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真面目な人 2/3 〈全三回〉

 以前から夏夫は、男であれ女であれ異性の特定の部位に性的魅力を感じることは、相手の身体に現れた特徴から優勢な遺伝子を見極めるために発動する、人類の本能的な生殖活動のひとつなのだと考えていた。素敵だと思う異性に出会うとき、大きな瞳に魅せられる人もいれば、艶やかな長い髪に惹かれる人もいる。あるいは形のいい唇に、あるいは腕に浮いた筋肉や血管の筋を好ましく思う人もいる。夏夫の場合、たまたまそれが脚だった。だが、これほどまでに官能的なシグナルを視神経に流し込んでくる太腿に夏夫は出会ったことがなかった。もはや眺めていたいという欲求は腿だけにとどまらず、滑らかな膝頭、緩やかに膨張したふくらはぎ、そこから狭く窄まりながら黒いパンプスの中にひたりと収納されていくまでを、なぞるように目で走査しているのだった。もうこの脚の前では自分の性的嗜好を隠しておくのは不可能だと夏夫は思った。組まれた二本の脚が醸し出すその蠱惑的な造形だけでも十分に夏夫の欲情を掻き立てるものだったが、女の履いているタイツの色が黒に限りなく近い深紫色だったために、太腿の表面で拡大した編み目と肌の色との間で階調が生まれ、あたかも漆黒の宇宙に仄かな光を帯びた銀河が横たわるようなイメージを連れてきて、それが夏夫の特異な感性をたまらなく刺激するのだった。

 女はカウンターに両肘を突き、背筋を伸ばした格好で岡崎と汐田の話に時折相槌を打っている。その姿を斜め後ろから眺めていた夏夫は、模範的で真面目という中学のときから保ち続けてきた体面と、脚を盗み見ているという背徳的な行為との間に生じた葛藤に戸惑っていた。不躾な凝視が異性に不快感を与えることは、夏夫とて十分に承知している。だが、何度目を逸らしてみても、眼差しは忘れ物を取りにでも行くようにまた女の脚へと戻っていってしまうのだった。

 夏夫にとって救いなのは、こんな風に脚を鑑賞する罪を重ねてしまっている間も、岡崎と汐田の他愛のないおしゃべりの声が、途切れることなく続いていたことだった。自分の愚行が、女はもとよりこの二人にも気付かれていないことは、夏夫に心の底からの安堵をもたらした。

「急に思い出したんだけどさ」

 さっきより赤みが増した顔の岡崎が、突如夏夫を指差して言った。

「委員長ってさ、変わってたよね興味のあることの対象が。今でいうオタクみたいなところがあったよね」

 それを受けて汐田が懐かしむように言った。

「あったあった、UFOでしょう? 確か、夏休みの自由研究がUFOだったんだよ」

 すると、ショートボブの女も心当たりがある風で、大きく頷きながら夏夫に笑顔を向けてくる。

 今になってそんな話題が出てくるとは夏夫は考えてもいなかった。続いて岡崎と汐田の口からはエリア51だのミステリーサークルだのといった言葉がぽんぽんと飛び出し、夏夫がかつて夢中になり、今ではいささか気恥ずかしくも感じているUFOの話題一色に染まっていったのだった。

「今でも覚えてるな、あの頃の委員長。熱く語ってたもの」
「いろいろ解説してくれたよね、私たちに。アダムスキー型とか葉巻型とかさ。でも、あれだけ熱心だったわりには一度もUFOを見たことないんだったよね。ね、委員長」
「そんなこと……よく覚えているな」

 彼女らの言う通り、中学のときの夏夫は熱心なUFOマニアだった。夢は本物のUFOを目撃することだと公言し、テレビのUFO特番はそれこそ齧り付くように観ていた。関連する書籍は片っ端から読み漁り、仕入れた知識はノートにまとめ、それを友達に披露することを楽しんでいた。UFOを呼ぼうと夏休みの間、夜の校庭に忍び込み、何時間も空を見上げてマントラを唱えたこともある。一週間ほど続けて諦めたが、物好きな岡崎が一度冷やかし半分に様子を見に来たことがあったし、また別の晩には汐田が様子を窺いに来たことも夏夫は覚えている。中学三年のときに発表したUFOをテーマにした自由研究は、夏夫としては大真面目に取り組んだつもりだった。実験では、本物に見える精巧なUFO写真を撮影し、その捏造の仕方を解説するといった工夫を盛り込んだのだが、生徒には受けても教師には呆れられたという苦い思い出しかない。

「その後、UFOを見ることはできたの?」汐田が訊ねた。

「いや、一度もない。それにほら、目撃証言のほとんどは目の錯覚か、作為のある出鱈目だから……」

 夏夫は興味がなさそうにそう答えて、グラスに半分ほど残っていたマティーニを一気に空けた。

 それから急速に酔いが回ったようだった。誰かが「××山は昔からUFOの基地があるということで有名だった」と言い、それを受けて違う誰かが「今でもビュンビュン飛び交ってるっていう噂だよ」と答えたかと思うと、「私の妹がさ、彼氏と二人でいるときに目撃したらしいよ」「どこで?」「熊笹神社の境内のところ」「本当に?」「円い窓がいくつも並んでたんだって」とだんだん、話が眉唾物めいてきて、目を瞑りながらそれらの会話を聞いていた夏夫は少し眠くなってきてもいた。そのうち意識がぷつぷつと途切れて会話を聞きこぼすことが多くなり、「××ちゃん、わかるの?」「うん。気配がするなあと思って空を見ると、必ず浮かんでる」「それって霊感みたいなもの?」「すごいな。委員長に教えたらきっと喜ぶよ」「起きて! 起きて委員長、夢が叶うかもよ」と肩の辺りを誰かに揺すられてようやく自分が眠りかけていたことに夏夫は気付いたのだった。

 周りを見ると馬跳びにも決着がついたようで、テーブルは元に戻され、幹事の吉春と帯津の二人がそろそろお開きにしようと声を掛けてきた。やがて同級生たちが三々五々帰り始め、岡崎と汐田もそれぞれ店の外に亭主が迎えに来ていると言って姿を消した。そのときになって、ああ、あの二人はもう結婚していたんだ、という感慨が夏夫の頭にぼんやりと浮かび、長い間帰省していなかったことで、すっかり地元の人間たちと疎遠になっていることに、一人取り残されてしまったような寂しさを感じたのだった。

 ふわりと女の体が夏夫のそばに寄せられたのは、そのときだった。

「今から熊笹神社の境内に上ってUFOを見に行こうよ……」

 気付けばこの店に残っているのは、夏夫とまだ名前を思い出せない女の二人だけになっていた。


真面目な人 3/3に続く

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