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【警鐘を打ち鳴らせ】 第二章「完全トーティエント数」

第二章「完全トーティエント数」



 私に分かることは少ない。町がある、菓子商店がある、奇妙な生き物がいる。そういう所に私がいる。簡潔にすればこれくらいにまとまってしまう程、私に分かることは少ない。だが、たとえ簡潔にしなかった所で、さして変わりはしないだろう。

 昨日、菓子商店の中のとある売り場にて貰った最中もなかを一つ食べ、私は今日も其処へ赴く。灰色の座布団のような猫のような生き物が地上から僅かに浮いた所を移動しながら、私に付いて来る。未だに慣れない。

「なあ、お前はどうして浮いているんだ?」

 道すがら、私は彼に尋ねる。

 彼は普段のほとんどを瞳を閉じて過ごしていた。今もその両目はきっちりと閉じられていて、閉じているのではなく元々其処には目など無いかのようにも思えるほど、その境目は灰色の毛に覆われているのか分かりづらかった。

 だが、私の言葉に反応するように彼は此方を見る。いや、見たような気がした。

「私が浮くことに特に理由など無い」

「いや、そういうことでは無くてだな」

「では、お前は何を尋ねたいのか。何を知りたいのか」

「普通、猫は浮いて移動はしないだろう」

「私は猫では無い」

「ああ、それは私が勝手に思っているだけなんだが。とにかく、猫にしろ違うにしろ、お前には羽や翼があるわけでも無し。それなのにどうして浮くことが出来るんだ?」

「事象には理由が存在する。だが、私のこれを説明することは難しい」

「難しくて構わないから話してくれよ」

「拒否する」

「どうしてだ」

「私には話したくないことを黙秘する権利も無いのか。人間とは身勝手なものだ。そうしてすぐに詮索をし、自らの理解の範疇を超えたものに関しては疎外する。何とも愚かだ」

「いや、言いたくないならいい。ただ、気になったから聞いてみたかっただけだ」

 彼は大きな溜め息でもつきそうな様子だった。

 私は何も無理に聞き出したいと思ったわけでは無い。慌ててそう付け足すと、好奇心は有った方が良い、しかし時にそれは身を滅ぼす、と彼は静かに言った。

 そして少しの沈黙の後、何処か意味有り気な声音で彼は口を開く。

「私に関してそれを発揮することはあまり実り多い結果にはならないだろう。だが、私以外に関しても同じとは限らない」

「なあ、いつも思うんだが。もう少し噛み砕いて言ってくれないか。ああ、誤解してほしくは無い。私は、その独特な話し口調が嫌いだというわけでは無いんだ。ただ、何か深い理由があって言っていることについてだけでも、分かりやすくして貰えたら助かるんだが」

 彼は再び黙りこくる。その内に、菓子商店が見えて来た。

「努力する」

 ぼそりと彼が言う。

 では早速、先程の言葉の指す所を分かりやすく説明してくれないかと私は頼んでみたのだが、彼からはいつもの言葉が返されたに過ぎなかった。即ち、「振り返れ」と。一体、何処をどう努力してくれたのか私には理解が及ばない。

 菓子商店に入ってすぐ、私は昨日の売り場を目指した。特に何か理由が有るわけでは無いのだが、あの売り場にいた彼女は私が此処で多く言葉を交わした者だ。何しろ、此処で話らしい話をした相手は菓子商店の女主人と足元の灰色の彼だけだった私にとって、久しぶりに会話というものをしたように思えて、少なからず嬉しかったのかもしれない。その多くは私が彼女に望まれるままに語った話で占められていたようにも思えるが、とにかく私は昨日の売り場を目指した。

 また、そうする理由は実は他にあるのかもしれないと私は思った。だが、それを明確に説明は出来ない。言うなれば、引っ掛かりというか違和感というか……そういう不透明で不鮮明な、何かしらの錯覚とでも言い表せる感覚だ。けれども、無視することが出来ないほどには大きく、無為に出来るものでは無かった。

