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【小説】遠いみち⑪

昭和37年夏――。

 梅雨に入ってから、気温が高くてムシムシとした、鬱陶しい天気の日が続いていた。
 私の気管支喘息はどうやら湿気に弱いようで、雨はもとより、どんよりと曇った日にはどうにも具合が悪い。喉がヒューヒューと嫌な音を立て、ゼロゼロと痰の絡んだ咳が出だすと、いよいよいけない。
「そんな時は朝でも昼でも、ともかく横になって安静にするように」
 と、お医者さまから何度も言われていた。

 この春からは、ようやく千紗が小学校へ上がり、恵利も待望の幼稚園に通いはじめて、思えば二人とも大きくなり、前ほどには手がかからなくなった。
 その上、昭さんが、電気冷蔵庫と電気炊飯器を買ってくれたので、買い物も、ご飯を炊くのも、見違えるほど楽になった。
 おかげで私は、それほど無理をしないで済み、具合が悪くなる前に休むことができるようになった。

 お嫁入り前に、あれほど「玉の輿、玉の輿」と言われたことが、私は馬鹿らしいと思っていたけれど、事務所の二階を建て増しして住まいの部屋数が増え、ピカピカのお台所も新調された。夢のような便利な機械もあるし、テレビだってある。里のみんなから見れば、やっぱり玉の輿なのかもしれない。
 私は何だか可笑しくなって一人、誰もいないところでクスクスと笑った。


 とは言うものの、世の中が空前の好景気だと沸きかえっているほどには、私には、毎日の暮らしが良くなったような実感はない。
 景気に支えられて、確かに会社の業績は伸びていたけれど、抱える従業員さんの数も多くなり、その分、支払いも増えていた。
 昭さんは、お酒を飲んで帰ってくることが増え、仕事が忙しければ忙しいほど、お酒の機会も、量も増えていく。

 飲んで帰っては、いつも同じ愚痴を繰り返して、昭さんは苦しそうに顔を歪める。
「ちくしょう! どいつもこいつも⋯⋯寄ってたかって! 勝手ばっかり言いやがって! ちくしょう!」
 昭さんを何とか布団に寝かせるのがやっとで、私には、どうしてあげることもできない。

 昭さんの悔しさは、私にもわかるような気がした。
 大学を辞めて、好きな勉強を諦めて、お義父さんのこしらえた多額の借金を返しながら、ここまで会社を大きくしてきたのは他ならぬ昭さんだ。それなのに、まるで果実が大きく実った途端に、我も我もと、その甘い汁を吸いに群がるように、これまでろくに付き合いのなかった親戚が押し寄せてきたのだから。

 そもそも、お義父さんと道子さんに対して、昭さんにはどうしても、許せない思いがあった。
 連れ子の治さんに罪はない、とわかってはいても、何もかもを取って代わられるのではないか、という不信感が拭えない。
 治さんは、陽子さんと結婚してほどなく子を授かり、去年の暮れに男の子が生まれていた。祖母である道子さんによく似た、目鼻立ちのくっきりとした赤ん坊だった。



「うちの治と昭さんとは、戸籍の上でも、れっきとした兄弟なんですよ。それなのに昭さんが専務で、治が部長だなんてのは、どう考えてもおかしいじゃぁ、ありませんか」
 と道子さんは、事あるごとに口にしていた。
 兄弟なんだから、平等でなければおかしい。役職に差があるのは、どういうことだ。「共同経営者」にしてもらわなければ困る――。

「何より、うちにはもう、跡取りも生まれてるんですからね」
 親族の会食の席で道子さんが、そう言い放った時、昭さんはとうとう、カンカンに怒ってしまった。見る見る顔が赤らみ、息が荒くなって、鋭い目付きが一層、鋭く据わる。
 それでもどうにか、何も言葉にはせずに、昭さんは席を立って会場を出た。

 慌てて後を追いながら、私はぼんやりと考えていた。
 せっかく縁あって家族となったのに、どうしてこんなに、いがみ合わなければならないのか。男児を生んだら、それほど偉いのだろうか。昭さんと、千紗と、恵利と、四人での穏やかな暮らしでは駄目なのだろうか。

 昭さんも私も、何も口には出さなかった。ただ子どもたちの手を強く握ったまま、黙って歩いた。
 不意に千紗が、でんでんむしむしかたつむり~と歌い出す。すると恵利も負けずに、でんでんむしむしかたつむり~と声を張る。ところがその後が続かない。二人は競うように、同じところを歌い続けて、とうとう笑い出した。
 近頃、街灯が増えて明るくなった家までの道を、私たちはゆっくりと歩いた。



 本格的な夏を思わせるような、強い日差しが照りつける日だった。
 その日は朝から気分が悪く、みんながそれぞれ出かけた後、私は食べた物を吐いてしまった。
 食当たりでもしたのだろうか、それとも急に暑くなったからバテたのだろうか、としばらく横になっていたけれど、良くなるどころか、そのうちだんだんと下腹が痛み出した。

 痛みは、じわじわときつくなっていく。私は、気管支喘息以外には病気らしい病気をしたことがない。だから多少、下腹が痛んでも、お産に比べれば大したことはない、と高を括っていた。
 けれども痛みはどんどん酷くなり、恵利のお迎えの頃にはもう、立って歩くのにも難儀するほどになっていた。


「⋯⋯あぁ、これは流産ですね⋯⋯」
 とお医者さまは淡々と言われる。
 私は痛みに顔を歪めながら、えっ? と、何度も聞き返す。頭が混乱して、ちゃんと考えることができない。
 言われてみれば、月のものが遅れていたような気もするけれど、元来私はきちんと数える性質ではなく、うっかりとそんなことにも気付かなかったのだ。

 私は、子どもがお腹に宿ったことにも、気付かなかったというのだろうか。そうして気付かないままに、子が流れてしまったというのだろうか。
 昭さんと、千紗と恵利、花枝さんや陽子さんとも仲良くなって、それなりに幸せに暮らしていると思っていた私は、なんて浅はかで、愚かだったのだろう。

「⋯⋯胎児の心音が聞こえないね。⋯⋯今回は、諦めてください。今から麻酔をしますよ。はい、ゆっくりと数を数えてね。いち、に、さん⋯⋯」
 お医者さまの声がだんだんに遠くなって、そのまま私は眠ってしまった。


 目が覚めた時、私は前回のようには泣かなかった。そうして、あの子はまた、お空に帰ってしまったんだな、と思った。
 魂というものがあるのなら、きっと前回と同じ、あの子が宿ってくれたに違いない。どういう訳か、私はそう確信していた。
 それなのに、どうしてだろう。
 こうやって、二度も私のお腹に宿ってくれたというのに、どうしてそんなに足早に、お空へ帰ってしまうのだろう。

 悲しいよりも、辛いよりも、私は不思議でならなかった。
 そして本当に、心の底から、あの子に逢いたい、と思った。
 あの子を何としても、私のこの腕の中に抱きしめてあげたい。お願いだから、抱きしめさせて欲しい。
 私は強く強く、そう思った。

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