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【警鐘を打ち鳴らせ】 第十章【惜別】

第十章【惜別】



 薄明かりが明かり取りの窓から入り込み、私を照らしていた。朝が来たのだ。目を細めてその光を見ていると、何処か懐かしいような気がした。どうしてかは分からない。ただ私は、その光をいつかに何処かで見た、ような――。其処まで考えた時、大丈夫? という声が聞こえた。振り返ると朽葉が心配そうな、遠慮気味な瞳で此方を見ていた。その少し後ろには灰色の姿もあった。二者はいつものようにふよりと浮き、ただ、私を見ていた。

「ああ、大丈夫だ。まだ起きるには早いのじゃないのか」

 私がそう声を掛けると、幾分かほっとしたように朽葉の目が細くなる。

「僕達には眠りはあまり必要では無いんだ。ね、灰色」

「……まあな」

 何か含みありげに灰色が言う。私は、特にそれについて追及するつもりは無かった。

「それより、何か思い付いたか」

 灰色が私に尋ねる。昨晩に言われたことだろう。何か、引っ掛かること。ああ、そうだ。あの、光。私は改めて明かり取りの窓から入って来る太陽光を眩しく見つめる。思い付いたというわけでは無いが、と前置きして私は二者に向き直り、話し始めた。

「この光と良く似た光を、何処かで見た気がしたんだ。何、太陽の光だ、此処では何度も目にしているし、おそらくは私が元いた場所にも太陽はあるだろう。私が人間で、此処とは何処か違う場所で生活していたのなら、だが。この太陽の細い光を――私は……見たんだ。うまく言えないが、きっと、此処に来る直前に……何処か知らない……浅く、深く、揺れ動く、何処か。

 そして、その記憶を元に、華に話をしたんだ。華は、私の話を書き留め、微笑んでくれた。あの光は……何処か遠い、水の中のような。そして華は言っていた。沼が綺麗だから一緒に見に行かないかと。確か……北の沼だ。私達は共に、その沼を見に行った。だが、華は消えて。沼も、世辞にも綺麗とは言えなくて。ただただ、暗澹あんたんとしていて、私には恐ろしいものだった。夕焼けの空の色も映さず、光も無く。魚の類の姿も無く。そうしたら朽葉が声を掛けてくれて。私は、はっとして沼を後にしたんだ。

 思えば何故、あの時、華は消えてしまったのか……。華の『綺麗』と言っていた沼は綺麗では無かったし……私は何となくだが、あの沼をもう一度、見に行きたい。まとまりが無い話ですまない。太陽の光と沼は全く関係無いように思えるし、沼を見た所で何が解決するとも思えんのだが。正直、見たくは無い気持ちもあるんだ。吸い込まれそうな、沼。だが、光と沼――光と水。この二点が、何か引っ掛かる」

 私が話し終えるまで、灰色と朽葉は黙っていてくれた。話し終えて二者を見遣ると、両者共に深刻な四つの目で私を見ていた。灰色は滅多に目蓋を開けることは無いのだが、今はそれが開かれている。闇夜に浮かぶ三日月を思わせる、二つの瞳。そして朽葉の、名の通り朽葉色で空に浮かぶ三日月を思わせる、二つの瞳。私は一呼吸し、告げた。

「今から、沼を見に行って来る」と。

 ――此処に来て、十三日目の朝。私は自分の言葉通り、沼を見に行くことにした。北の沼。春野華が「綺麗」だと言っていた、しかし私にはとても「綺麗」とは思えなかった沼。

 私は、一人で行くと、灰色と朽葉に告げた。何故? と、不思議がる二者に、特別に理由など無いと私は言った。だが本当は、ある。私はこれ以上、灰色と朽葉を巻き込みたく無かった。

 これまでの経緯をかんがみるに、二者が自分の身を危険に晒して私を助けてくれていることは明白だった。灰色と朽葉は――菓子商店の女主人の言を真と完全に捉えているわけでは無いが――此処で、生きて行くのだろう。私は、何処か違う場所へ帰ろうとしている身だ。私のような者が、此処で生活している者たちの邪魔をしてはならないと私は強く感じていた。

