な位置にある。君がそれを手にしてしまうと、君はもう此処を現実にするしかなくなるんだ。僕らのようにね。

 その記憶の中で、幾つかの単語が私の中で拾い出される。三。成立。複雑化。現実化。私は、この扉を開けて金色の化け物を見れば、それは三度目の遭遇になる。朽葉の声が頭の中で再び響く。

 ――君がそれを手にしてしまうと、君はもう此処を現実にするしかなくなるんだ。

 だが、私は足を進めた。直感と言っても良い。この扉の向こう側に、私の求めていた解があるような気がした。

 思えば私は、灰色に助けられ、朽葉に導かれ、今日までを過ごして来た。何処とも知れないこの町で、私は生きて来られた。菓子商店で三度、自らの話をし、三度、其処の菓子を口にすることは危険なことで、もう引き返すことの出来ないことになるのだと、はっきりとでは無いが二者に教えられた。とても感謝している。

 しかし、私はもう教えられ、待つだけの身でいることはしたくなかった。灰色も朽葉も、自らの身を危ぶめてまで私に真実を語り、体を張って私を守ってくれた。今も、そうだ。二者は松明たいまつを掲げ、家屋の外にいる。私は家屋の中にいる。安全と思しき、家の中に。

 私は扉に手を掛けた。もしかしたら、金色の化け物と三度の遭遇を果たすことで、私はもう帰れなくなるのかもしれない。私は自分の名も故郷の場所も忘れてしまったが、それでも帰りたいと思う。その願いを、今、自分の手で壊そうとしているのかもしれない。

 けれど、私は自分の目で確かめたい。金色の化け物が、何であるのか。そして、胸に引っ掛かる棘のような予感の正体を。心を決め、私は思い切って扉を開けた。

 其処にはそれぞれに松明を掲げ、宙空に浮かぶ灰色と朽葉の姿があった。そして、金色の毛に包まれた、山のように巨大な生物と思しき何者かの姿も。

 私がそれに呆気に取られていると、

「何故、来た!」

 と、灰色が大きな声で怒鳴るように言った。

 だが私はその怒声よりも、目の前を埋め尽くすようにして広がる風景――いや、化け物に目を奪われ、ただ立ち尽くすばかりだった。そして、思い出して行く。ああ、やはり私はこの化け物に出会ったことが二度、あるのだ。これで三度目の邂逅なのだ。だが、今までと違う点――いや、一度目の邂逅の時、確かこれに似た様子を私は見ている。明かり取りの窓の隙間、私はこの化け物を確かに見、金色の毛が裂かれるように割られて、その中の猩々緋しょうじょうひが溢れんばかりに禍々しく私の目に映ったことを覚えている。そして其処に、何かの輪郭が幾つか見えたことも。

 私は、一歩、踏み出す。恐ろしく思いつつも、私は手を伸ばす。其処には私の知る人物がいたからだ。

「何をしている! 戻れ!」

「近付かないで!」

 最早、灰色の声も朽葉の声も、私の耳を擦り抜けて行くだけだった。強く尖った両者の声は私を止めるには適わなかった。

「春野、華……」

 猩々緋しょうじょうひの中心、其処には春野華がいた。まるで化け物に取り込まれるようにして両腕と両足の半分近くは猩々緋の中に埋まり、体も所々、血のような赤の中に沈んでいた。それはまるで血の海の中を漂っているようにも見えた。松明たいまつに照らし出された彼女の顔色は蒼白で、生きているのかどうか分からない程、生気が無かった。両目は力無く閉じられ、青白い唇は何も語らなかった。

 私は彼女の名を呼んだ。それでも反応が無い。化け物の中、猩々緋の断面はそんな彼女と正反対のように、生きているように、力強く脈打っていた。諸処に血管のようなものが見え、それは猩々緋の全体と同時に呼応するように心臓の鼓動の如きものを刻む。

