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アリスになって遊ぶ夜

掌編小説

◇◇◇


 夜の十時に芙沙から呼び出される。急だったが、こういうのはこれまでにも何度かあった。

 待ち合わせに指定されたドラッグストアに行ってみると、芙沙はコスメ売り場の通路にしゃがみ込んで、何かの試供品を試しているようだった。そばまで行って声をかける。彼女はケースやチューブを床に散らかしたまま立ち上がり、今から冒険の国へ行こうと言ってぼくの腕をつかんだ。切実な表情だった。

 ドラッグストアを出て丘陵地帯にある団地の上り坂を進む。ぼくは芙沙に腕をつかまれたまま、捕獲された格好で素直についていく。

 芙沙が案内してくれた場所は何の変哲もない普通の公園だった。背の高い白樺を見上げると、幹の間に綺麗な星が出ていた。

 ここが冒険の国だよ。

 そう言って、芙沙はようやくぼくの腕を放してくれた。

 明かりの乏しい公園だった。外灯はあるけれど、ここから見えるのはぽつんと一本だけで、その白い明かりはジャングルジムやブランコといった子供向けの遊具がある場所にまでは届いていなかった。

 入り口はここ。

 芙沙が指定したのは外灯の明かりが及ぶ範囲から暗がりが始まるちょうどその境界の辺り。彼女はその境目をぴょんと跳んで、暗がりに両足で着地した。そして、振り返ってぼくをじっと見つめている。ああ、わかったよ、君の“ごっこ”に付き合おうじゃないか。ぼくは心の中でそう呟き、明かりが届いているぎりぎりの場所から、暗がりに向かって大袈裟に飛び越えてみせた。

 ここから体が小さくなるよ。

 芙沙はジャングルジムの前に立つと、小さく屈んで一番下の段にある四角い枠の中に、華奢な体を滑り込ませた。彼女はビッグサイズのTシャツにフリンジ加工されたデニムのショートパンツという格好だったが、掌や膝が汚れても構わないのか、するすると四つん這いで進んでいく。一体、これは何の真似だろう。ぼくは、彼女がジャングルジムの中に潜り込むとき、口元に寄せた手を傾け、何か飲むジェスチャーをしていたのを思い出した。そうか、不思議の国のアリスだな、いいだろう、付き合うよ。

 最初はぼくも戸惑った。芙沙の“遊び”は誰とも違っていたから。彼女は孤独がピークに達したときだけ、ぼくを呼び出す。おそらく、そんな風になっている彼女を相手にできるのは、ぼくしかいないからだろう。

 ジャングルジムを抜け出したことで体が小さくなったぼくたちは、そのあとも、ブランコの座板の下をくぐり、ベンチの狭い脚の間を這い進み、跨いだら越えられる植え込みにわざと頭から突っ込んで突破を試みるなどした。顔や腕に擦り傷をこさえながらも楽しくて、誰もいない噴水のある広場に転がり出ると、アホみたいに二人で笑った。

 水飲み場の水道で手を洗っているときも、土で汚れた膝小僧に蛇口の水を指で押さえてかけ合っているときも、ぼくらはずっと笑い通しだった。ぼくはジーンズがびしょびしょになり、芙沙は履いていたサンダルを脱ぎ跳ばして、裸足ではしゃぎ回った。

 星明かりに目が慣れてきて、芙沙が噴水の前で楽しそうにY字バランスに挑戦しているのが見えた。たとえ暗がりであっても、ぼくは芙沙の笑顔はわかる自信がある。何度バランスを崩して失敗しても、ぴたりと静止が決まるまで諦めない。そんな情景にほだされて、ぼくは知らずに心の中で彼女に声援を送っていた。笑うことはいいことだな。笑えば嫌なことなんてすぐに忘れてしまえるさ。誰かに振られたのか。それとも悲しい目に遭わされたのか。君がぼくを必要とするときは、決まってそういう辛い出来事が起こったあとだ。ぼくは毎回君に呼び出され、そのたびにおかしな設定に付き合わされる。君はわかっているのだろうか。そんな遊びに最後まで付き合ってくれる友人は、相当に奇特な人間だということを。君に降りかかってきた孤独の処理に、どんなときも断らないで協力してくれる都合のいい人間は、なかなか貴重だということを。不思議の国のアリスは穴に落ちたあと体が小さくなった。今夜は君も体が小さくなっているのだから、きっと傷だって小さくなっているはずだよ。

