ガラスの海を渡る舟
以前、寺地はるなさんのガラスの海を渡る舟という本を読了しました
あまり本筋に触れてしまうとおおいにネタバレしちゃうので、ここでは私が感じたことを書こうと思います
「それは、普通に〜する」
という言葉を私は何気なくつかってしまいます
でも、普通って何がふつうなんでしょう
模範解答が用意されていないのに、
曖昧な、でも雰囲気が伝わるような表現
そしてどういうところが普通なのかわからない定義
普通とはWikipedia先生によると、広く通用すること。
対義語として、特別。特殊。特異。奇異。
類義語として、一般。通常。平凡。凡庸。など
があるそうです
私たちの普通ってどこからきているんでしょうね
学校であれば授業中椅子に座って静かに話をきくことから眠っているという大人しくしている姿を普通といい、周りをきょろきょろとし椅子に座り続けることができず走り回ってしまったり先生の指示や注意に対して対応することができない姿を特殊だと呼ばれる気がします
教室という空間で足並みを揃える学習をすることをよしとする場合にて問題視されてしまうのでしょう
2人の主人公
妹の羽衣子はその普通をすることができ
兄の道はその普通をすることができなかった
普通をこなすことができない兄の道は特別で
その独特な人柄であったり、考え方であったり、ガラス作りのセンスであったりが特別なしるしだと妹の羽衣子は考えていました
特別って普通と同じくらいなんなんでしょうね
作中に
姿・形が似ている人間という生物は個体であり、特性が全体におよぶものではないんでしょうね
勉強を理解するスピードも違うだろうし、行動の速度も感じ方も受け取り方も、ひとつのことに対してのできばえも違います、これは人間の前提なのでしょうね
兄の道がアルバイトとする際に
「ノリで」「だいたいこんな感じ」とか、言ってしまいます
私の人生の曖昧な表現が苦手だった方…ごめんない、以後なるべく気をつけたいと思います、すいません
ふと考えました
なぜ曖昧な表現をつかってしまうのかな?と
説明するのが面倒だとか
なんとなく理解してくれるとか察するでしょ
とか、相手への期待があったりして
そして曖昧な表現で相手がどう受け取るのかどこまでできるのか、そのできる度合いによって相手がどんな人なのか知ろうとしてるのでしょうか
知らぬ間に、相手を試していたのでしょうか
言葉のない試練…すこし恐ろしいですね
道の祖父が
と道に対して言葉をかけていました
そうだ、私は私以外のことはわからないと改めて考えさせられました
どうしてできないの?
ではなく、
どうしたらできるようになるか?
一緒に考えることができるような人になりたいなと同時に思いました
できないことを言葉で伝えることも
できるようにと考えて言葉にしてつたえて行動することも
きっと思ったより難しい
簡単ってなんなんでしょうね
世の中の尺度というものが身に染み込みすぎているのでしょうね
この染み込んだ見えない痣たちはこれからも、たまに顔をだすと思うのですがそのたびに気づける人でありたいです
私の染み込んだ痣が、他の人にとって見えない痣になってしまわないように
あと、もう1つP.202~203にかけての繁實さんの羽衣子にかけた言葉が印象的です
それに対して、みんなどんな姿であっても、どんなに違いがあっても、何ができても、何もできなくても、その違うということたちが私たちがダメだということにはならないと私は感じました
もしよければ読んでみてください
そしてさまざまな思ったこと、考えたこと、思いついたことを大切にしてくださいね
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