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木星の翅を連れて

短編小説

◇◇◇


 真夜中に冷蔵庫の扉を開けたら、中に蛾が止まっていました。大きな蛾です。標本のように翅を広げて、ぴたりと止まっていました。よく見ると、模様が木星みたいで綺麗です。

 ここにいて楽しい?

 私はそう話し掛けてから、キッチンの明かりは点けずに、わざと暗くしたままリビングの窓を開けました。入ってきた夜の空気を体に受けたあと、冷蔵庫の灯りに照らされながら、割り箸を使って蛾の胴体をつかみました。もがいたり暴れたりするかと思ったのに意外と大人しい子で、逆に気の毒な気持ちになりました。

 ベランダに出て夜空に放してあげようと思ったのですが、このままだとただ落下してしまうだけだと考え、私は箸で摘んだままマンションのエレベーターに乗ったのです。八階から一階へ。天空から地上へ。そんな気持ちでした。

 一階では男の人が一人、エレベーターを待っていました。箸で蛾を摘んでいる女の子が、真夜中に一人で降りてきたからでしょう。紺色の背広を着たその三十歳くらいの背の高い人は、驚いた顔で口を開けたまま固まっていたのが印象的でした。すれ違うときに軽い会釈をした私は、その後、こっそりと忍び笑いをしたほど愉快な気持ちになりました。

 エントランスを出ると駐輪場があり、その近くの植え込みにはガーデンライトの灯りが当たっていて、私はそこのレンガブロックの上に蛾を着地させることができました。やはり、予想はしていましたがちっとも動きません。いつか飛び立ってくれるはず、と信じてはいるものの時間がかかりそうです。それとも、東京の蛾は、私がこの間まで住んでいた田舎の虫と比べたら元気がないのでしょうか。

 寒かったから飛べなかったんだよね? 

 冷蔵庫の中にいたんだもの、でもすぐに温まるからね、元気になったら自分のおうちに戻るんだよ。最後に私はそう言い残して、またマンションの入り口に戻りました。

 オートロックを解除して、エレベーターホールに目をやると、さっきの背広を着た男の人がまだそこにいるのが見えました。ドキッとしました。私が戻ってくるのを待っているような気がしたからです。都会には怖い人がいるから注意するようにと、お父さんやお母さんから何度も言われています。男の人は両腕を下げていますが、さっきまで誰かと通話をしていたのか、左手に携帯電話を持っています。入り口で佇んだまま歩き出すのを躊躇っていた私と目が合いました。

 どうしよう、部屋に戻りたいのに。

 私は反射的に踵を返し、また駐輪場の花壇に向かいました。持っていた割り箸で、まだ飛び立たずにいた蛾を再び摘み上げると、おそるおそるマンションの入り口に戻り、オートロックを解除しました。

 男の人は私がエントランスへ入って来たことに気が付いたようでした。私と目が合うと、真っ直ぐに姿勢を正すのが見えました。そして、やはり私が箸で蛾を摘んでいることにも気付いたようでした。

 私がこのとき考えていたのは、この男の人は蛾が苦手なのではないか、ということでした。もしもこの人が悪い人だったら、蛾を箸で摘んでいる女の子を気味が悪いと思って手を出したりしないのではないか……。私は以前、お父さんからアメリカの地下鉄の話を聞いたことがあるのです。昔、ニューヨークの地下鉄は治安が悪く、女性の乗客は自分の身を守るために、男の人に絡まれたときの対策をいろいろと考えていたそうなのです。私が覚えているのは、編み物をしながら地下鉄に乗り、いざというときはその編み棒を武器にして相手を突くか、それができないなら、目の前でその編み棒をキャンディーのようにペロペロと舐め、興奮したチンパンジーのように体を動かしながら編んでいたものを頭に巻き付け、そのあと不気味な声で笑い出す、そうすると相手は怯むのでその隙に次の車両へ逃げる、というものでした。半分ジョークだとお父さんは言っていましたが、私が今、自分の身を守るためにできるのは、編み棒をキャンディーのように舐めること、つまり、蛾を箸で摘んで歩いているおかしな子だと思わせることだけです。相手の気勢を削ぐためなら、そのまま蛾を口に入れることも厭わないつもりでした。私は自分の身を守るために覚悟を決めたのです。