 芙沙はY字バランスの成功に気を良くしたみたいで、にこにこしながらぼくに近付いてきた。

 あそこの明るいところに行ってみたい。

 そう言って、彼女はぼくの腕を引っ張る。

 芙沙が見つけたのは、噴水の後ろに見えている変わった形の花壇だった。近付いてみると、高さが人の背丈ほどもある赤煉瓦の壁が、地面に設置された投光器からの明かりで夜の中に浮かび上がっていた。それがホリゾントのような効果をもたらして、対面に置かれたベンチに座れば暗い劇場で舞台を眺めているような気持ちになる。そんな面白い造りの場所だった。壁の上部にはたくさんのノウゼンカズラが花をつけ、ベンチの周囲には夏に花を咲かせる植物のプランターが並べてあった。おそらく、撮影映えのするスポットとして設けられたものだろう。

 投光器の前に手をかざして二人で影絵遊びをした。光源の前に立てば、赤煉瓦の壁に人の形をした大きなシルエットが映し出された。

 ここの照明は、二十三時になると自動的に消えるそうだ。

 ぼくはベンチのそばに掲示された立て札の内容を、要約して芙沙に教えてあげた。

 二十三時になったら、わたしのこの影も消えるのね。

 芙沙はそう言って、投光器の前でゆらゆらと体を揺らしてみせた。

 照明が消える瞬間を見ていこうか。

 ぼくはそう提案をして、時計を見た。あと二分もすれば、ちょうど消灯する時間だった。

 影は消えるのに、実体は残るなんておかしいよ。どっちも消えたらいいのに。

 芙沙は呟くように言う。

 君は消えたいの?
 消えたいと思うときあるよ。影にも置いて行かれて、自分だけひとりぼっちになるのはいやだよ。

 芙沙は壁に投射された自分の影を見ながら、上半身だけを上下にぐるぐると回転させるダンスの真似を始めた。そして、そばで立っているぼくにも同じことをしろと命令する。壁に映った二体の影は、同じ軌道を追いかけるようにぐるぐると何度も回り、その間は、ぼくも調子に乗って『Choo Choo TRAIN』のイントロを口ずさんだ。照明が消えるまで踊っていようと二人で話していたが、なぜか二十三時が過ぎても投光器の明かりは消えなかった。

 芙沙は飽きたのか、対面にあるベンチに膝を抱えて座り込んだ。ビッグTシャツの裾で膝頭から足首までをすっぽりと包み、半袖から伸びている腕も、なるべく縮めていた。不思議の国のアリスの“遊び”はまだ続いていたらしい。ぼくはそんな芙沙に、そろそろ帰ろうと言った。彼女は素直に従い、公園内の道を二人で戻ることにした。最初に見たあの綺麗な星は、白樺からだいぶ遠くなっていた。

 暗がりにジャングルジムが見えてきて、ぼくは歩調を緩めた。ところで、アリスはどうやって落ちた穴から元の世界に戻ったのだろう。ぼくは知らなかった。芙沙に訊ねると、彼女も知らないと言う。

 ジャングルジムの前で立ち止まるぼくを追い抜き、芙沙は、じゃあね、と言って、そのまますたすたと一人で帰っていった。闇と光の境界に何の意味もなかったかのように、あっさりと彼女はそこを越えた。

 置き去りにされたぼくは、暗がりから一歩も出られないまま芙沙の後ろ姿を見送った。こういうことは、これまでにも何度かあった。ぼくにやって来た孤独は、やはりぼく一人で処理するしかないのだろう。小さく体が縮んだ設定を、これからも抱えたままで。

(了)


四百字詰原稿用紙約八枚(3,001字)


※この作品は自作の詩で同名タイトルの『アリスになって遊ぶ夜』を、掌編のスタイルに改めるというひとつの試みを志向したものです。(作者)


参考書籍

・『不思議の国のアリス』 ルイス・キャロル 石川澄子/訳 東京図書



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