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【警鐘を打ち鳴らせ】 第三章「遭遇、降雨」

第三章「遭遇、降雨」




 此処に来て確か今日は五日目になる。しかし、そもそも私は此処に「来た」のかどうかも実の所、定かでは無い。そればかりか、私の持つ私に関することの内、定かであることの方が少ないように思えた。

 私は菓子があまり好きでは無い。私は大根の漬物が割と好きだ。そういう単純な情報しか、私は私について持ち得ていないように思える。其処に疑問を覚えないと言えば嘘になる。だが、特別に疑問には思わない。それがどうしてなのかは分からない。

 今日の朝餉あさげには大根の漬物が用意されていた。相変わらず、朝を迎えるとこうして食事の用意が整えられている。そして相変わらず、それを食べている間、彼は板間の隅でじっと私を見ている。

 時々、食べなくても此処では生きて行けるというのに何故なにゆえお前は食事をするのだろうかとか、人間は不可解な生き物であるとか、食べるのが遅いなとか、独り言かどうか判別しづらい事柄を、やはり独り言かどうか判別しづらい声で話している。

 食事が済んで私が立ち上がると、彼は音も無く付いて来る。着物に袖を通して草履を履く間も、隣で私の影のように待機している。引き戸を開けて施錠し、歩き出すと、もう当然であるかのように彼は黙って私の隣に位置する。

 多少は慣れてしまった所はあるが、未だ名も知らぬ猫のような生き物がこうして私に付き従うようにしていることは、どうにも理解し難いことである。そう、名前だ。私は彼にお前と呼び掛け、彼もまた私にお前と呼び掛ける。やはり互いの名前は知っていた方が何かと都合が良いのではないだろうか。私は以前に一度、はぐらかされてしまったことを思い出しつつ彼に再び名前を尋ねた。

「名前など記号に過ぎない」

 だが、彼から返って来た答えは以前に聞いたものと全く同じそれであった。

「そうかもしれないが、こうして共にいる以上、お互いの名前は知っていた方が良いだろう?」

「何故だ」

「何故って……呼ぶ時に困るじゃないか」

「そうは思えない」

「私はそう思うんだ」

「意見の不一致ということだな」

「もしかして名前が無いのか?」

「……そんなことは無い」

 少しの間を空けて彼は言った。

 そして、「それ程までに私の名が知りたいか?」と続けた。其処に怒りは感じ取れなかったが、あまり積極的な意思は見受けられなかった。

「お前がどうしても言いたくないというなら別に良いさ」

 私は僅かに思案した上で、そう告げた。

 沈黙がお互いを包む。そうこうしている内に、もう見慣れた菓子商店が見えて来た。今日も変わらず客入りは良いようで、まだ日が高くは昇り切らない内から店に入って行く人々の姿が目に映る。本当にこの町の人間は菓子が好きなんだなと改めて思わざるを得ない。

「必要と思った時に名は告げよう。それよりも昨日、私が言ったことを覚えているか?」

 不意に、彼が声を落とした様子で言う。

「どうしたんだ、急に声を小さくして」

「良いから答えろ。それと、お前も少し声を落とせ。歩調も緩めろ」

 不審に思いながらも私は彼の言う通りにした。共に過ごした時間は短いながらも、私はほんの少しずつに過ぎないかもしれないが彼について理解しつつあった。

 彼は、その発言のほとんどに確固たる意思がある。もっと言えば、何か裏がある。その全貌を言葉にすることは無いが、彼は私の知らないことを知り、直接的にではないがそれを伝えようとしているように思えるのだ。

「昨日のことか?」

 そう私が尋ねると、彼は肯定した。

「そうだ。最小の完全トーティエント数、二番目に小さな素数」

「ああ、三か」

「それの持つ意味。私は、明日の数字を考えろと言った筈だ。つまり、今日の数字だ」

「考えてはみたけど分からなかったな、正直。此処に来て何日ということかと思ったが、今日は五日目であって三日目では無いし」

「此処に来て、お前は何をした」

「菓子商店に行って女主人に会って、仮の住まいを得て、お前に会った」

「その後だ」

「その後? ああ、ちょっと気に入った菓子売り場が出来たな」

「もっと細かく見ろ。全てのことには理由がある。必然と言っても良い。此処では特にそうだ。どの事象にも必ず理由が存在する。それを念頭に置いて振り返れ、良いな」

 其処まで話した時、菓子商店はもう目の前だった。そのせいなのかどうかは分からないが、それきり彼は口を閉ざしてしまった。

 私は彼の言葉を頭の中に巡らせながら、入口をくぐる。例の菓子売り場に行こうかと思いつつも、足はそれを拒むかのように重い。先程に歩調を緩めた時よりも更にそれは速度を失い、まるで水の中を歩いているような錯覚すらして来る。

 彼は、意味の無いことはほとんど言わない。即ち、彼の言にはほとんど意味がある。そしてそれはとても重要なことだ。確かな証拠があるわけでは無かったが、私はそう思っている。その彼が言った。今日の数字を考えろと。此処で何をしたかと。全てのことには理由があると。そして、振り返れと。