 私はエレベーターホールに向かって歩き出しました。男の人は、あっ、と声を発して、上から下まで私の全身にさっと目を走らせたようでした。私は無表情を作り、心ここにあらずという感じで静かに近付いていきました。箸で摘んでいる蛾を誇示するように、さりげなく腕を前に伸ばして。すると、男の人の話す声が聞こえました。

「こんばんは」
「…………」
「あの……このマンションにお住まいの方ですか?」
「…………」

 多分、男の人は私に話し掛けたのだと思います。こういうとき、私はどうすればよかったのでしょう。とても礼儀正しい感じで尋ねられたので、思わず返事をしそうになりました。このまま男の人を無視して、心ここにあらずの女の子のふりを続けるべきか私は迷いました。エレベーターに目をやると、階数の表示ランプが低い数字に向かって規則正しく点灯していくのが見えました。箱が一階へ降りてきているのです。私の決断は急に鈍り始めました。降りてくるエレベーターの中に誰か乗っているかも知れません。空っぽかも知れません。どちらの状況が私にとってより危険なのか、判断がつかなくなりました。迷っているうちにエレベーターは一階に到着してしまいました。

 ドアが開いたとき、中に女の人が乗っているのが見えました。丈の長いベージュ色のカーディガンを羽織り、下は裾にリブがついていてすっきりとした足首が見えるグレーのスエットです。年齢は三十歳くらいでしょうか。女の人は正面に立っている私の姿を見て、あっ、と小さく声をあげ、そして、エレベーターから降りると、私から少し離れて立っていた男の人と目を合わせました。

「ねえ、もしかしてだけど……」

 急に女の人が私に近付いてきて、顔を覗き込むように話し掛けてきました。不意のことだったので、私はちょっとだけ体を後ろにのけ反らせてしまいました。

「あっ、突然ごめんね! 驚かせちゃったよね」

 女の人が、なぜか私にとても気を遣っているのがわかりました。

「あのね、とっても心配なので訊くよ。いい? もしかしてだけど、あなた、自分のお部屋から閉め出されたりとか、追い出されたりとかされたんじゃないの?」

 私は慌てて首を横に振りました。首を振るだけでは申し訳なくなり、初めて声を出して答えました。

「いいえ、違います。大丈夫です、部屋には帰れます」
「そう、本当なのね、よかったー」

 女の人がホッとしたように柔らかい笑顔を見せたので、私もうんうんと何度も頷きました。続けて女の人は、私が太腿まで生足を晒しているのを目にして、その格好で寒くない? と訊ねてきました。私は改めて自分がどんな格好で一階のエレベーターの前にいるのか自覚することになりました。私はパジャマの代わりに着ていたピンクのロングTシャツに白のホットパンツ、そして素足にサンダル履きのままで部屋から出て来ていたのです。女の人は離れたところに立っていた男の人に近付いていくと、私に聞こえないように会話を始めました。けれども私は耳がいいので、話の内容がすべて聞こえていました。

(追い出されたりとかじゃないみたい。大丈夫)
(うん、聞こえてた。よかった)
(下はホットパンツよ。下着じゃないわ。もう、脅かさないでよ)
(下着だと思ったんだよ、虐待かと思って心配になるだろうよ)
(下着じゃない、よく見てから言ってよね)
(よく見てからって言うけど、そんなとこじっくり見たら、その時点で変態だからな)
(それもそうね、あはは)