 午前中だというのに、既に菓子商店の店内には多くの客の姿が有った。彼らは様々な売り場を物色し、ある者は菓子袋を手に取ってみたり、ある者は試食をしたり、またある者は売り子と会話をしていたりしていた。それらを、各売り場に必ずと言って良い程、一匹はいる猫が観察するかのように眺めている。猫は行儀良くきちんと座布団の上に収まっていて、客を見ている以外ではせっせと毛繕いに勤しんでいる様子が多く見受けられる。彼らは其処らを歩いたりすることは無いのだろうか。

 しかし、やはり食べ物を扱う店に動物を入れるのはどうかと思うのだが、誰一人気にしているようには見えない。女主人の経営方針なのだろうか。不思議な所だ。

 広い店内故に少々迷ってしまったが、私はようやく昨日の売り場へと辿り着くことが出来た。其処には昨日の通り、彼女の姿がある。彼女も私に気が付いたのか、春の陽だまりのように微笑む。

「あ、こんにちは。昨日はどうもありがとうございました」

 そう言って小さくお辞儀をする様子は可愛らしく、その拍子にゆらりと揺れた黒髪が私の目には舞を踊っているように映った。

「良かったら、ご試食どうぞ」

 彼女の示す先には、薄皮饅頭と金平糖がある。私は雪のように白い金平糖を一つ、手に取った。そのまま口へと運ぶ。じわりと甘い。だが、その甘さを本格的に味わうよりも早く、足元から小さな溜め息が聞こえた。言うまでも無く彼からである。

 私は金平糖を舌で転がしながら、彼へと視線を落とす。依然として彼の両の目は閉じられており、表情を窺うことは出来ない。だが、何かを私に伝えようとしていることは明らかだ。そう、確かに昨日の彼の態度も引っ掛かる。食べるのか、と。まるで警告のように告げた彼。しかし、私に分かることは此処までに過ぎない。彼は一体、何を思っているのだろう。何を、知っているのだろうか?

「お味は、如何ですか」

「ああ、おいしい。ありがとう」

 不意に掛けられた声に顔を上げると、売り子の彼女と目が合う。其処で彼女は、にこりと笑った。

「良かったら、お買い求めになりませんか?」

「いや、生憎、手持ちが無くてね」

 昨日と同じような会話。それ自体には別段、何の問題も無いだろう。それでは私が問題視していることは何なのだろうか。

「でしたら、何か面白いお話を聞かせていただけませんか。もし聞かせていただけるなら、それを御代の代わりにして金平糖を差し上げます」

 どうでしょうか、と緩やかに誘うように彼女が続ける。

 昨日の私は此処で頷いたのだ。それが今日は、正体の見えない力によって遮られる。何故だろう。私は自分一人が唐突に霧の中に放り出されたような感覚に陥る。私は頷くのか、頷かないのか。

 行動には理由が存在する。昨日の私は、面白い話をいつか草紙にまとめて出版することが夢だという彼女の言葉と笑顔に惹かれて頷いた。それでは、今日の私は?

「私は……」

 言い淀み、泳いだ私の目に、一匹の猫が映り込む。猫は菓子売り場の右奥で、深い紫色の座布団の上に座っていた。

「あ、猫がお好きですか?」

 私の視線の先を見遣り、彼女が言う。

「此処では、何処の売り場にもいるんですよ。町の人もみんな、猫が大好きなんです」

 その猫は真っ白だった。雪景を切り出したかのように思わせるほどの白さで佇み、不思議なほどにじっと此方を見ている。瞳は黒曜石のように深く、黒い。その二つの闇が瞬きもせずに私を、或いは私と売り子とを見続けている。いつしか私はその猫から視線を逸らせなくなった。黒い硝子のようで艶の有る、夜空の一部のような瞳から。

 色だけで言えば、足元の彼の瞳と目の前の猫のそれとは非常に良く似通っていた。何処までも黒く、吸い込まれそうな闇夜。其処に浮かぶ、黄金の三日月。

 だが、決定的に違うことは、こうして此方を見つめるそれは鋭く、言い知れぬ恐怖すら覚えさせる程のものだということだ。そして、確かに向けられている瞳だというのに、その実、私達など本当には見ていないようにも思える。透過し、無を見つめている。そんな気がした。