 私は歩みを止めないまま考え続ける。何か焦りのようなものを覚える。それでも、彼の言葉の指す所が分からない。それが焦燥を更に強く、大きくする。

 店内に広がる菓子の甘い香りのせいだろうか、思考するにあたっての肝心な所がぼやけてしまい、私はうまく考えをまとめることが出来なかった。

 連綿と続く菓子売り場、笑顔の売り子、佇む猫、客の姿、ざわめき。それらが一緒くたに混ざり合い、ごく緩やかに私の周りを回転する。私はその中心で動けない。いや、体はあの菓子売り場へ向けてゆっくりと動いている。だが、脳味噌の真ん中が甘く痺れたようになってうまく機能していない。

「いらっしゃいませ」

 瞬間、ぱちりと何かが弾けて飛んで行く。ぼやけていたような気がする視界は澄み渡り、私の両目は正しく目の前を捉える。其処には彼女が笑顔で立っていた。私はいつの間にか、例の菓子売り場に辿り着いていた。まとまっていなかった思考は緩慢にその姿を隠す。代わりに彼女の姿が刻まれ始める。

「良かったら、ご試食して行って下さいね」

 彼女はそう言い、手のひらで試食の場を示す。其処には練り羊羹と煎餅があった。私は勧められるまま、煎餅に手を伸ばす――伸ばし掛ける。しかし、その右手は煎餅のかけらに届く寸前でぴたりと止まった。

「どうかしましたか?」

 春の風のような彼女の声が頭上でする。私はその声に答えることも出来ぬまま、あと少しで触れていた指の先にある煎餅を見つめ続けていた。

 まるで時が止まったような気すらする。私は今、此処で何をしている? そんな基本的すぎる疑問が胸に湧く。

 私の目は、煎餅のかけらに伸ばしている指先を映している。何も、何も特別に変わったことなど無い。だが、私の指先はそれ以上、決して進もうとはしなかった。背中に、じわりと嫌な汗が滲む。

「大丈夫ですか?」

 降って来た声に顔を上げると、彼女が心配を湛えた顔で私を見ている。私は、その言葉に返事をしようとしたもののそれはどうしてか叶わず、喉の奥に何か言い知れないつかえを感じただけだった。

「お加減が悪いのですか?」

「……いや、そんなことは無いんだ」

 それだけをやっとの思いで私は口にする。何故、私はこんなにも不安を覚えているのだろう。私は彼女から視線を離し、もう一度、煎餅を見る。

「当店で人気の醤油煎餅なんですよ」

 彼女の声が、まるで何処か遠くの地から届けられているように聞こえる。残響が耳の奥底で反響する。それは私の思考をぐるりと掻き回すようで。気が付けば私は、止まっていた指先を煎餅のかけらへと更に伸ばしていた。

「やめるんだ!」

 私は、ぴたりと動きを止める。ゆっくりと首を動かすと、私の足元で彼が強く私を睨んでいた。喩えではなく、本当に。滅多に開かれない彼の闇夜のような瞳が大きく丸くその存在を主張し、私を見据えていた。

 彼は今まで私と共にいて、大きな声を出すことは無かった。まして、このように私を鋭く見つめて来ることも。これまでに無い彼の態度は私の心情を大きく揺さぶる。今、何が起きているというのだろう。

「やめるんだ」

 先程よりも幾らか落ち着いた声で、彼は同じ言葉を繰り返す。だが、目の鋭利さはそのままだった。私は自分でも何を言おうとしているのか分からないまま、彼に向けて言葉を発しようと口を開き掛けた、その時だった。

 不意に、およそ人間のものとは思えない声が空気を振動させ、切り裂くように響き渡る。細く、それでいて強く、聞く者の身を竦ませる叫びのような声。

「何をしている」

 次いで聞こえて来た声は、ゆっくりと重力の塊を此方に放つような重厚さを持っていた。それと同時、私の目の前に立っている売り子である彼女が、腰から折れて頭を下げる。その先には、雪の冷たさを錯覚させるような白さに包まれた猫が一匹、何処までも暗い海のような黒い目を此方に向けて佇んでいた。

  昨日、彼と話していた猫だ。思い当たったものの、其処で私の思考は停止する。大きくも小さくもない一匹の猫は、形容し難いほどの圧倒的存在感を以て私を射抜く。その両目の中心で針のように細く浮かぶ金の瞳孔が、私の輪郭の全てを展翅てんしする。

「お前か」

 白猫はやがて私から針を外し、悠々と通路を進み出る。そして、ひどく憎々しげにそう言った。私の足元にいる、彼に向けて。

 長い沈黙が流れる。気が付けば、視界に収まる人間の全てが頭を下げている。そして、それぞれの店先では一匹ずつの猫が此方を窺うようにして見ている。異様な光景だった。

「昨日の話を、もう忘れたか」

 沈黙を打ち破ったのは白猫だった。忌々しげに言い放った後、右前足で二度、顔を擦った。その仕草は普通の猫と何ら変わり無い。

「……忘れたわけでは無い」

「それならば、何故なにゆえ妨げる。どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手、決して認めるわけにはいかないと知ってのことだと判ずるが」