 私は更に足を踏み出し、三度目になる、春野華の名を呼んだ。

「華!」

 それを阻むように、灰色と朽葉が松明を交錯させ、私を止める。少し、火の粉が散った。

 私は思わず灰色の肩辺りに手を掛け、食い掛かるように尋ねた。

「これはどういうことだ! 何故、彼女がこんなことになっている! この化け物は何だ、一体、一体……!」

「落ち着け!」

「これが落ち着いていられる状況か! 何故、この化け物は此処に来た! 私が目当てか? ならば私を喰えば良い!」

「落ち着いてよ! 君は帰るんだ、君の帰るべき場所に。正しく振り返るんだ。思い出せる筈だ。これは悪夢なんだよ。君には君の正しい場所がある」

 その時、ずっと沈黙していた化け物が言葉を発した。それは地を揺らすような、地の底まで響くような、おどろおどろしい声音だった。

「悪夢とはうまく言ったものだな、朽葉。だが、これは夢では無い。此処に来た人間が、正しく振り返ることなど出来はしないさ。灰色やお前の手助けは意外だったが、どうせ自分を重ねているのだろう? 結局、名も故郷も忘れ、正しく振り返ることが出来ず、姿を変えてまで此処に留まることしか出来なかった自分達を。この人間を助けることで、自分が救われた気になりたいのだろう? 私には手に取るように分かるさ、お前達の気持ちはな。哀れなことよ」

「そんな、僕達は、そんな……」

「朽葉、聞くな!」

 うなだれる朽葉を叱咤するように灰色が叫んだ。

「この人間が仮に正しく振り返り、正しく居場所に戻れたとしようか。それでもお前達は救われないよ。この人間と別れるだけの話だ。それならばいっそ、共に在れば良いではないか。三者で傷を舐め合うと良い。この人間にも、お前達のように永住権を与えてやっても良い。私の邪魔をしないという条件付きならな。でなければ、こうして私に喰われるだけさ、大抵の人間は。いいや、人間とも最早、呼べぬのかもしれないがな」

 ははは、と嘲笑うように化け物は笑った。その笑い声が私を正気に返らせる。いや、この状況で、何が正気で何が狂気なのかは分からなかった。だが、私は恐怖を打ち払い、化け物に向けて叫んだ。

「春野華を放せ!」

 化け物は一度、天空まで届きそうな体をぶるりと震わせ、言った。

「無駄さ。死に行く者に慰めは無用」

 途端、猩々緋の中に濃紺の泡が幾つも幾つも湧いた。ぶくぶくと湧くその水泡は、やがて速度を速め、春野華を飲み込んで行く。

「華! 目を覚ませ、華!」

 私を遮る松明に手を掛け、私は呼び掛けた。だが、ついぞ春野華が目を開けることも、その唇が何かを告げることも無かった。水泡だらけの中、春野華は飲み込まれ、全ての濃紺の泡が消えた時には春野華の姿も泡のように消えていた。

「春野、華……華……」

 私は何かをなくしたように呟いた。いや、事実、目の前でなくしたのだ。春野華という人物を。彼女は死んでしまったのだろうか?

「中に戻るんだ」

 灰色が強い口調で言った。だが私は、その言を無視して化け物に尋ねた。

「華、華は! 華は……!」

 尋ねたとは言い難いかもしれない。私の口は、華、という言葉を繰り返すだけで文章になってはいなかった。消え行く泡沫うたかたのように生まれては、はじけ、空気中に溶けて行くだけだった。そんな私を嘲笑うかのように化け物は言った。

「たった今、死んだのさ」と。

 私は、松明たいまつに掛けていた手の力が抜けた。同時、情け無いことにその場にへたり込んでしまった。そんな私に灰色と朽葉が声を掛ける。灰色は先程と同じように、中に戻れと。朽葉も似たようなことを言ったかもしれない。最早、二者の声は揺り籠の遠くから聞こえて来ているようで、私の内耳ないじには正しく届いていなかった。中に戻る? 中に戻ってどうしろと? 華が死んだ? 何故?