 本当ならば、私は彼らを助けたかった。私の力になってくれている、灰色と朽葉を助けたかった。もっと、もっと欲を言えば、菓子商店の売り子達は? 本当に此処にいるべき者達なのか? と自問した。助けられるならば、助けたいと。自分の名すらも思い出せない私だが、灰色と朽葉が私にしてくれたように、私も皆を助けたいと。だが、それは二者の言葉によって悲しく、だが、あっさりと否定された。

「君の気持ちは受け取ったよ。ありがとう。だけど、君が薄々と感じているように、僕達は此処で生きて行く。生きている、とも言いづらい形の生かもしれないけれど。僕の名前は、もう思い出せない。遠い、遥か彼方に置いて来てしまった。それを後悔すらしていない。後悔すら、此処では出来ない。流れて行く、膨大で圧倒的な時間の中に身を浸して、静かに息をする。それしか、出来ない。女店主の言ったことは、当たらずとも遠からず。僕は――僕達は、君を助けることで、いつかの自分を助けたいのかもしれない。過去の自分を、重ねて見ているのかもしれない。それでも、良いかな。君を、助けさせてくれるかな?」

 朽葉の真摯な言葉に私が頷くと、ありがとう、と返される。そして、灰色と呼ばれて久しい灰色の彼が、いつに無く多くを話した。

「お前は正しく振り返れる筈だ。そういう奴だから、私は及ばずながら力を貸したつもりだ。お前が本当に生きていたい場所へ、自分を運ぶんだ。この短いような長い時間、私は近くでお前を見て来た。私とお前は、そうだな、少しだけ何処か似ているように思う。朽葉の言を借りると、いつかの自分――という奴かもしれない。それが一番、収まりが良いように思う。お前を助けることで自分自身が救われたいのかもしれない。自己救済、という奴かもしれない。確信は無いが。それでも良ければ、力を貸す」

 私がやはり頷くと、そうか、と灰色が返した。

 ――私達三者は、一様になって北の沼への道を辿った。

 やがて、灰色も朽葉も私も、道すがら一言も発すること無く、北にある沼へと辿り着いた。

「これか」

「ああ」

 灰色の、確認を取るような独り言に私は肯定を返す。

「確かに、綺麗では無いね」

 朽葉の言葉にも、私は肯定を返す。

「だが、春野華は言ったんだ。確かにこの沼が、『綺麗』だと」

 私も言いながら、沼の水面を目を凝らして見つめてみる。しかし、沼は以前に来た時と様相を変えずに其処にある。ただただ暗澹あんたんとしていて、生物の影も無く、朝時分の太陽の光も映さない。底の見えない、暗い沼。時々、藻のようなものがうごめいているのが見えた。蠢いているように見える――と言った方が正しいのかもしれない。はたまた、藻であるかも分かりはしない。少なくとも、私には藻のように見えた。それだけだ。

 私は、この沼に「普通」を見出そうとして、藻のようなものが蠢いて見えたと考えているのかもしれなかった。けれども反面、「普通」では無いという期待も持っていた。いや、此処に来てから十二日間が過ぎたが、「普通」なものなど何も無かったようにも思える。だが、それでも思う。この沼が、そうであるようにと。

 私の記憶の底で光る、陽光と水のイメージ。華に語った物語。しかし、私の語った物語では、海の中に太陽の光が美しく差し込んでいたと記憶しているが、この沼には陽光の欠片も入り込む余地が無い。ひたすらに射干玉ぬばたまの如くに黒く染まっている。闇の色だ。一心に沼を見ていた私を危惧したのか、朽葉が私に声を掛けた。

「どう? あまり近付かない方が良いかもしれないよ」

「あ、ああ。すまない」

 一歩、沼から下がって、私は改めて沼を見つめる。確かに不気味な沼だが、特段、変わったことは無いように思えた。ただ、華の言葉が気に掛かる。華は言った。この沼が「綺麗」だと。

