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【SS】アラームはバターの香り

 チーン
 リビングに甲高い音が小さく響く。オーブントースターを開くと、閉じ込められていたバターの香りが「待ってました」と言わんばかりに飛び出していく。香りに酔いしれていると、寝ぼけた脳が目覚めていった。


 帰ってくるなり、父さんがテーブルに食パンを2斤置いた。
「これどうしたの?」
「会社でもらってきたんだよ。朝メシで食べて良いぞ」
「俺はいいよ。どうせ時間ねえし」
「ギリギリまで寝てるからでしょう」
 母さんが食器を運びながら言ってきた。
 
 朝は苦手だ。いや、苦手というか、可能な限り寝ていたい。遅刻をしないギリギリまで寝て、急いで準備をし、自転車をかっ飛ばして学校に行く。荒々しいモーニングルーティーンだ。朝メシなんて食ってる暇はない。

「あら、これ美味しいやつじゃない!」
「これそんな美味いの? 良い食パン?」
「これねえ、食パンじゃなくてデニッシュなの」
 よく見ると、確かに普通の食パンとは少し違った。耳の部分は食パンよりもシワシワとしており、色も少し濃いめだ。
「ご飯前だけど、少し食べてみる?」
 そう言って母は、包丁で薄めに食パンをカットしだした。部屋が淡いバターの香りで包まれる。
 差し出されたパンは、薄い層のようなものが複雑に絡み合い、自身を支えきれず折れ曲がった部分は、今にもちぎれそうだった。
 慌てて受け取り、一口齧る。甘い。美味い。
 部屋の中で微かに香っていたバターが、口内と鼻腔に広がる。
「何これ、メッチャ美味い……」
「でしょう! 焼くとね、カリッとしてもっと美味しいの」
「マジで? もう1枚食べて良い?」
「ダメ、晩ごはん入らなくなるから。食べたいんだったら朝起きなさい」


 慌ただしい朝を繰り返していた俺の日常は、たった1枚のデニッシュパンによって変化した。昔の人はなかなか的を射ている。
“早起きは三文の徳”
 少なくとも、俺にとってはそれ以上の価値がある。

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