「だが、何事にも例外は有る」

「無い。今までお前の行動には目を瞑って来たが、これ以上繰り返すようならばそれ相応の対応を取らざるを得ない」

 会話の応酬。その内容は良く分からない。だが、決して穏やかでは無いことは判然としている。加えて、彼が危地に立たされているということも。

 私は言うべき言葉を探しつつ、両者を見つめ続ける。私に出来ることは何なのか。しかし、そんな私の心の内を笑うように白猫は一つ大きく欠伸をし、白すぎる右前足をすっと伸ばした。それが彼に触れるか触れないかというところで、私は自分が意識するよりも早く彼と白猫の間に割って入っていた。再び、白猫の一対の黒い目がじろりと私を睨む。私は、狩られる獣とはこういう気持ちだろうかと、他人事のように考えていた。恐怖のあまり、脳味噌が麻痺したのかもしれない。

「何用だ、人間」

 地の底から響くような、低く重い声。それは、菓子商店が閉まる時に鳴り響く鐘の音に良く似ていた。

「邪魔立てするか」

 私の意思を確かめるように白猫が言う。やはり白猫は何かしようとしていたのだと、その発言で知った。だが、私に何が出来るというのだろう。全身が凍ったように動かない程の恐ろしさを間近で感じ、言葉すら忘れたように声が出ないというのに。

 不気味な静寂の中、不意に、かつん、という小さな音が背後から聞こえた。けれど振り返るという簡単な動作すら私には出来なかった。

「良いじゃあないか」

 聞き覚えのある女性の声。

「やらせておけば良い。全てを暴き立てたわけでも無いだろう」

「……店主が、そう仰るなら」

 白猫は一つ軽くお辞儀をしてから居住まいを正し、再び私を刺すように見据えた。そして数秒の後、くるりと背を向けて白猫は店の奥へと去って行く。

「すまない」

 聞こえた声に視線を落とすと、足元で彼が俯いていた。その表情を窺い知ることは出来ない。だが私は、初めて聞いた消え入りそうな彼の声に、確かに胸が痛んだ。

「どうせ何も出来やしないさ」

 言い放ち、かつん、と音を鳴らして背後の人物が遠ざかって行く気配がする。私がゆっくりと振り向くと、赤と黒の艶やかな着物を身に纏い、朱色に染められた塗下駄ぬりげたを履いた女性が、空気すら震わせないかのように静かに歩いているのが見えた。此処に来た時に一度だけ話をした、この菓子商店の女主人だった。

 やがて彼女の姿が見えなくなると、止められていた時が再び動き出したかのように、店内はざわめきを取り戻す。お辞儀をしたままぴたりと静止していた売り子や客の人々が顔を上げ、それぞれの時間に戻って行く。その中で私と彼だけが、足元に根が生えたように動けなかった。彼はまだ、俯き続けていた。

「これ、良かったらどうぞ。試食用に」

 私は彼から視線を離し、声に導かれるままその方向を見遣る。売り子の彼女が小さな袋を差し出していた。中には煎餅が数枚、入っている。躊躇いながらも礼を言って受け取ると、春の野のように彼女は微笑んだ。だが私は笑い返すことは出来なかった。それどころか、とてつもない違和感を覚え、私はすぐに視線を逸らす。

「戻ろうか」

 私の言葉に彼は、そうだな、と言う。それは小さく、細く、後悔に似た何かが滲んでいる、そんな声だった。





 翌日は雨だった。此処に来てから初めての雨だ。強い雨音は遠慮なくざんざんと響き渡り、雫は群れになって窓を叩いた。冷えた空気が家の中に漂っている。

  ほんの少し窓を開けてみると、途端に雨が風と共に勢い良く吹き込み、格子と衣服を濡らした。私は慌ててぴしゃりと窓を閉める。ふと部屋の中を見渡すと、いつもの彼の姿がない。板間にいるのかと思ったが、其処にも彼はいなかった。名を呼ぼうとして、私は彼の名を未だ知らないことに気が付く。

 とりあえず朝餉あさげを済ませ、器を洗う。その間に、今日は菓子商店に行くことはよそうと考える。この雨では傘を差した所でほとんど無意味になりそうだ。風も強く、それがまるで獣の咆哮のように私には聞こえた。

 それからしばらく経っても、彼が姿を現すことは無かった。今までずっと目に入る所にいた存在がいないということはこんなにも心を落ち着かなくさせるのかと、雨音に耳を傾けながら私は思う。その激しすぎる音の連続が心臓までも叩くようで、だんだんと焦燥が募って行く。何処かに出掛けているのだろうか。こんなにもひどい天気なのに? 彼は今、何処でどうしているだろう。

 私の脳裏に、昨日の出来事が鮮烈に蘇る。彼と白猫と女主人の言葉が、しゃぼん玉のように次々と浮かんでは何処いずこかへ消えて行く。彼らは一体、何について話していたのだろう。

 あの時、強く言い放った彼の言葉が私の脳味噌を揺らす。私が煎餅のかけらに手を伸ばしていた時。やめるんだ、と彼は言った。彼の言葉が無ければ私は、何の疑問も持つこと無くそれを口にしただろう。今までのように。

 おぼろげに、私は今の自分の置かれている状況が異質である事に気が付き始めていた。不可思議な事は多くある。見知らぬこの町で、この家で、私はこうして暮らす事になった。 灰色の座布団のような、猫のような生き物と共に。彼は人間の言葉を理解し、自らもそれを操る。