 私は自分の軽率な行動が恥ずかしくなりました。田舎の暮らしと東京の暮らしは違うから、だらしないと笑われるよ、とお母さんに言われていたからです。去年、六年生最後の修学旅行のときも、ホテルに宿泊する際の注意事項に、部屋を出たらホテル内の通路は外と同じです、身だしなみに注意して下さい、とあったことを、私は急に思い出しました。

 私は、背広姿の男の人と、カーディガンを羽織っている女の人と、一緒にエレベーターに乗り込みました。二人は年齢が同じように見えたので夫婦だという気がしました。エレベーターに乗る前、私はお父さんの仕事の都合で一昨日にこのマンションに引っ越してきたことや、ずっと東北の雪国に住んでいたこと、この春から都内の中学校に入学することなどを二人に話しました。

 扉の近くに立った女の人が「私たちは七階だけど、あなたは?」と訊ねるので、私は「八階」と答えました。すると、女の人はエレベーターの操作パネルに向き直り、「えっ、このマンションに八階ってあったの?」と素っ頓狂な声をあげました。男の人が「どれどれ」と言い、操作パネルの階数ボタンを見詰め、「……あったね」と囁くように声を漏らしました。二人はずっと七階までしかないマンションだと思っていたようでした。

 上昇するエレベーターの中で、私は女の人からお風呂上がりのときみたいなとてもいい匂いが漂ってくることに気が付きました。お母さんのとは違って高級そうな香りです。扉の方を向いている男の人に目をやると、背が高いという最初の印象に加えて背中がとても広いことに気が付きました。

「東京は、あったかいでしょう?」

 女の人が私に向かって微笑を浮かべました。

「もうじき開花するみたいよ。このマンションからいい感じに桜が見渡せるから、楽しみにしてて」

 このとき、男の人も私の方を振り返って、照れくさそうににっこりと笑顔を見せました。

 誰も私が箸で蛾を摘んでいることには触れませんでした。エレベーターが七階に着いたとき、二人は私に、「じゃあね、おやすみ」と言って降りていきました。私は耳がいいので、エレベーターの扉が閉まる寸前に、(ペット?)(散歩?)と二人が交わしている会話が聞こえていました。

 八階の通路を歩きながら、私はあの夫婦に蛾を散歩させている変な子に思われたかも知れないと考えて、少しだけ憂鬱になりました。でも、二人とも悪い人じゃなかった、それどころか、全然知らない私のことを、親身になって心配までしてくれるとてもいい人たちだった、と思いました。それに、最初に蛾を使っておかしな子に思われようとしていたのは私の方だったと思い直しました。

 玄関に履いていたサンダルを脱ぎ、キッチンにクッキーが入っていた缶を見付けて、その蓋の裏にとりあえず蛾を乗せることにして、そういえば私が冷蔵庫を開けたのはミルクが飲みたかったからだったと思い出し、マグカップに注いで一気に飲み干し、それからロングTシャツにホットパンツの組み合わせでは、何も穿いていないかのような誤解を招くとわかったので、濃紺にピンクのラインが入ったジャージに素早く着替え、玄関に戻ってサンダルを履き直し、蛾を乗せたクッキー缶の蓋を持って八階の通路に出ると、私はまたエレベーターで一階へと降りていきました。

 今度は誰の姿もないことにほっとして、私は両手でクッキー缶の蓋を恭しく持ちながら、静々と一階のエントランスを歩きました。急いで歩くと蛾が空気の流れを受けてふわりと浮き上がるからです。外に出てもう一度駐輪場にある花壇に向かいました。私はどうしても蛾に飛び立って、元のいた場所に戻って欲しかったのです。地上に降ろすことしか知恵が浮かびませんでしたが、それでも私はこれが自分の責任であるかのように思いました。それに、自分の身を守るためとはいえ、一度は口に入れても構わないとまで思ってしまったことへの償いの気持ちもあります。ところが、困ったことが起きました。さっきより夜風が出てきたために、レンガの上に置いた途端、蛾は飛ばされて、小さな紙飛行機のように植え込みへ落下してしまうのです。私はそれを見て、今夜は諦めようと思いました。また部屋に蛾を持ち帰るしかありません。