 混乱する私に、再度、二者が声を降らせる。それでも私の思考は止まらず、立ち上がることは叶わなかった。二者の声より遥かに大きな声だった、私の思考を止めたのは。そう、見るのも恐ろしい、目の前の化け物の声だった。

「教えてやろうか。お前は悲しむ必要など無いのだよ。お前は一度、失っている。それをまた失っただけさ。それも魂の残骸のようなものを。そうさ、悲しむ必要など何処にも無いのさ」

「黙れ!」

 灰色が叫んだ。それでも化け物の声は止まない。

「お前は正しく振り返れない。いや、お前に限らず、此処に来たものは正しく振り返ることなど出来はしない。お前が華と呼ぶ奴すら、無駄だった。禁忌だと知ってか知らずか、草紙を出すのだと言って、何か書き留めていたようだがな。そんなものは塵芥ちりあくた同然だ。此処で大切なことは忘れることさ。受け入れることさ。お前は私の言う通り、菓子商店で働いていれば良かったのだ。そうすれば、無駄な希望を囁かれることも無かった。そいつらが何を言った所で、所詮は失った者の言葉。何にもなりはしないさ」

「僕達は……」

 朽葉の声が、ささやかに響く。それを引き裂くようにして化け物が言う。

「華とやら。確かにおいしく頂いた」と。

 私は涙も忘れて足元の地面を見るとは無しに見ていた。

 途端、先程に聞いた女性の細い悲鳴のような声が聞こえた。私が気怠い気持ちで、それでも引き摺られるようにして私が顔を上げると、其処には既に猩々緋しょうじょうひの山のような姿をした化け物はいなく、代わりに、菓子商店の女店主の姿があった。いつか見たように、あでやかな着物、朱い紅をして。その唇は三日月型に笑みを刻んでいた。

 理解が追い付かなかった。消えて――おそらく死んでしまった華。そして猩々緋の化け物の代わりに現れた女店主の姿。これは何を意味するのか。その私の疑問をまるで汲み取ったかのように、女店主が口を開いた。

「可哀想に。自らの名も忘れ、故郷も忘れ、こんな異郷に辿り着くとはな。だが、お前が初めてじゃない。悲しむことは無いさ。そう、お前の目の前で死んだ、春野華もそうさ」

 するとかんはつれずに朽葉が怒鳴るようにして言った。

「嘘を言うな!」と。

「嘘なんかじゃないさ。確かに春野華という人間は先程まで此処にいた。いや、人間だったもの、という言い方をした方が良いのだろうかね。彼女は良い店員だったのだがね。惜しいことをしたさ」

「思ってもいないことを」

 今度は灰色が淡々と告げる。

「いいや、本当さ。彼女は良い店員だった」

 だった、を強調するように女店主が言う。

「だが、踏み込む領域を間違えていたようだね。彼女の書き留めていた話。あれは現世うつしよと繋がる扉を開こうとしていた。脅威でもあったのさ。ただ、本当に良い店員だったからねえ。私も悩んださ。其処の男のことを除いても損と出るか得と出るか、思案していたのさ。まあ、結果的にはこのようなものになったが。仕方の無いことだね」

 私は、その言葉に立ち上がった。

「何が仕方無い! 何が仕方無いんだ! 何故、華がお前の都合で死ななければならなかったんだ! お前が何者であろうと、どうでも良い。今すぐ華を元に戻せ!」

「それは出来ない相談だね。幾ら此処が幽世かくりよとしばしば呼ばれる場所であったとしても――死んだ命を元に戻すことは無理さね。お前さんの世界でもそうだろう? 死んだ人間が生き返ることがあるかい?」

 死んだ。その言葉が、何度も胸に突き刺さる。

「お前が華を殺したのか」

「まあ、結果としてはそうなるかねえ。だが、遅かれ早かれあの子は死の道を歩んだだろうよ。彼女は生を忘れていなかった。忘却の川に身を浸しても尚、自分が生きていた頃の思い出とでも呼べるものに縋っていたね。だから書き物などしていたのだろうが……最早、どうでも良いことさね」

