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私の愛した200.96

 博士の愛した数学を再読した。
 毎年新潮社が夏休みに合わせてプレミアムカバーと称してシンプルで美しい装丁の文庫本を出してくださる一大祭り。今年はこの本が並んで、驚くやら喜ばしいやら、不思議な気持ちだった。プレミアムカバーは、明治から昭和にかけての近代文学を中心として、文豪による名作をピックアップするイメージが強いからだ。村上春樹もそうなのだけれど、その中に、今もなお生きて筆を走らせている現代の作家が入ると、なんだかすこし浮いているような、でも、そこに並ぶだけの力がある、愛されている作品なのだと思うと嬉しいし、私にとってもたいへん思い出深く大切な作品なので、本棚で重複などおかまいなく手に取った。

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 この本に出逢ったのは、映画化して世の中に一大ブームを巻き起こしたその翌年だったように記憶している。今も昔も流行に鈍感で、本屋でこの本が大量に店頭に並んでいたピークの時期ではなくて、落ち着いてきた頃に学校の図書室で手にとった。それが出逢いである。
 数学と文学という、一見すれば相容れないような二つの学問が合わさる。或いは、数学者と家政婦、そしてその子供。無論、家政婦は普段の生活で一切数学に触れてはいない。数学を愛する彼は、記憶を80分で失うという特異性をもつ。その特徴を、哀れむでもなく、そっと傷に触れないようにしながら彼と毎日新しい日々を積み上げていく、いたわりが愛しい。親愛数や完全数、オイラーの公式などの数学をちりばめていったとき、そしてルートという記号の使い方に感服するとき、読み手は数学に隠されていた美しさを見出す。小川洋子の文章力、恐るべしである。
 この本を読むたびに、身の回りにある数字や、思い出深い数字に思い馳せる。
 今日は、今回私に浮かび上がった数字について話そうと思う。


 200.96という羅列が私は好きだ。
 これを見て瞬時に由来を察した人はすごい。

 8×8×3.14、つまり半径8cmの円の面積を計算したものだ。まだ数学ではなく算数だったころ、この計算を幾度もしたような記憶がおぼろげにある。あまりにたくさんやったので、答えをすっかり覚えてしまっている。でも、随分と昔の話。あれから多くのことを忘れてきているのに、今でもぱっと200.96という数字を思い出せるし、それが8×8×3.14の答えだということも覚えているのは、この羅列が何故だか無性に私を惹き付けたからだ。
 それが何故なのかは、感覚的なものでうまく説明がつかない。好きだから、としかいいようがない。

 限りなく201に近いけれど、200でもあるということ。小数点以下の、9と6の並び(6/19生まれなので6と1と9の並びには弱い)。8×8×3.14という、小学生の私にはすこし込み入った計算の先で、0が二つ並ぶどこか整然とした答えに辿り着くということ。そういったあたりがこの200.96に魅力を感じている所以ではないだろうかと理由を考えてみるのだけれど、これというはっきりとした理由は自分でも分からないままだ。結局、好きだから、という、それ以上でもそれ以下でもない理由に落ち着く。
 そもそも円周率は永遠に続いていくものなので、200.96と表すけれども、200.96ではないのだ。そういったあたりも、不思議と魅力的である。
 なお、円周率は3.1415……と続いていくけれど、あまりに201に近いので、3.1415あたりで計算すると201を越える。8✕8✕3.1415=201.056だそうだ。この数字にはあまり興味を抱かない。本来の面積により近似しているのは201.056なのに、私の中では限りなく201に近い200.96がまるで正しいものであるかのように存在し続けている。

 算数から数学になり、円周率はπという記号に収束し、3.14という数字からは遠ざかった。200.96は64πになり、なんだか別物のようだが、それがおよそ200.96であるということを知っている。一瞬、円周率を3で教えるという誤解が広まって、そうなれば200.96から随分離れて192という全くの別物になって、一瞬200.96が世間から消えるのだろうかと私は不安に駆られたものだが、どうやら杞憂だったようだ。今も、小学生には3.14で教えられているそうな。
 200.96は消えず、ただ存在しており、今もどこかで誰かの手によって紙に書かれているのではないだろうか。


 今となっては実生活で使うわけでもない円周率。
 理由は自分でもよくわからないけれど、好きな数字を抱いていると、その揺るぎなさが自分を支えてくれているように思う、というのは、いくらなんでも露骨に影響を受けすぎだろうか。けれど、そんなことを考え、信じたくなる本なのだ。
 そんな愛すべき200.96のことを久しぶりに思い返した、今回の「博士の愛した数学」の再読でした。

たいへん喜びます!本を読んで文にします。