 たかが猫の目だろうと言う人もいるかもしれない。もしくは、たかが猫に見られたくらいで大袈裟だと。しかし、これは決して大袈裟では無いと私は断言する。

 私に向き直った売り子の彼女、その背の向こうで、今も私達を射抜くように刺し続ける視線、瞳。現に私は、この場に縫い留められたように動けなくなってしまった。

「どうかしましたか?」

 気遣うように、彼女が言う。私は、その声で現実に立ち返る。けれども意識の戻った今でさえ、何かしらの違和感は拭えないままだった。

「お話、していただけませんか?」

 そういえば私は、未だ彼女の問いに答えていなかった。再び、私は迷い始める。話がしたくないわけでは無い。そのような表面的なことでは無いのだ、この引っ掛かりは。

 だが、結局、今日の私も昨日の私のように頷いてしまった。たちまち彼女は野に咲く小さな花のように微笑む。そして、昨日同様、休憩中の札を売り場に立て、私を売り場の奥の小部屋へと導く。

 彼女の後を歩きながらちらりと右へ視線を動かすと、雪景色のように真っ白な猫が先程のように私を見つめていた。その猫はまるで私の動きを追うように、ゆっくりと二粒の瞳を動かしているように見えた。

「おい。私は此処で待っている」

 不意に足元の彼が声を発し、ふよりと舞うように飛んで白い猫の正面に位置した。いつも地面すれすれの所を浮いていた彼がそんなにも飛べることを知らなかった私は少し驚き、やっぱり飛べるんだな、と驚嘆そのままに口にした。だが、返事は無かった。それを別段気にすることも無く、私は小部屋へと足を進めた。

 部屋の中で既に彼女は、筆、硯、和紙の束を用意して待っていた。硯の中は墨で満たされ、筆を持つ彼女は準備万端という所だった。彼女に勧められるままに私は座布団に座り、何を話そうかと、しばし宙を見据えた。

「面白い話とは言っても、昨日のような話で良いのだろうか。君の求めている面白さとは違ったら申し訳無いし、多少なりとも望んでいるものについて具体的に言って貰えると助かるのだが」

 少し考えてそう切り出した私に、彼女はにこりと笑って答える。

「昨日のお話、とても面白かったです。私は今まで様々なお話を此処で聞いて来ましたが、あなた様が話してくれたようなお話は初めて聞きました。良かったら今日も、そういうお話だと嬉しいです」

 少し身を乗り出し、熱のこもった様子で彼女は語った。

 私は、それでは、と前置きして今日も一つの話を彼女に伝えることにした。

「――私の祖父の体験した話なんだが。祖父の趣味の一つに釣りがある。良く晴れ渡った日の昼前、祖父はいつものように近くの河川敷へ釣りに出掛けた。本格的な夏を迎え、川の水温が上がる、沙魚はぜ釣りには適した時期。祖父は毎年、この頃を楽しみにしていた。何度も来ている場所であるし、もう慣れたもので、祖父は釣れそうな所をゆっくりと探す。やがて腰を下ろし、沙蚕ごかいを針先に通して当たりを待つ。周りには、やはり沙魚釣りが目的と思われる釣り人が何人かいた。

 やがて竿を引く手応えを覚え、祖父はタイミングを見計らって竿を上げる。先には小さな魚が下がっていた。目当ての沙魚である。沢山釣れたら天ぷらにして食べようかと、祖父は再び釣り糸を垂らす。その後も続々と沙魚は釣れた。そして、やがて太陽が天の中心を過ぎる頃、魚籠びくの中は小さな沙魚でいっぱいになっていた。