 町の中心に存在する、大きな菓子商店。中には途方も無い程の数の菓子売り場があり、売り子がいて、猫がいる。白い猫は地に響く声で人語を話す。閉店の折には、地の底から生まれているような鐘の音が鳴る。菓子商店には女主人がいる。

 他に何かあっただろうかと私は考えを巡らせる。だが、いずれにしろそれらのどれもが、私には決して受け入れられない事では無いのだと改めて思う。理由は良く分からない。冷たい霧が思考を取り巻いているかのような感覚の中、私は見えない現状の彼方を見据える行為を放棄した。

 ――どれくらい時間が経ったのか、気が付くと私は眠っていたようだった。覚醒し切っていない頭で、今は何時くらいだろうかと考える。未だ雨は降り続いていた。

 ぐるりと周囲を見渡してみたが、彼の姿は無い。呼ぼうとして開き掛けた口が、またも呼ぶ名前を知らないという事実にぶつかり、閉ざされる。彼の言を借りるならば記号に過ぎないという事らしいが、やはり名前を知らないというのは不便だ。今度こそは教えて貰おうと私はひそかに決意する。

「おい、いないのか?」

 仕方無しに私はそう呼び掛けてみる。しかし、返って来る声は無かった。この家には私一人分の気配しかしない。

 ふと、彼が何度も繰り返した言葉が思い出される。振り返れ、と。彼は幾度も幾度も私に向けてこの言葉を告げた。だが主語が無く、他に説明も無いので、彼が一体何を言わんとしているのか私には分からなかった。

 振り返るとは、どういう事だろう。自分が今、向いている方向とは反対の方向を向く事。あとは、思い出す事。思い出す……何を?

 その時、前触れ無く、がらりと引き戸が開かれた。はっとして其方を見遣ると、人間の頭があるであろう位置には何も見えず、私が視線を下げるとその存在を認める事が出来た。

「お前、出掛けていたのか」 

「そうだ」

 彼は、ずぶ濡れだった。灰色の毛は普段より体積を減らしたようになり、その毛先からは絶え間無く水滴が滴り落ちている。たちまち土間には彼の体の分の小さな水溜まりが生まれた。

 私は、何か拭く物、と口にしながらとうで出来た籠の中を漁った。その間に、彼は思い切り体を振って水滴を飛ばした後、いつものようにふよりと漂うように浮いて板間へと上がって来た。

 私が差し出した布を彼は受け取り、ぐるぐると包帯を巻くかのようにする。そして体全体に密着させるようにぎゅっと引き込んだ。白い布に水分が吸い取られて行くのが見える。そしてはらりと布を落とした後、彼は、お前に渡す物がある、と覇気の無い声で言った。

 明らかにいつもの彼とは様子が違う。私がどうかしたのかと尋ねるより早く、彼は唐突に口を大きく開いた。それは本当に大きく、顔面の半分くらいが口内で埋まってしまった。獣らしい鋭い上下の歯が光る。その口の中、何かが見えたような気がして私は恐る恐る其処を覗き込む。彼が口を閉じないことを祈りながら、私は右手を差し入れて、それを取り出してみた。

「お前に読んでほしい」

 彼は珍しく瞳を開いていた。濡れた闇夜のように黒く光る目が三日月を湛えて私を見ている。二、三度、ぱちぱちと瞬きをして、彼は続ける。

「不完全な物だが、無いよりはましだろうと思い、持って来た。明日の朝には返す約束をしている。今夜の内に読んでほしい。ところで今日、菓子商店へは行ったか?」

「いや、雨風が強かったので行かなかった」

「そうか。私はもう眠る」

 ふいと彼は私の横を通り過ぎ、板間の奥の隅に落ち着く。そして目を閉じた。

「あ、その前に名前を教えてくれないか」

「二度も拒んだというのに、案外しつこい男だな、お前は」

「今日、お前を探すのに呼ぼうとして困ったんだ。どうしても言いたくないなら諦めるが」

「探したのか、私を」

「ああ」

「何故」

「何故って、いつもいるのに見当たらなかったから。しかもこの雨だろう、外へ出ているのかと気になったからな」

「……そうか」

 それきり、彼は沈黙してしまった。余程、眠たいのだろうか。それともやはり、名を明かす事はしたくないのだろうか。どちらにしろ、今日の所も私は諦める事にした。

 先程、彼から受け取った書物に目を落とす。朽葉色くちばいろの表紙をした薄く小さなそれを、彼は私に読んでほしいと言った。彼がそう言うならば私は読もう。彼の発言や態度は、意味を持たないことが無かったように思えるからだ。其処には明言出来ない真意が隠されている。

 彼はもう眠ったのだろうか。板間の隅で目蓋を下ろし、じっとしている様は、まるで本物の座布団のようだった。もういっそ、座布団と呼んでやろうかと一瞬思案したが、それはあまりだと考え直す。やはり彼の口から名前を聞きたい。

 彼の言う通り、名前は記号に過ぎない。個を識別する為の呼称に過ぎないだろう。だが、それだけとも限らない。もしも彼が本心から拒否しているのでなければ、私は、座布団のような外見をした灰色の不思議な生物である彼の名を知りたい。私は少なからず彼の持つ誘引力に惹かれているのかもしれない。