 ごめんね。弱っているのに、無理にお散歩させちゃったね。

 地上から天空へ。そんな気持ちになりながら、私はエレベーターホールに向かって、ゆっくりと蛾を落とさないように歩きました。私のあとからエントランスに誰かが入ってきたなと思ったのはこのときです。その人にさっと追い抜かれ、先にエレベーターに乗り込まれてしまいました。不意を突かれて私が立ち止まっていると、大学生くらいの年齢に見える男性がひょっこりと顔を出して「何階ですか?」と訊いてきました。男性は面長で黒縁の眼鏡をかけていて、左手にはカップ焼きそばの外装が透けて見えているコンビニの袋を提げています。私はその人懐っこそうな雰囲気につられて、一緒のエレベーターに乗ることにしました。

「八階です」

 私がそう告げると、男性は「八階なんてあったっけ?」と先程の夫婦と同じように驚いていました。私が指を伸ばして階数のボタンを押すと、「へえー、八階だけ離れたところにボタンがあるんだね」と感心しながら面白いものでも見付けたように笑っています。

「それ、珍しい蛾じゃない?」

 男性は私が持っているものを興味深げに覗き込んできました。

「ブラシのような触覚が格好いいし、翅の模様も見事だよね。なかなかのジュピター感」
「この子、うちの冷蔵庫の中に止まっていたんです」

 男性の反応に気を良くした私は、秘密を教えて驚かせたい気持ちになっていました。

「わっ、本当に? 越冬する蛾っているらしいからね。へえー、棲みやすかったのかなあ、冷蔵庫」

 男性と私は同時に声を出して笑いました。男性はさらに観察を続けるとこう言いました。

「案外、精巧に作られたメカかも知れないよ。どうする? 急に作動したら」
「目が赤く光ったらドキッとする」
「ははは、君、面白い」

 最後に「おやすみ」と言って、男性は六階で降りていきました。

 上昇するエレベーターの中で、私は今夜だけでも三人の人たちから「おやすみ」と言ってもらえたことを反芻していました。東京に来て初めて、両親以外の知らない人と会話をし、笑い合うことができたのだということを考えていたら、どういうわけか胸がいっぱいになり、理由のわからない涙が目の中に溜まっていくのを感じました。

 東京はあったかいでしょう?

 不意に、ベージュ色のカーディガンを羽織っていた女の人の言葉が蘇ってきました。私は八階で降りてから、通路で唯一、外に出られる非常階段の鉄の扉を開けて、踊り場に立ちました。眼下には、私がこの間まで暮らしていた雪の積もる田舎とはまるで違う煌びやかな夜景が広がっています。そして、街全体から湧き上がるような低い騒音が聞こえています。田舎では聴けない都会の音です。私はそれらを体全部で受け止め、抱きしめたいという気持ちになっていました。

 階段から吹き上がってきた生暖かい風が、ジャージの裾から入り込み、私の脚に触れている生地をパタパタとはためかせました。このとき、持っていたクッキー缶にわずかな重量の増加を感じました。騒がしい羽ばたきの音に気付いたときには、ふっと手元が軽くなり、私は、あの子がたった今、飛び立ったことを知りました。

 どこへ飛んでいったのかは、夜の闇に紛れてしまい見届けることはできませんでした。せめて目だけでも赤く光ってくれたらわかるのに。そう思った自分のことが急に可笑しくなり、私は本当に声を出して笑いました。なるだけ遠くに目を彷徨わせ、飛び立っていったあの子の行方を見届けているつもりで、私は見えるはずのない赤い光点をしばらく探していました。

(了)


四百字詰原稿用紙十七枚



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