「どうでも良くなんかない! 華は……!」

 其処からは言葉にならなかった。華が目の前で死んだ。喰われた。そればかりが頭の中を巡り、廻り、私の理解の及ばない所に辿り着く。本当に、本当に華は死んだのか。そんな私の感情が顔に出ていたのだろう。そっと朽葉が私に手を置いた。灰色は私の顔を、ただじっと見ていた。

「私は、そろそろ帰るとするよ。これでも忙しくてね。ただし、灰色。朽葉。これ以上、その男に力を貸すなら此方にも考えがある。ゆめゆめ忘れないことだね」

 かつん、塗下駄ぬりげたを鳴らして女店主は私達に背を向けて歩き出す。町一番の菓子屋へと。私は赤い着物を着た禍々しいその女店主に、もう何も言うことが出来なかった。

「家へ、戻ろう。此処は、君の本当の家では無いけれど。中に入ろう。もうすぐ君は、元いた場所へ帰れる筈だ。勘だけどね。灰色の話によると、君は菓子商店の菓子を二度しか口にしていないのだろう?」

 朽葉の問い掛けにただ私が頷くと、ほっと溜め息のようなものが朽葉から洩れた。

「それなら、まだ機会はあるんだ。君が此処に来てからの日数も鍵になっている。君は、まだやり残したことがある筈だ。色々と整理し、思い出してほしい。僕達も協力する。ね、灰色」

「ああ、無論だ」

 両者の言葉を受けて私は危惧を覚える。

「だが……先程、女店主も言っていたが、お前達が私に協力することは危険なのでは」

 ふる、と朽葉が首を振る。

「良いのさ。女店主の言っていたことも強ち間違いじゃない。僕は――僕達は、君を救うことで自分が救われたがっているだけの、ただのエゴイズムで動いているだけかもしれないんだ。それでも信じてほしい。君を助けたいのは本当だ。もう菓子商店には近付かない方が良い。仮の家にも戻らない方が良いだろう。食事などは此方で用意する。それに、おそらくもうあまり時間が無い。君が此処に来て何日になる?」

「十二日だな」

 朽葉の問いに、私は、はっきりと答えた。先程に思い出した数字だ。

「そして先程の猩々緋しょうじょうひの化け物との遭遇。これで何度目?」

「三度目だな」

「前にも話したけれど、此処では最小の完全トーティエント数が重要な意味を持つんだ」

「反転、現実化、だったか」

「そう。だから僕と灰色は君が化け物と遭遇してほしくなくて家にいるように言ったんだ」

「……すまない」

 其処に灰色が言葉を挟む。

「いや、どの道、無駄だったかもしれんな。化け物が此処まで来たということは。もうこの男に狙いを定めている証拠だ。菓子商店で働く誘いも受けたことだしな。それは断ったが」

「狙い? 私も喰われるということか?」

「いや、現実化だ。お前が此処で生きていかねばならなくなるということだ。まあ、此処に存在することが生きていることになるのかは、私にも分からないが」

 少し自嘲気味に灰色が話す。そして続ける。

「朽葉の言う通り、まだ機会はある。お前は自分の何かやり残したこと――何か引っ掛かることを探すんだ。ただ、あまり時間は無い。急ぐことだ。正しく振り返ることだ」

「さあ、中に入ろう。僕は松明たいまつを片付けて来るから」

 そう朽葉は言い、灰色から松明を受け取ると家の裏側にふよりと飛んで行った。灰色は家の扉を開け、まるで私を待つような仕草をしてみせた。その何処か人間らしい所――そして、今までに聞いた話を合わせて考える。朽葉と灰色はかつては人間で、何かのきっかけで此処に迷い込んでしまい、帰れなくなってしまったのかもしれない――と。だが、私がそれを両者に言うことは無いだろう。それは、残酷な刃のような現実に思えたからだ。

 私は礼を言い、家――貸し本屋の中に入る。灰色が続き、やがて朽葉が戻って来た。施錠をして、私達三者は眠りに就いた。

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