 ――その夜、私は行灯の明かりの下、彼が持って来た書物を読んだ。これが口の中から出て来た事には驚いたが、予想に反してそれは唾液まみれなどという事は無かった。

  始まりからして、体験記の形を取った小説のようだ。流れ綴られている文字列を追う。ページを捲る。単調な作業が続いた。短い話ゆえに、然程の時間は掛からず読み終えたように思える。私はもう一度、最初から読み直す事にした。

 そうして私が二度、その物語を読み終えた時、不意に行灯あんどんの明かりが消えた。油が切れたのだろうかと行灯を見遣った時、外から何かを引き摺るような音がした。

 夜半に何事だろうかと明かり取りの窓を少し開けてみると、私の視界一杯に毛のような物が映り込む。面食らい、そのまま凝視していると、それはずるずると左方向へと動いている事が分かる。私はあまりの出来事に言葉を失った。引き摺るような音はそれが移動している音なのだ。

 幾許いくばくも無くして、毛の如き物は視野から消え失せる。いつの間にか雨は止んでおり、微かな月の光が緩やかに流れ込むようにして此方を照らす。

 私は窓の隙間から左方向を注意深く覗いてみた。其処には天に届くかと思う程の巨大な金色こんじきの毛の塊があった。山のようなそれは背に月光を受けながらじりじりと移動して行く。

 私は思わず息を飲んだ。そのまま目を離せないでいると、不意にぴたっと金色の毛の動きが止まる。夜の静寂の中、空間にそびえるようにして存在しているそれは、私の体を凍り付かせる。

 瞬間、金色の背に亀裂が入る。上から下、縦方向に走り、毛の塊は左右に割れた。中は、僅かな月の光だけでも此方に分かる程に赤く、禍々しい色彩を見せ付けるように佇んでいる。その猩々緋しょうじょうひに押し包まれるようにして、何かの輪郭が幾つか見えたような気がした。

 私は、ぐいと目を凝らす。そして、それが何なのか分かった時、私は叫び出したくなった。だが静止していた金色が再び、ぐぐぐと動いたことで私は何とかそれを堪える。上部を見上げると、まるで此方を振り返ろうとしているような動きをしていると知り、私は素早く窓辺を離れた。

 知らず、心拍数が上がり、呼吸が荒くなっている。落ち着け、声を出すなと私は自分自身に言い聞かせて、ただひたすらに自らを殺すようにして時が過ぎるのを待った。厳密に言えば、金色の化け物が去るのを待った。

 長すぎると思われる時間の後、ようやく再び音が聞こえ始める。何かを引き摺るような音だ。それはひどくゆっくりとしてはいたが、確実に遠ざかって行く。私は震えていた。

 ずずず、という音が微かにも聞こえなくなった事を確認してから、私は慎重に窓を閉め、急いで床に就いた。暗闇の中、目蓋の裏に先程の金色が焼き付いて離れなかった。





 昨日に続き、今日もひどい雨が降っている。叩き付けるような音が絶え間無くばちばちと鳴り、騒がしい。明かり取りの窓の内側から空を見上げると、重く垂れ込めた灰色が頭上一杯に広がっていた。

 私は眠い目を強く擦り、幾度か意識的に瞬きを繰り返す。昨夜は良く眠れなかった。机に置いたままの書物に目を遣る。その内容を思い出しつつ、私は脳裏に更に蘇る映像に心を向ける。

 金色こんじきの化け物。あれは一体、何だったというのだろう。私は今までにあのような巨体の生物を見た事が無い。いや、大抵の人間は見た事が無いだろう。もしかしたら夢幻ゆめまぼろしの類いだったのかもしれない――それならば、どんなにか良いだろう。生憎、そう解釈出来ないだけの要素を幸か不幸か今の私は知ってしまっている。知らず、押し殺した溜め息が洩れた。私は視線の先にある書物を手に、板間へと向かう。

 珍しく、座布団に似た猫のような彼は土間に下りていた。また、加えて珍しく、その両目は存在を主張するかのように大きく開かれている。普段、彼の目蓋は眼球の存在を思わせない程にぴたりと下りている事が多いので、それも手伝って私は吸い寄せられるようにして彼の目を見ていた。

「読み終わったか」

「ああ」

 一対の黒曜石の瞳をぎょろりと動かし、それらは私の持つ書物を捉える。つられるようにして私も自らの携えた物へと視線を動かす。

「今朝、返す事になっている」

「そうだったな。なあ、どうしてお前はこれを私に持って来たんだ?」

 私が彼に書物を差し出すと、勢い良く彼は口を大きく開く。此処に入れろという意味だろうか。そういえば昨日も、彼は此処から取り出していた。唾液だらけにならないのだろうか。素朴な疑問を持ちつつ、上下の細かく鋭い歯に注意しながら、私は朽葉色くちばいろの書物を其処に置いた。たちまち彼は口を閉じる。そして、そのまま引き戸を開けて外へ出て行こうとした。

「おい、私の質問に答えてくれないのか」

 ぴたりと彼の動きが止まる。僅かに開かれた戸の隙間から、斜めに降り注ぐ大雨が入り込んだ。

「……とにかく、これを返す約束をしているので行って来る」

「せめて傘を」

 言い掛けた私を振り切るようにして、彼は器用にも体を傾け、引き戸の隙間からしゅるりと外へ出て行ってしまった。

 私は反射的に土間へと下り、がらがらと戸を開ける。雨がぶつかる。左斜めに吹き付ける豪雨の中、けぶる水の向こうに彼の灰色の体が見えた。意外にも彼は素早く、その姿はすぐに見えなくなってしまう。私は自分の体が冷えて行く事も構わず、しばらくの間、其処に立ち尽くしていた。