「どう思う?」

「私には分からんな」

 朽葉と灰色が、ふよりと浮いて沼の周囲を回る。

「大丈夫か」

 二者を案じて、そう声を発した私を灰色が振り返り――振り返る、瞬間を狙ったのだろうか、とでも言うかのような一瞬だった。波紋一つ、無い沼だった。それが急激に、水面に泡が出来る程に波気立ち、巨大な水柱を作った。そしてそれは、まるで命あるものかのように灰色に襲い掛かり、灰色を飲み込んだ。

「「灰色!」」

 朽葉と私の声が重なる。私より灰色の近くにいた朽葉は、駆け寄るようにして灰色の姿があった所へ近付く。

「朽葉!」

 私も、その場所に距離を詰めながら、今度は朽葉が飲み込まれるのではないかと案じ、朽葉に制止の意味も込めて叫んだ。その、ほんの数秒の間に灰色を飲んだ水柱は一気に高さをなくし、急速に沼の中へと戻って行く。

「灰色!」

 朽葉が水面まで身を移し、悲痛に叫んだ。だが、灰色は上がって来ない。泡一つ、浮かんでは来ない。

 私は、履物を脱ぐのも忘れて沼に飛び込もうとした、その時だった。私の片腕を力強く掴む者があった。前のめりになっていた身を引き戻されて反動に顔をしかめながら私が振り返ると、女主人が真っ赤な紅を三日月の形にして、微動だにせずに立っていた。何を、と言い掛けた私よりも先に、女主人の足元に控えるようにして立っていた白い猫が人間の言葉を話した。たった一言。愚かなことよ、と。

 私は激情に任せて、女店主の手を振り切り、再び沼へ飛び込もうとした。

 ――その時、再び激しい水柱が上がり、岸辺に灰色が乱暴に吐き出されるようにして投げ出された。すぐさま朽葉が駆け寄る。私も今度こそ女店主を振り切り、灰色の元へと駆けた。

「大丈夫か!」

 私の声にも反応しない、灰色。朽葉が泣きそうな声で、灰色の名を呼んだ。

「つくづく哀れなことよな。まあ、仕方あるまい。沼にも間違いはあるだろうよ。不用意に近付いた、お前が悪い」

「間違い?」

 灰色の元から女店主を見上げると、くっと唇を上げて、彼女は続けた。

「そうさ。人間という奴は過ちを犯すのだろう? それと似たようなものさ。この沼には意識があるのか――時々、獲物を間違うのさ。何、私の監視下にはある。心配はいらない。普段ならな。其処の灰色は、まだ現世うつしよに未練があったようだな」

 そして、溜め息を大仰な仕草で吐き、先程にも言った言葉を言う。哀れなことよ、と。

「その点、朽葉には感心する。とうに現世への未練は無いと見られる。此処に慣れ親しんでいる証だな」

「何を……」

 朽葉の戸惑いに満ちた声が場に広がる。

 刹那、ごほっという大きな咳と共に、灰色が身を起こした。

「灰色!」

「良かった!」

「安心している場合か?」

 私達三者は、女店主の足元に優雅に控えている白い猫を見た。今の言葉は、その猫から発せられたものだ。そういえば、と私は思う。確か、菓子商店で会ったことがある、と。あの時は、灰色が私を止めてくれて――。

「次の獲物は、お前ぞ。逃げなくて良いのか、人間」

 黒曜石のような瞳で、まばたきもせずに白猫は言った。灰色と朽葉の視線が私に集まる。

「私?」

 その短い私の問いとも言えぬ言葉が終わるよりも早く、またも沼から激しく大きな水柱が上がった。だが、水柱の立てる音よりも大きく、地の底にも響きそうな声音で、女店主が一言、告げた。命ずるように。