 此処までは何ら変わったことも無く、例年の通りの出来事だった。祖父は何も警戒などしていなかったし、不安も捉えていなかった。

 だが、そろそろ帰ろうかと魚籠を持ち、立ち上がろうとした時、異変は起こった。河川敷に置いていた魚籠が少しも持ち上がらないのである。まるで根が生えたように、それは少しも動きはしない。祖父は驚き、持ち手を何度か引っ張り上げるようにして何とか持ち上げようとする。しかし、それは叶わない。

 祖父は一度、腰を下ろして魚籠の底面付近を外側から確かめてみた。傍目にはおかしい所など見当たらないのだが、やはりそれは地面から剥がれることが無い。今度は、魚籠の内側から底を確かめてみようと、祖父は中を覗き込んでみた。けれども先程と変わり無く、多くの沙魚が所狭しと動いている様子が目に映るだけだった。

 どうして魚籠が持ち上がらないのだろう。祖父は不思議に思い、また、好奇心も手伝って、そのまま底へと片手を伸ばしてみた。祖父の手に何匹もの沙魚が、魚特有のぬめりを以て絡み付く。その時だった。底が無いと気付くと同時、祖父は魚籠の中にぎゅるりと吸い込まれてしまった」

 え、と小さく彼女が声を発したのが聞こえた。見ると、彼女の筆を動かす手は止まり、驚愕と期待の入り混じった表情で私を真っ直ぐに見ている。私が僅かに微笑むと、彼女も承知したように頷き、筆にそっと墨を付けた。

「祖父が吸い込まれた先は、おそらくは海か川の中であった。それも透き通るような美しい水の中では無く、砂利や泥が朦々もうもうと巻き上げられている、濁った水中。

 視界は悪く、何よりも強くなって行く息苦しさが祖父を焦らせた。とにかく此処から出なくてはと祖父は頭上を仰ぐ。だが、舞い上がる泥は視界を覆い、慣れぬ浮遊感は動作を鈍らせる。手で水を掻いてみても、変わらず濁った水が眼前に広がり続けるだけ。とにかく地に上がらなくては、それだけが祖父の頭を占める。

 其処へ、ひどく唐突に一条の細い光が差し込む。混濁した水中から祖父を救い出そうとでもしているかのように、その光は煌々と存在を主張する。減って行く酸素に焦りを抱え、祖父はその光を目指してもがくように泳ぎ進んで行く。

 だが、辿り着いた祖父は愕然とした。光と自身との距離はほとんど無い所まで来て、祖父はそれが、ある集合体だと分かったのだ。それは何か? それは、先程まで釣っていた沙魚であった。濁り切った水の色をした小さな沙魚が、螺旋を描くようにぐるぐると一条の線のようになって泳ぎ続けていたのだ。其処に有るのは太陽光では無く、きらきらと光る魚の姿だった。

 祖父は一瞬、思考する力を奪われたように呆けてそれを見つめた。だが、すぐに自分の置かれている状況を思い出す。即ち、息がもうもたないということ。

 方向感覚すら失うほどの濁水の中、沙魚の集合は水面から水底へと螺旋になって泳いでいるようだと見当を付けて、それを頼りに、祖父は上を目指した。目の前の泥水を背後へと追い遣るように掻いて、進む。その左隣で、限られた空間だけを許されたように、縦に細い柱のようになって回りながら沙魚が泳いでいる。

 やがて祖父が思ったよりも早く、水面は祖父の頭上に広がりつつあった。自身の付けた見当が外れなかったことを喜びながら、祖父は全力で水を掻いた。口からぶくぶくと吐き出されて行く泡の勢いは徐々に弱まっており、もう限界が近いことを示している。

 だが、祖父はまたも異変に気が付く。水を掻く自らの指先の感覚が、とてつもなく薄く、頼り無いように思えたのだ。短時間とは言え、精一杯、水の抵抗に逆らい続けた結果だろうかと、もう余裕の生じる隙間など無い頭の片隅で祖父は考える。その間も、全身は水上を目指し続ける。

 しかしながら、此処に来て祖父は大量の酸素を意思に反して吐き出してしまう。何故なら、祖父の左右の両手、十本の指先はいつの間にか元の姿を失っており、それが祖父に与えた衝撃は計り知れなかったからだ。