 ――雨は降り続いた。まるで終わる事など無いかのように。耳の奥にまで届けと言わんばかりに連続する雨音は、私の心臓を強く揺さぶるようでひどく落ち着かない気分にさせる。

 朝餉あさげを取る気にもなれず、着替えだけを済ませて私はただひたすらにじっとしていた。考えるべき事はとても多いように思う。しかし、思考をまとめようとするといつものようにそれは決してうまく行く事が無く、焦りだけが募る。

 私は、彼が帰って来るのを待っていた。彼は、多くを語らない。此方から尋ねてみても、それは彼自身のふよふよとした空中歩行のようにかわされてしまう。先程の書物についてもそうだ。何か知っている素振りを見せつつも彼は私に伝えない。間接的に私に理解させようとしている意思は見受けられるものの、核心には迫らない。迫れない。

 私は、彼が戻って来たらせめてあの書物についてだけでも問いただしてみようと考えていた。未だ、雨は止まない。

 その時、どんどんと戸を叩く音がした。はっと顔を上げると、再び戸は同じ調子で叩かれる。彼が戻ったのかと腰を上げたが、戸の向こうに浮かび上がる輪郭は彼ではなかった。人間の姿であった。

「どちら様ですか?」

「突然に失礼する。菓子商店の店主だ。相談したい事があって参じた。少し時間を貰えないだろうか」

 菓子商店の店主。私は困惑しつつも引き戸を開ける。其処には射干玉ぬばたまの如き黒髪を緩く結い上げ、艶やかな紅緋べにひの着物に身を包んだ女性が一人、美しく細い笑みを湛えて真っ直ぐに立っていた。

「お邪魔しても構わないか?」

 私は少しの逡巡の末、頷いた。外は強い雨風、無下に追い返す事も出来かねたからだ。追い返す? 私は自らの思考に疑問を抱く。

 彼女は静かに傘を畳む。その体は、ほんの少しばかりしか雨に濡れてはいなかった。それでも、ぽとりぽとりと、髪の先や袖の先から雫が落ち、土間に小さく染みを作る。私が差し出した布を受け取り髪を軽く拭いて行くその様子を、私は何処か底知れぬ感情を持って見つめていた。

「今日は、お前さんに相談したい事があってね」

 優雅な仕草で彼女は座布団に座り、そう切り出す。私は曖昧に返事をする。

「その前に。この町には、もう慣れたかい」

「ええ。それなりには。まだ分からない事の方が多いですが」

「そうだね、確かにこの町には理解の及ばない不可思議な所が多いだろう。私も長く此処に身を置いているが、今でも知り得ない事もある。其処で、物は相談なんだけれどね。お前さん、菓子商店で働いてみないかい」

 女店主は探るような目で私を覗き込むように見た。

「働くというのは、あの商店で売り子として、という事ですか?」

「ああ、そうさ。何、難しい事じゃあない。慣れない内は戸惑う事もあるかもしれないが、基本的には接客、菓子の販売だ」

「何故、突然そんな話を?」

「ああ、性急だったかね。先程の話に繋がるのだが、この町には理解し切れない事が色々とあるだろう? それも、此処で仕事を持って、この町の人々に接する事で分かって行く事もあるのではないかと思ってね。あとは、単純に人手不足なのさ。先日、一人辞めてしまったから代わりの者を丁度探している所でね。どうだい、やってみないかい?」

 私はすぐに返答出来ず、考え込む。すると見透かしたように女店主は言った。

「何も今すぐに決めなくても良い。数日考えて、返事をくれないか」

「ええ、分かりました」

「ついでに話しておくと、この話をお前さんに持って来たのは他にも理由があってね。お前さん、気に入りの店があっただろう? 辞めたのは其処の売り子なんだ。だから興味も湧くのではないかと思ってね。私としても、その店を気に入ってくれている人間に任せたいのさ」

「辞めたんですか、あの子が?」

 驚きのままに私は言った。思えば、私は彼女の名前も知らない。春の野原に咲く、花のように笑う彼女。

「ああ、昨日辞めてしまった。故郷に帰るそうだ。良く働いてくれていたから私としても残念だよ」

「そうですか……」

「それでは私はこの辺で失礼するよ。先の話、考えておいておくれ」

 衣擦れの音と共に女店主は立ち上がり、そう告げた。

「ああ、そういえば。あいつは不在かい」

「あいつ?」

 朱塗りの塗下駄ぬりげたを履き、ふと思い出したように店主は振り返り、尋ねる。

「お前さんと共にいる、あいつさ」

「もしかして、灰色の座布団みたいな生き物の事ですか?」

「座布団とは。言い得て妙だね」

 店主は鈴の音のように笑い、そいつはいないのかい、と再び尋ねる。

「今朝方から出掛けていますよ」

「何処に行ったか知っていたら教えて貰えないか。あいつにも話したい事があってね……」

 引き戸に手を掛け、彼女は薄く笑う。

 一瞬、私は自らを剥離されたかのような錯覚に陥った。あるいは、急速に自分以外の何もかもが遠ざかったような感覚。私は誘われるように口を開く。

「彼なら、本を返しに」

 其処まで言った時、唐突に引き戸が大きな音を立てて開かれる。大きく響く雨音、風音が室内に侵入する。

 途端、まどろみの中を泳いでいたような私の意識が引っ張り上げられた。目線を下げると、濡れ鼠のようになった彼が今朝のように瞳を開けて其処にいた。そして彼は間違い無く、菓子商店の店主を見ている。いや、睨んでいると言った方が的確かもしれない。鋭く磨かれた闇夜のような視線を射るように注いでいる。