「待て」

 するとたちまち水柱は勢いをなくし、沼に吸収されるかのように高さもなくして行く。瞬く間に水の柱は消え失せ、沼には波紋一つ無くなった。

「あまり脅してやるな」

「寛大ですね。この町の暗黙の決め事を幾つも破った、この三者。店主はお怒りかと存じました」

「それは確かにあるがな。最早、隠し立てすることも無かろう。どの道、此処までだ。この人間は此処には似つかわしくない。他の魂の為にも、お帰り願おう」

「御意」

 静かな場所に、女店主と白猫の言葉が響く。

「人間」

 女店主が、私を見た。そして、黙り込む。その目は強く鋭く、逸らすことは叶わなかった。だが、元より逸らすつもりなど無かった。女店主は明らかに、あの猩々緋しょうじょうひの化け物だ。春野華を喰った化け物。許さない、絶対に。その思いをぶつけようと、私は口を開いた。

「春野華は、どうなったんだ」

 すると、女店主は呆れたように笑った。

「お前は此処まで来て、他人の心配をするのか。いや、他人というのもおかしな話か」

「どういうことだ」

 私の問いに、女店主は腕を組んで、ふむ、と唸った。

「やはり、気が付いてはいないか。これ程までにこの町を引っ掻き回した奴は、お前が初めてだからな。もしやとは思ったが。期待が過ぎたか。まあ良い、答えてやろう。お前は、私が春野華とやらを喰ったと思っているようだが――まあ、あながち間違いでは無い。しかし、私としてはそのように恨まれるのは心外だな。あの娘は、私の菓子商店の元、売り子。店主の私が、どう采配を取ろうと何ら文句はあるまい?」

「そんな言葉では誤魔化されない。もう一度、聞く。春野華を、どうしたんだ」

「どう、とは? そうさね、喰ったというのは語弊がある。だが、あれはもう魂のかすれがひどく滲んでいた。遅かれ早かれ、消滅するのが定め。私が自ら最後を決めてやっただけさ」

「消滅?」

「定着しない魂は、消滅するのが定め。あれは現世に心残りが多々、あった。物語を書き留め、いつか出版すると夢を語る。まるで人間のように」

「彼女が人間じゃないとでも言うような口振りだな」

「形だけなら人の子さね。それを言うなら私もだが」

「彼女と、お前が一緒なものか!」

 私が感情的に叫ぶと、白猫が口を開いた。

「人間。度が過ぎるぞ。店主自ら問答してくれること、その身に余ると知れ。これ以上、失礼を働くならば容赦はしない」

 白猫は立ち上がり、長い尻尾を一振りして見せた。それに、女店主が言葉を続ける。

「まあ、これで最後になる。大目に見よう」

「御意」

 白猫は姿勢を戻した。だが、黒い両の目はしかと此方を睨んでいる。

「――もう、頃合いか。そうさね、人間は最後の別れというものがあるのだろう?」

 女店主は腕を組み直し、私を――私達、三者を――改めて見た。

「時間をやろう。人間、灰色、朽葉。別れの時だ。最後の言葉を交わすんだな」

 私は思わず、灰色と朽葉を振り返った。灰色は珍しくその瞳を開いており、以前に白い猫と似ていると告げたら不快さを滲ませた闇夜を其処に静かに湛えていた。朽葉はその名前と同じ色の瞳で、私を何処か不安そうに見つめていた。私はというと、まだ女店主の言葉の指す所が分かり兼ねていて、ただ、はっきりと聞き取れた「別れ」「最後」という単語が、ゆっくりと頭の中で回転灯篭かいてんどうろうのように廻っていた。

「どうした、人間。別れの言葉は無いのか?」

 畳み掛けるように、女店主が私に問い掛ける。

「いや、言っている意味が……別れとは何だ?」

 ――否。私は、本当は分かっていた。

「お前を帰してやろうというのだよ。私の負けさ。最小の完全トーティエント数を越えること無く、お前は私に勝ったのだ。魂のかすれに、完全に惹かれることも無く」

 ふ、と女店主が笑んだ。

「お前は見込みがあると思ったんだがねえ」

「……帰す、とは」

「お前を現世に帰してやろう。今日で十三日目を迎えるお前に、もう用は無いさ。これ以上、此方を引っ掻き回されても私も困るのでね」

 ――帰す。帰れる?