 祖父の十本の指は全て、沙蚕という生き物に変わっていた。それは、さっきまで沙魚を釣る為の餌にしていたもの。細長く、平たく、何処か人肉を思わせる。それは儚い珊瑚色とすすをまばらにまぶしたような消炭色けしずみいろが混じり合う、見慣れた筈の生物。その見慣れた筈の生き物が自分の指先から放たれている。緩慢にうようよと動いては水の中へと落ちて行く。次々と。

 そして、不意に沙魚の集合体が、ゆやんと揺らぐ。濁った水の中でも明らかだった。沙魚たちは祖父の放つ沙蚕を目掛けて確実に方向を変え、喰らう、という表現が最も相応しい様子で沙蚕を埋め尽くすように動き、食べている。祖父はそれを視界の隅で捉え、真実、恐怖を覚えながら水面に顔を出し掛けた。

 水面に顔を出す。結論から言えば、それは叶わなかった。恐ろしい程の勢いで祖父へと――厳密に言えば、祖父の放出する沙蚕にだったのかもしれないが――沙魚の大群が迫り、一匹一匹は小さな魚である彼らが祖父の全てを喰らい尽くしてしまったからである。

 元は祖父の指先であったその場所から始まり、細い腕を這い上がり、肩へと到達、其処から方向転換し、心の臓を通り、内臓、足、足の先。それを祖父は、既に呼吸が出来ない頭一つで見るとは無しに見ていた。

 最後に、再び方向を変えた沙魚の群れは、祖父の頭をいただきから淡々と食べて終わった。あとには、ほとんど何も残らない。微かな血のような肉の欠片のようなものが、行き場を見失ったかのように頼り無く寂しく漂うのみ。それを、まるでその小さな瞳に映し込み、確かめるように、沙魚の集まりはほんの一瞬だけ動きを止める。そして、また元の螺旋形にゆるゆると巻き戻るように戻って行ったという。

 祖父は、自分は死んだのだと思った。もしくは、暑さにやられて倒れたのだと思った。そう考えた時の祖父の目には、不気味なほど鮮やかな紅緋べにひの色が落とし込まれていた。それが夕焼けの色だと気が付き、体を起こすまで、然程の時間は掛からなかった。

 だが、自分は今どうして此処にいるのか、今まで何をしていたのかを思い出すまでには、その三倍程の時が必要だったという。

 やがて少しずつ覚醒した頭で、家に帰らなければ、と祖父は口に出して言う。それは自分自身に言い聞かせるような響きでもあった。立ち上がった傍ら、時間の流れから取り残されたような魚籠が祖父の目に入る。それを、ごく自然な動作で持ち上げる。それは、ごく自然に持ち上がる。

 辺りに人の姿は無く、いるのは祖父一人きりであった。禍々しい程の夕焼け空が鏡の如く川面に映し出されている。自分の歩く方向とは反対へと流れて行く川の水を、どうしてか誰かの血のように祖父は思う。

 のちに祖父は、神の悪戯か、或いは鬼門でも開いたのかもしれないと語る。ただ、家に帰ろうと魚籠を持ち上げる時、その少し前に起きた筈の一連の出来事を忘れていたという。

 そして、もしも覚えていたのなら、あのように躊躇なく魚籠に手を掛けることが出来る筈が無いと。もしくは、あまりに恐ろしい出来事だったが為に意識の底に閉じ込めるようにして、あれは夢だと思い込んだのかもしれないと。

 どちらにしろ、本当の所は祖父にも私にも誰にも分からないまま。また、川の流れとは逆に帰路を辿る祖父の持つ魚籠には、ちゃんと沙魚が入っており、その沙魚を持ち帰り、天ぷらにして食べた時、祖父は針の先で指先を刺されたような痛みを覚え、しかし指からは血が出ていることは無く。