「何用だ」

 低く、彼が言った。

「ご挨拶だね。私は話があって来ただけさ。もう用は済んだ。お前にも言いたい事はあるのだが……」

 二者の間に沈黙が生じる。重圧のある空気が流れた。

「またにするよ」

 硝子がらすに亀裂を入れるように女店主は言い、ひらりと片手を上げて出て行く。開く傘の色は黄丹おうに。身に纏う物を赤系統で統一した彼女の後ろ姿は、一輪の花のようでもあった。同時に、何か不吉な、禍々しいものを覚える。思えば今日、私は彼女を見た時からずっと心に引っ掛かるものがある。雨に紛れて遠ざかる赤を見送りながら、私は記憶を探っていた。

「おい。あいつに何を言われた」

 足元の彼が私を見上げて尋ねる。その両目には、幾らか和らいだとは言え、未だ牙のような鋭利さが湛えられたままであった。

 私は気圧されながらも、菓子商店で売り子をしないか提案された事を伝えると、それでどう返答したのかと更に尋ねられる。私は彼に体を拭くよう布を差し出し、返事はまだしていない旨を話す。彼は安堵したように一つ大きく息を吐き出した。

「それで、他には? 何か余計な事を言わなかっただろうな」

「余計な事?」

「そうだ。さっきはまさにそれを言おうとしていただろう。私がお前に注意して行かなかった事も悪いが」

 彼は布をぐるぐると全身に巻き付け、それをぎゅっと自らに引き寄せるようにして水を吸い取らせると、ぱさりと落とす。そして大きく体を震わせた。雫の残滓ざんしが、ぱたたたと散る。

「私が、あの本を借りて来た事は内密にしろ。貸し本屋でも本来、門外不出の書物となっている。無理を言って借りて来たのだ。お前の為に」

 ひょいと土間に上がり、彼は私を改めて見る。

「出掛けにも言ったが、どうしてあれを私に借りて来たんだ?」

「……本当に、分からないか」

 微動だにせず、彼は呟くように問い返す。私は思わず息を飲んだ。

 まるで全てを見通しているとでも言うかのような彼の闇夜の瞳が、私を引き寄せ続ける。私もまた動く事が出来ず、其処にいた。風がページを捲るようにして書物の内容が私の脳裏に蘇る。

「私が昨日見たものは、夢では無かったのか」

 しばらく後、知らず俯き、私は半ば独り言のようにそう言った。

 見た事も無い、山のように巨大な金色こんじきの生物。丑三つ時に響き渡った、何かを引き摺るような不気味な音。生き物の背が割れ、その中に見えた血のように鮮やかな猩々緋しょうじょうひ。そして、其処に捕らわれるようにして存在していた――私の見間違いでなければ――数人の、人間の姿。それらが一時いちどきに思い出される。これらは皆、昨夜に読んだ書物に書かれていた事と酷似していたのだ。

 気付いているかもしれないが。そう、前置きして彼は続けた。

「あれは体験記だ。昔、此処を訪れた人間が書き残した。それは禁じられた行為だ。お前はまだ知らないと思うが、此処では幾つかの決まり事がある。その一つに、『此処での一切を書き記すべからず』というものがある。それを知った上で、その人間は原稿を書き、書にまとめた。勿論、誰に言うつもりも無かった。それは、ごく個人的な手記のような、趣味のようなものだったのだ。だが、禁は禁。どんなつもりであろうとも例外は認められない」

 彼は言葉を切る。顔を上げると、瞬きのない瞳が私を縛る。私は、恐る恐る続きを尋ねた。

「それで、その人間はどうなったんだ」

「死んだよ。もう遠く昔の話だ」

「……殺されたのか?」

「そう表現しても差し支えは無い」

 身が凍る思いとは、まさにこういう事だろう。私は背筋を急速に這い登って行くものがあった。しかし、今の話と私が、どのように結び付くのだろう。私もいずれ、その人間のように殺されると――彼はそう言いたいのだろうか。すると、私の胸の内を見透かしたかのように彼は再び口を開いた。

「お前が禁を犯しさえしなければ、殺されるなどという事は無いさ」

「禁と言われても、私は何一つそれを知らないのだが……」

「言葉で直に伝えられるものではない。追々、分かって行くものだ。此処で過ごしていく内にな。或いは、こうして私のように語る者がいれば例外となる」

 私は、其処で水に打たれたように意識を集合させる。今まで彼は多くを語らなかった。それがどうしたという事だろう、今の彼は非常に饒舌で、全貌とまでは行かないまでも明らかに核心に迫る話し方をし、私に情報を与えていた。