「……どうやって」

「簡単な話さ。其処の沼に身一つで飛び込めば良い。すぐに導きが現れる」

「……灰色が、飲まれたのは?」

「奴は現世に未だ未練があるようだな。この沼は魂の未練を感じ取る。また、魂も沼を感じ取る。そういう意味でも、春野華はもう限界だったのさ。気にすることは無い。お前が元の場所に帰れば、全て分かること。それを記憶していられるかは、お前次第だがね」

「……そうか」

 私は、完全に納得したわけでは無かった。それでも、女店主の言葉には真実味があった。全てを語ってはいないだろう。だが、偽りは述べていないと。私は――少なくとも私は、そう感じたのだ。

「灰色」

 最早、彼の代名詞となった色の名前を私は呼ぶ。先程の水柱に飲み込まれたことからは回復したのか、灰色は開いた両目でしかと私を見て、何だ、と感情の読み取れない声で言った。

 ――ああ、そうだったなと思う。灰色は、いつも私の近くにいてくれた。その身を危険に晒しながら私を守り、振り返れ、という言葉で私を導いてくれた。ただ、その声と瞳からはなかなか感情が読み取れることは無かったように思う。それでもいつも私のことを考え、思っていてくれることは良く、分かった。

「どうやら、これで最後らしい」

「そのようだな。奴の言葉を信じるならば、だが」

「お前は最後まで不遜だな。一応は、女主人の、何て言うんだ」

「言いたいことは分かるが、私は私だ。誰の物にもならない」

「――そうだな。」

 少し、沈黙が流れた。

「これで最後なんだ。名前、教えてくれないか」

 私は、残酷かもしれない問いをした。

「無い」

 やはり感情の読み取れない声で、灰色は告げた。

「そうか」

「ああ。私も名前は忘れてしまった。それは遠く昔のことにも思えるし、そう遠くない、最近のことのようにも思う。此処にいると、時間の流れが良く分からなくなる。早いのか、遅いのか。ただ流れの中に身を置いて、揺蕩たゆたうしか無くなる。幸福も不幸も無いように思う。

 けれど、私は。もう知られているから正直に話そう。私は、帰れるものならば、帰りたい。自分が元にいた場所に。其処で帰りを待つ人が、もしも、もう誰一人いないとしてもだ。私は、もう思い出せないが故郷と呼ぶべき場所があった筈だ。其処に戻りたいと願って、誰が笑うだろう。いや、誰に笑われても良い、私は帰りたかった。お前に少なからず手を貸したのは、女店主の言うように、きっと自分とお前を重ねていたんだろうな。重ねていたんだ。そして、お前を助けることで、自分が助かった気になりたかったのかもしれない」

 灰色は一度、言葉を切った。開いていた目を閉じ、少しの間の後、それは再び開かれ、私を見た。

「利己的で、すまない。だが、お前を助けたかったのは嘘では無い」

「分かっている。ありがとう」

 灰色は、じっと私を見て、やがて朽葉へと視線を移した。私も、それに倣うようにして朽葉を見る。

「朽葉」

 私が呼び掛けると、朽葉はふよりと浮かんで何処か遠慮がちそうに私の正面に来た。

「あの、僕、あまり力になれなくて」

「そんなことは無いさ。灰色も朽葉も、本当に良く助けてくれた。立場などがあっただろうに。すまない」

「良いんだ。僕は、もう本当はどうなっても良いと、思っていたから」

「朽葉」

 私の驚いた声に、朽葉が自分を誤魔化すかのように、ふよりと漂った。

「僕はもう、此処での暮らしに飽きていたんだ。灰色のように、戻りたい場所も無い。名前は朽葉と付いたけれど、本当の名前はもう分からない。二度と帰れない場所、戻らない時間。そういったものを思いながら暮らして行くことに、少し、疲れて来ていたんだ。長い長い時間を、此処できっと過ごして来た。希望は無かった。代わりに、絶望も無かった。

