桜の魔術
掌編小説
◇◇◇
すぐに右手が止まってしまうのだ。快感の塊のような君の舌を受け入れていると、軽い口づけのつもりが、ぼくもつい夢中になり、さっきまで胸の膨らみを求めていた右手から、つい意識が離れてしまう。甘味を探すように君の舌を味わっていると、できることならこの滑らかな官能ごと自分の喉に引き込んで、そのままつるんと飲み込んでしまいたくなるのだ。
右手が留守になってるよ。
そんな空耳が聞こえたようだった。君の腰のあたりで、さわさわと風に揺れるように遊んでいたぼくの右手を、君は力強く自らの胸元に引き寄せて、ニットの上から左側の乳房に、ぐいっと押し付ける。
正気に戻るのはぼくの方が早かった。
ここは桜が名所の公園だった。ぼくたちは人出が少ないのをいいことに、ちんまりとした丘を見付けて、花びらが散り始めた中、目立たないようにレジャーシートを敷いたのだった。
場所を考えようよ、誰が見ているか分からないんだから。
そう言おうと思って唇を離そうとすると、君は磁石のように顔をくっつけてきて、ぼくの唇との距離を取ろうとはさせないのだった。ぼくは両膝をついたまま大きく仰け反り、君は倒れ込むようにぼくに覆い被さる。接吻したまま、胸に手を触らせたまま。まるで西洋絵画のドラマチックな構図のように、宙に体が浮いたような、完全にバランスが取れた状態で、一瞬の静止状態が訪れたのだった。
「やりたい盛りだからな」
ぼくたちのいる丘のすぐ下から、そんな無遠慮な声が聞こえてきた。「これだから今どきの若い者は……」と呆れたような別の声も。そのまま二つの足音は遠ざかっていった。
バランスが崩れ、二人でレジャーシートに倒れ込んだ。寝転んだまま、ぼくは今し方声がした方に目を向ける。下の小径を歩き去っていく、カメラバッグと三脚を抱えた中年の男たちの後ろ姿が見えた。
花びらの散らばるレジャーシートの上で、ぼくたちは折り重なっていた。その上に、また花びらが降りてくる。
「私より先に、いい子になろうとしたよね?」
仰向けになったぼくの体に全体重を預けながら、君は意地悪な声でそう言う。
「うん、急に恥ずかしくなった。下を通ったおっさんたちに見られたかもな」
君がまた顔を近付けてきた。起き上がるつもりでいたぼくは、再燃する君のキスを受け止めながら脱力し、ま、いいか、という気になる。
そうだよ、やりたい盛りだよ。やりたいんだからいいじゃないか。おっさんたちだって、若い頃はそうだったんだろ?
そう心の中で反論し、レジャーシートの上で仰向けに倒れたまま、自分たちに降りかかってくる花びらを見上げた。まるで魔術を見ているかのようだった。花びらは、真上で枝を広げている桜の木から、忽然と生まれてひらひらと目の前に現れた。何時間もここに寝ていたら、ぼくたちはこのまま花びらに埋もれていくのではないかと思った。
一緒に住もうか。
口を開いていないし、誰も何も言っていないのに、そんな自分の声が聞こえた。
私たち、同棲するってこと?
君は何も言っていないし、誰も他に言う人もいないのに、そんな君の声が聞こえた。
今の会話は空耳だ。空耳だが、本当にそのまま空耳にしておいていいものだろうか。もう心は決まっているのではないか。だが——。
「帰ろうか」
花びらが降り止んでいるのに気付いたぼくの口から出たのは、そんな言葉だった。
(了)
四百字詰原稿用紙約四枚 (1,355字)
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