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たとえば、南極を想像してみる。


※このnoteは2021年5月に書いたものを調整して2022年の5月に公開しています。




梅雨入りした。1年でも過ごしやすい時期と言われる5月なのに。

目が覚めて最初に映る景色がグレーアウトの空という事実は、見事に私の気持ちを曇らせてくれる。「今日の東京の新規感染者は…」と流れてくるニュースは、より一層私をどんよりとした気持ちにさせる。

去年の梅雨明けは8月1日だった。四季の感覚が少しずつ変わってきていて、梅雨の存在感が増している。雨季がある国の人はどのような気持ちで過ごしているのだろうか。


個人的な話になるが、この2年ほどで好きなものが増えた。とくに大きな変化といえば、YouTubeに時間を費やすようになったことだろう。

毎日のように投稿される動画。定期的に行われるライブ配信。怒涛のように投下されるファンからのコメントとスーパーチャット。アイドルが好きな私にとって目新しいものばかりで、一つひとつを理解して咀嚼するのに時間がかかった。

取材や収録から時間が経って私たちに投下される彼らとは違って、「今」「同じ世界で」「同じ時間を生きている」ことを証明してくれる彼らに魅了されてしまったのだ。コメントなんて読まれた日には、ひとたまりもない。いわば、コンサートに行ってアリーナ席の最前列でファンサービスで貰っているようなものだ。それも一度や二度ではなく、何度も。テレビ越しに楽しむことが当たり前だった自分にとって、応援している相手に見られたり何らかのコミュニケーションが発生することは、とんでもない話なのである。


彼らが生きている人生のなかに、自分との接点があるとしたら、コンサートぐらいだった。それがSNSの普及に伴って圧倒的に増加した。その事実だけでも未だに困惑するのだが、彼らのツイートにこまめに返信をしている人たちを見ると、グニャッとした感覚に陥る。それが彼女たちの応援スタイルであり、普通のことなんだと頭でわかっていても、自分とはあまりにも違いすぎて目眩がしてしまうのだ。


これは趣味に限らず、Twitterにおける第三者への対応にも同じことが言える。この人の考え方素敵だな、仕事に取り組む姿勢がかっこいいな。そんな風に思った人たちのSNSを覗くなかで、相手にリプライを送ったことはほとんどない。基本は、応援としての❤︎を押し続けるのみ。どうしてもこみ上げてくる感情を伝えたいときは、RTした後に別途でツイートするぐらいだ。

だからこそ、あたかも知人かのようにリプライをしている方を見るとびっくりしてしまう。自分がいくら相手のことを知っていようとも、相手からしたら見知らぬ人であり、他人である事実は何も変わらない。

クリエイターさんから「応援は励みになる」ことはわかっている。実際、応援メッセージが嬉しいと言っている方もいる。それでも、自分の”好き”を因数分解できず、なおかつ不快感を与えないようにと考えると、平坦な言葉しか出てこない。こんな自分を客観的に見たとき、耐えがたい何かを感じているのかもしれない。


スマートフォンが登場してから、人との距離が随分と近くなった。そして、他人との距離感がひどく曖昧になった。気心の知れた友人も、出会ったことがないあの人も、憧れの人も全部「画面の中」という同じ距離にいる。いや、同じ距離にいるように見えてしまうのだ。

そしてまた、自分と異なる価値観を持った人にも出会いやすくなった。

ある程度のことは受け入れられると頭では考えているが、実際に対峙したとき、本当にそうなのだろうか。受け入れられてない、または受け入れるのが難しいことのほうが多いのではないか。

受け入れられないときは、そっとしておく。最初は無理だったものも時間が経つと気にならない可能性もある。
時間をおいても気になるときは、距離をおく。
自分のなかで見えない「敵」を増やしすぎないように、画面上で測るのではなく、その先を見て相手との距離をきちんと図れるようにしたい。コミュニケーションがどれだけ円滑で簡潔になろうとも、結局は直接会って話すのと同じなのだから。その感覚を忘れない人でありたい。


5月の梅雨入り。
明けるまでには長い時間がかかるかもしれない。雨季がある国の人たちはどんな暮らしをしているのか。自分なりに考えてイメージしてみる。仮説を裏付けするために調べてみるのもいいだろう。そうすることで、抽象的なものが具体的になり、ぼんやりと輪郭が見えるようになる。

知らないものに出会ったとき、または何かを知ろうとするとき、それらの解像度をあげるためには、学ぶことが必要だ。自分の考えや価値観を北極だと仮定したら、私の対は南極になるだろう。

文字だけで見ると遠い場所にあって、なかなか分かり合えなくて、交わらなさそうな印象がある。でも、交わらない可能性は0ではない。

黒と白の間に黒よりのグレーと白よりのグレーがあるように、全然違う意見も、重ね続けたグラデーションの先にあるのだ。先に挙げた好きな人への応援の仕方も、応援したい気持ちは変わらないのだから。
(だからといって応援の体裁で何かを過剰に求めたり、批判したりするのはある種極端なグラデーションで、また別の問題として存在するとも思うけども。)

南極を考えることで、想像力が養われる。
想像力を養うことで、相手に対する考えや見方が変わる。
そして、それはどこかで誰かを思いやる気持ちにつながるのではないか。

どんよりした空と殺伐としたSNSを見ながら、そんなことを考えています。



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