 だけど、君と出会って、僕は君の力になりたいと思った。どうしてだかは明確には分からないんだ。灰色と同じ気持ちで、君を助けたかったのかもしれない。でも、何か違う。僕はきっと、灰色とは違う、別の気持ちで君を助けたかった。それは、僕がもう忘れてしまった、人としての気持ち。困っている人がいたら、助けたいと思う気持ち。勿論、灰色のように、自分と君を重ねていた所も、ある。だけど僕は、ただ君が困っていた、だから僕で力になれるなら、助けたかった。それだけなんだ。ごめん」

 何故か朽葉は謝り、その小さな手で頬を掻いた。

「謝ることなんか何も無い。謝るのは私の方だ。灰色同様、此処での暮らしの立場などもあっただろうに」

「良いんだ、そんなものは。僕は、もうどうなっても良いと」

「朽葉」

 それまで黙って聞いていた灰色が、口を挟んだ。

「すまない」

「どうして、灰色が謝るの」

「さっきのことを気にしているのだろう」

 流れる沈黙。私は良く分からなくて、灰色の言葉を待った。

「現世に未練があったという話だ」

「……うん」

「私は確かに帰れるものなら帰りたい。それは今も昔も変わらない」

「うん」

「だが、もしも帰れる日が来るのなら。私は、朽葉、お前と一緒に帰りたい」

 其処で、灰色の方を見ていなかった朽葉が、くる、と灰色を振り返った。

「お前とは長い。確かに故郷と呼べる場所には帰りたいが、お前を此処に残してまで、帰りたいとは思わない」

 朽葉、と灰色が改めて呼び掛けた。

「これからもよろしく頼む」

 そして、灰色が小さな手を差し出した。その手を朽葉が緩やかに握る。

「うん。僕も、よろしく」

 二者の纏う雰囲気が何処かあたたかいものになったように感じた。しかし、私がその和やかさを味わういとまも無く、女店主が別れを急かす。

「もう、良いかい。私としては不穏分子は、さっさと帰すに限ると思っていてね」

 退屈そうに言い捨てる女店主に、私は、ひとつだけ、と告げた。

「ひとつだけ、お願いがあります」

 すると、女店主の足元に控えていた白猫が、人間の分際で、と言ったのが聞こえた。それを女店主は制し、私に向かって告げた。

「言ってみるが良い」

「今回のことで、灰色と朽葉を責めないで下さい。全ては、私の責任です」

「ふん、その責任を取れないだろう? 何せお前は、これから現世に帰る身なのだからな」

 黒髪を流し、女店主は言う。

「まあ、良い。私の管理不足でもある。それに元来、私は面倒事が嫌いでね。今回のことは不問とする。他の魂にも影響は少ないようだしな。だが、今後は許さない」

 ぴしゃりと言って、女店主は朱色に染められた塗下駄ぬりげたを一歩、前に踏み出す。

 私が灰色と朽葉を振り返ると、二者は神妙な面持ちで女店主を見、その後、私を見た。そして二者がそれぞれの言葉で謝辞を小さな声で私に言った。それが聞こえていたのかは分からないが、その言葉を皮切りにしたのか、女店主は懐に手を遣り、塗下駄と同じ朱色の扇面に漆黒のかなめの扇子を取り出した。そして、ばっと開く。

「さあ、お客人のお帰りだよ!」

 女店主は扇子を高く掲げ、告げた。

 すると沼の中心部からどうっと水柱が立ち、その飛沫が私達を濡らした。

「灰色! 朽葉! 世話になった!」

 私は精一杯の叫びで二者に感謝を伝えた。

「もう来るなよ!」

「元気で!」

 灰色と朽葉が口々に言った。

 ――水柱が私を襲う。私を瞬く間に包み込む、水の柱。その水の音が耳鳴りのようにして響き始めた時、もっと遠く、いや近くで、いつかに聞いた鐘の音がいつまでも響き渡っていた。

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