 私は、彼の身を案じた。先日の出来事が思い返される。菓子商店で、彼は私が試食しようとする行為を止めた。それはまるで、私を庇うような守るような、そういった心情がありありと見えるものだった。

 そして、店に座る白猫は言った。「どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手」と。もしかして彼は、この町での決まり事を破っているのだろうか。

「なあ、大丈夫なのか。そういう事を私に話して。今までお前は私がどんなに尋ねても教えてくれない事がほとんどだった。私だって馬鹿じゃあない、何かしらの理由があって答えられないのだろうとは思っていた。それに、この町が何処か普通では無い事も、おぼろげにだが分かる。その思いは昨夜の事と、読んだ書物の内容によって強くなった。そして今、お前から少しだが話を聞く事が出来た」

 彼の視線が私を底無しの沼から急速に引き上げる。もう助からないと思っていた私の目の前に、一本の緑深い草が垂らされている。私はそれへと必死に手を伸ばす。どろどろと濁る水が視界を阻む筈なのに、どうしてか、たった一本の緑が何よりも美しくまばゆく見える。

「情けないかもしれないが、私には良く分からないんだ。違和感はある。私はいつ頃、何処でどうしていたのだろう。何故、此処にいるのだろう、と。だが最近では、違和感を覚えている事がおかしいのではないかという心地すらしている。私は、もうずっと前から此処にいたのではないだろうか。本当ならば見知った町並み、本当ならば見知った人々で。もしかしたら、お前ともいつか出会っているのかもしれない。私が思い出せないだけで。

 そして、その不透明な部分は、あの菓子商店に隠されているのかもしれない。私が其処で働く事で、少しずつでも思い出して行けるのなら私はそうしたい、いや、そうするべきなんじゃないだろうかと。そんな風に、思うんだ。なあ、これは間違いなんだろか。考えようとしても、いつも何かもやのようなものが脳の中に張り出して、うまくまとまらないんだ。この日々が、とても落ち着かない。私は、これからどうしたら良いのだろう」

 言ってしまうと、私は自分がひどく小さな生き物のように思えて仕方なかった。羅針盤がないと何処にも進む事の出来ない、寄る辺のない子供のような。

 私は元来からこういった人間だっただろうか。他者に意見を求めないと動き出せない者だっただろうか。そう自身の内側へと問い掛けてみても、明確な答えは得られなかった。それすらも私を苛立たせる。

 どんな人間でも持ち得るであろう芯を、私は何処かへ置いて来てしまったように思えた。喩えるなら、価値観や判断基準。もっと言ってしまえば、感情。それらの全てとは言わずとも、少なからずこれらが本来の形を失っているであろう事は曖昧にだが認識出来た。そうでなければ、この不安の正体に説明が付けられない。何が正しく、何が間違っているのか、その境目を私は見定める事が出来なかった。

 外では未だ大きな雨音が響き、それが私の焦燥を加速させる。

「察しの通り、私からお前に話せる事は、ごく少ない」

 床から僅かの所を浮いていた彼は、空気を震わせる事無く羽のように静かに下りた。その目は先程よりも微かに伏せられ、躊躇いの心情が見て取れる。

「正直に言えば、私が今日話した事は全て禁制に触れる。この町の事は、この町に住む者が各々の身で以て知って行く事。それが暗黙の了解となっている。よって、このように私が特定の人物に対し町について語る事など許されるわけも無い。今日、店主が来ていただろう?」

「ああ、お前にも話したい事があると……」

「おそらく忠告しに来たのだ。これ以上の出過ぎた真似は許さないと」

 更に彼の両眼は伏せられる。反して、私の目は自然、見開かれて行った。

「許さないって、どういう事だ。まさか、お前も」

 いつか此処を訪れた人間のように?

「そう、遠い事では無いかもしれないと私は思っている。今までもこういう事は何度かあったが――此処まで及んでしまったことは今回が初めてだ。もともと、私を快く思わない者達もいる。あの白猫もそうだ。私が僅かながらにでもお前の手助けを出来るのは、もう残り少ないかもしれない」

 何処か諦めたように力無く呟く彼は、私の見た事のない姿だった。飛び出ている耳も心なしか垂れ下がり、いつの間にか両目は縫い針のように細くなってしまっていた。

「どうして、其処までしてくれるんだ。私とお前は会ったばかりの筈だ。それとも私が覚えていないだけで、いつか何処かで出会っているのか」

「いいや。私とお前が邂逅かいこうしたのはお前がこの町に来た最初の日、それが正真正銘の真実だ」

「ならば、尚更だ。どうしてここまでしてくれる? 自分を危険に晒してまで」

 私の問いに彼は沈黙した。答えられないと、そういう事だろうか。確かに今日、彼は今までに無い程、多くを語った。もう限度量を遥かに超えているのかもしれない。やはり答えなくても良いと、私がそう言おうとした時だった。

「お前が、私に似ていたからだ」

 蜉蝣かげろうの如き儚さで彼は小さく零した。それは耳を澄ませていなければ聞き取ることの出来ない――まして、このような大雨の降る日には――消えてしまいそうな声だった。

 彼は完全に目蓋を閉じて、少し眠る、と付け足した。私は、ああ、とだけ返した。

 まるで私たちを閉じ込めるかのように、翌日も雨は降り続けた。

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