 そして少しの間の後、其処でようやく忘れていた思い出を取り戻すかのような感覚の中、こうして今、私が話した内容を蘇らせたに至る」

 私が言葉を切ると、彼女は筆を動かす手を止め、顔を上げた。そして、ほんの少しだけ首の角度を傾けてにこりと微笑む。

「すごく、不思議なお話ですね。空恐ろしくもありましたけれど」

「ああ、こういう話じゃない方が良かったかな」

 彼女の言う所の「面白い話」から外れてしまったかと、私は内心焦りながらそう尋ねた。だが彼女は私以上に慌てたのか、いいえ、と若干強い口調で告げた後、間、髪を入れず言葉を続ける。

「こういう面白さ、好きです。日常の中、唐突にそれが失われる様子……或いは、それと隣り合わせでいる様子。私はこうして聞いている身で、実体験したわけではありませんから想像するしか無いですが、其処に置かれてしまった人間は本当に目の前の出来事を追うだけで精一杯なのでしょうね。きっと恐ろしい思いをして、助けてほしくて。けれど、誰もいなくて、孤独で。私だったら耐えられないかもしれません。物語として伝え聞いているからこそ、面白い、興味深いと言い表せるのだと思います」

 私には彼女の放つ熱が見えるようだった。小さく丸い音のような響きを持つ彼女の声は決して良く通るわけでは無かったが、一つ一つの音が確かな意思を持って彼女の唇から生まれで、私の耳に流れ込んで来る。

「本当に、ありがとうございました」

 その感謝の言葉も、確かに目の前の彼女が、彼女の声で言ったもの。しかしながら、ほんの一瞬程前に感じていた心地好さが、其処でぷつりと断ち切られた。意思を持った渦のように私に流れ込んで来ていた声の流れが、不自然に切られたのだ。その言葉で以て。

「それでは、そろそろお店の方に」

 彼女は、筆、硯、和紙の束を小さな机の上に戻し、立ち上がる。それに倣うように私も立ち上がる。

 私は草履を履きながら、形容のし難い違和感のようなものについて考えてみたが、それは正体の影すら見せることも掴ませることも無かった。

 それでも何かに引っ張られるようにして、私は部屋を出る瞬間に振り返ってみた。勿論、其処には誰もいない。彼女は既に店に戻ってしまっていたし、私は此処にいる。誰がいる筈も無いのだ。空っぽになった小さな空間を見渡しながら、私はそれを改めて認識する。

 だが、その誰もいる筈の無い、実際に誰もいない小さな部屋に、先程までの私達の残像がゆらりと蝋燭の炎のように揺れた気がして、私はしばらく其処に佇んでしまった。まるで何かを置き忘れてしまったような感覚が私を取り巻いていた。

 店を出る時、彼女は約束通り、真っ白な金平糖を手渡してくれた。礼を言って受け取ると、いいえ、こちらこそありがとうございます、と彼女は微笑んだ。

 そして歩き出した私の後ろからは相変わらず灰色の彼が付いて来る。そういえば、あの店にいた猫と何か話でもしていたのだろうか。やはり、猫には猫の友人というものがいるようだ。いや、彼が猫というのは私の勝手な憶測に過ぎないのだが。

「さっき、何か話していたのか?」

 あの店にいた猫と。そう私が尋ねると、少しの間を空けて、彼が小さく肯定の返事をした。

「真っ白な猫だったな。友達か?」

 返す言葉は無い。

「綺麗な猫だったが、どうもじっと見られているような気がしてあまり良い感じはしなかったな」

 彼は黙っている。

「悪い、友達なんだよな。ああ、そういえば、お前と目の色が似ていた」

 彼はまだ黙っている。

 機嫌を損ねてしまったかと、私は話題を変えるべく思案する。けれど浮かび回るのは彼女と白い猫と白い金平糖ばかりで、私の口から新しい話題が出て来ることは無かった。

「友達では無い」

 長い沈黙の末、独り言のように彼がぼそりと言った。

「そうか。勘違いだったみたいだな」

 それきり再び黙りこくってしまった彼を尻目に、私は特に用も無く店内をうろついた。特に用も無く?

 其処で私は、先日に聞いた言葉を思い出す。この菓子商店の女主人が言っていた言葉だ。気に入りの所を見付けたら声を掛けておくれ、と。それなら、昨日と今日、足を運んだあの店が良いのではないだろうか。応対してくれた彼女の笑顔が花開くようにふわりと脳裏に蘇る。

  しかし、女主人は何処にいるのだろうか。あまりにも広すぎる店の中、一度しか行ったことのない場所を正しく思い返すことはあまりに困難だった。彼女の売り場ですらも今日でまだ二度目で、やはり迷いながら辿り着いたのだ。

 私は気の向くまま、勘の働くままに足を動かしたが、今、自分が歩いている通路が通ったことのあるものなのかどうかも私には分からなかった。何しろ、目に映る店という店の一切が菓子を扱っているので、どれも似たように見えるのだ。そして、一つの売り場には一人の売り子、一匹の猫というスタイルも同じ。それぞれの顔など覚えていないし、売り子の着物は同じでは無いものの、いちいち柄など記憶してはいない。

  通路の両側にずらりと果てがないようにして続けられている菓子売り場を見続けていると、だんだんと眩暈を感じて来る。私は、近くの売り子に女主人は何処にいるのか尋ねてみようとした。

 だが、声を掛けようとした正にその時を狙ったかのように、地の底まで響くような鐘の音が強く低く鳴った。それを合図としたように、売り子は皆、店仕舞いの準備を始める。客は皆、一様に同じ方向を目指して行く。

「覚えているか。この鐘が鳴り終えるまでに店の外に出なければならない。出口は此方だ」

 ずっと沈黙していた彼が告げる。そして、すいと私の先に出て右に曲がった。私はその後を追うように歩きながらも随分と時間の流れが早いように思えて、内心、首を傾げていた。確か、此処へは午前の内に来た筈だ。それがもう店仕舞いとは。

「なあ、もう夕方なのか?」

 先を行く彼に尋ねると、彼は振り返ること無く端的に返事をする。そうだ、と。その後ろ姿は心なしか急いでいるように見えた。彼曰く、この鐘が鳴り止むまでに店を出なければ閉じ込められてしまうという。最初に出会った時、そう言っていた。

「もし、鐘が鳴り終わっても残っている客がいたらどうなるんだ? 本当に閉じ込められてしまうのか?」

 これにも彼は短く肯定の返答をしただけで、出口と思しき方へと、ただただ進んで行く。その間にも途切れること無く鐘の音が拡散するかのように響き続ける。その強く低い音は、まるで野獣の唸り声のようにも思えた。

 やがて辿り着いた出口――とは言っても入口も兼ねている――から外へと出た時、私達の頭上には美しい夕焼けが広がっていた。思わず息を飲み、見とれてしまう程、それは美しかった。だが同時に、何処か不吉なようにも思えてならない。

 考え過ぎだろうかと空から視線を剥がし掛けた時、私はその動作を途中で停止し、再び焼けた空を見上げる。美しく鮮やかな紅緋べにひ。それが警告のように私の脳内へ、じわりじわりと広がり込む。一体、何の警告だというのだろう。

 私は、考えるというよりは思い出すという意識でいた。そして、それは正しかったと少ししてから気が付く。先程、私がした話の中に出て来た色だと。彼女に話した、物語。しかしながら思考は其処で塞き止められる。ふと、彼女の笑顔が夕焼けの空にうっすらと投影されているような錯覚のまま、私は上空を見つめ続ける。

「最小の完全トーティエント数を知っているか」

 瞬間、どきりと心臓が跳ねた。弾かれるようにして声のした方を見ると、数歩先にいる彼が私を見据えていた。彼の瞳はいつものように閉じられていたのだが、射抜くような視線が向けられている、そんな気がした。

「完全……なんだ?」

 不意に言われた言葉を聞き取り切れず、私は彼に尋ねる。

 彼は私に背を向け、私達の家の方へと進み始める。追い掛け、隣に並んだ私に向けて彼がもう一度、言った。

「最小の完全トーティエント数を知っているか」と。

「いや、知らないな」

「……そうか。では、二番目に小さな素数を知っているか」

「素数?」

 復唱した私に対し、彼は明らかに溜め息をついた。

「いや、知らないわけじゃない。確か、一と、その数自身でしか割り切れない……自然数だろう」

 詰まりながらも私が答えると、彼は頷いた。

「そうだ。その素数の内、二番目に小さなものが分かるか」

「さっきから急に何の話なんだ? 数学が好きな猫なんて初めて見たよ」

「何度も言うが私は猫ではない。それよりも二番目に小さな素数が分かるのか、分からないのか」

「ええと……三だな。一は素数に含まれない筈だ」

 あまり自信は無かったが、彼が頷くのを見て正解だと分かった。

「それがどうかしたのか?」

「その数字の持つ意味は知っているか」

「意味? 意味なんて有るのか?」

「有る。何事も全てには意味が有るのだ、良くも悪くも」

 どうも歯切れが悪い。彼は一体、何が言いたいのだろうか。疑問に思い、隣を歩く――正しくは地面近くを浮いて移動している――彼に視線を注いでみた所で、彼が此方を見上げることは無かったし、その真意もまた分からなかった。

 彼が幾度となく繰り返す、振り返れという言葉にしてもそうだが、彼は肝心な所を言わない傾向にあるようだ。それが意図的であることは、私にもだんだん分かりつつある。自分で答えに辿り着けということなのだろうか。何処か試されているようであまり気分は良くないが、相手がそういう意思を持っている以上、私にはどうとも出来ない。

 人間は得てしてそういうものだ。誰も必ず、思考に基づいて行動を決め、行動している。他者からでは想像も付かない程、何本もの糸が絡み合って、それは生まれている。其処に本人以外が容易く口を出すべきでは無いのだ。出せるものでは無いとも思う。

 この場合、彼は人間では無く猫のような不可思議な生き物であるわけだが、人の言葉を話し、こうして私と会話をしているのだから、当たり前にきっと彼にも思考が存在する筈だ。彼が私に対し、そうしたいと思ったのならそうすれば良い。

 だが、気にならないわけでは無いので、私は再び彼の言について思考を開始する。最小の完全トーティエント数、二番目に小さな素数、三という数字の持つ意味。

 完全トーティエント数について私は知らないのだが、流れから察するに、最小の完全トーティエント数というものも三を指すのかもしれない。その三が持つ意味を彼は私に尋ねた。そして、それを私が知らないと分かるや否や、口を閉ざしてしまった。今も彼は私の隣、感情の読み取り難い雰囲気を抱えて沈黙を守り、並んでいる。

「三つ巴とか言うよな。三度目の正直とか」

「ああ」

「あとは、三人寄れば文殊の知恵とか」

「ああ」

「慣用表現に三が使われているものは多いのかもしれないな、こうして考えてみると」

「そうだな」

 話を聞いていないわけでは無いのだろうが、彼から返って来るものは単調な同意の言葉ばかりだった。それが私の疑問をますます大きくさせて行く。彼は今、何を考えているのだろう。私に何を気付かせたいのだろうか。

 頭上に広がる紅緋べにひの空は、ゆっくりと夜を迎えようとしている。遠くの空の彼方から色を変えようとしているのが見えた。

 消されて行く赤が、どうしてだろう、私を焦らせる。答えの見付からない彼の問いにも焦燥が募る。やがて家の前に着いても、私に解が得られることは無かった。私の心の内を察したのか、彼は音もなく振り向き、ごく静かに告げた。

「明日の数字を考えると良い」

 それだけを言って彼は家の中に入る。

 辺りはしんとしていて誰の姿も見えない。私はもう一度、空を見上げた。僅かの間にそれは半分以上が墨と藍色の混じり合うものに変化していた。ところどころの隙間から覗く紅が、やはり私の頭の中に入り込んで来る。何故か、不意にそれは目のように感じられた。そして、まるで誰かに見られているような気がした。

 私は何とも言い難い心情に押し包まれ、家に入った。

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