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真面目な人 1/3 〈全三回〉

短編小説

◇◇◇


 二次会の会場となったスナックは、三十代のとば口に立ったばかりの男女二十二名がなだれ込んだことでほぼ貸し切りの状態になっていた。一般の客もいないわけではなかったが、いい大人が羽目を外したときの無遠慮な話し声や笑い声、普段ならこの店ではあり得ない四股を踏むようなどすんどすんという音が床から伝わってくれば、すみやかに会計を済ましてドアの外に消えた先客たちの判断は賢明だったろう。同窓会からの流れでクラス毎に二次会をやることになり、断る理由のない夏夫は参加を決めたのだった。××中学三年×組のクラスの空気が、十五年の時を経て、ビルの四階のフロアに構えたスナックの中に再現されていた。あの頃と違うのは、煙草と酒の匂いが混じっていることくらいか。

 急にテーブルと椅子を片方に寄せて馬跳びを始めた元気な連中から距離を置き、夏夫は店の出入り口近くのコーナーにあるカウンターへと移動した。そこには背もたれの低い椅子に尻を乗せてひそひそと話し込んでいる三人の女がいて、夏夫が席に着いたとわかると、全員がいっせいに好意的な顔を向けてきた。

「久しぶりね、委員長。今も東京で働いているんだってね。銀行マンなんでしょう? こっちには帰ってこないの?」

 三人の中で一番向こう端にいる女が夏夫に声を掛けてきた。クラスで副委員をしていた岡崎だ。カウンターに耳がつきそうなくらいに顔を寝かせ、天然パーマの下のきらきらした目でこちらを覗き込んでいる。首から上がすっかり上気して相当酔っているように見えるが、呂律はきちんとしていた。その手前には髪の長い汐田が座っていた。切れ長の目を波の形にしてくすりと笑い、手にしていたグラスの液体を小さく揺らしている。たった今、岡崎が口にした「委員長」という呼び方に、汐田は反応したようだった。

「委員長か……。そういえばそんな風に呼んでたな」

 ぼそっと空気の中に言葉を置くような汐田のしゃべり方は中学のときから変わっておらず、よく見れば岡崎の強く瞬きをする癖も相変わらずで、夏夫はここが薄暗い飲み屋などではなく、西日がよく当たるあの中学校の教室で、普通におしゃべりでもしているような気分になった。

「その『委員長』って呼び方、もうよそうよ。それとも、今から岡崎を『副委員長』、汐田を『議長』と呼ぶことにする?」

 夏夫が冗談めかしてそう言うと、汐田が「その呼び方だけはやめて!」とわざと苦しげな声で懇願し、岡崎も便乗して「私も『副委員長』はやめて!」と拝むように手を合わせたところで全員がぷっと噴き出し、大爆笑がカウンターに広がった。

「なんかさ、変わったね、夏夫。固い感じがなくなった」

 汐田がまじまじと夏夫を見てからそう言った。続けて顔を横に寝かせたままの岡崎が茶化すように付け加えた。

「都会に出て垢抜けたよね。その素敵なネクタイを見ればわかる」

 夏夫はキリンがたくさん並んでいる小紋柄のネクタイを締めていた。職場の後輩から以前貰ったものだが、こういう機会でなければ持ち出すことのないものだった。

「俺は全然変わってないよ。このネクタイにしても、ホテルで一次会をするっていうから面白がって締めてみただけさ。でも、結局このクラスの男でスーツを着てきたのは俺しかいなかったな」
「そうなんだよね。その妙に生真面目なところは相変わらずだなって思ったけど」
「ははは、私も思った」

 汐田と岡崎はお互いを指差しながら声を出して笑い、そして夏夫のすぐ隣に腰掛けている髪がショートボブの女も、笑顔を向けながら、同意する目配せを夏夫に送ってよこした。

 中学の頃は、学校の指定通りに夏でもシャツの第一ボタンを必ず留めていたことから、「歩く生徒手帳」と呼ばれて岡崎と汐田によくからかわれていた夏夫だったが、彼女らと久しぶりに交わした今の言葉のやりとりの中に、そんな懐かしい頃の呼吸が蘇ったのを感じて、夏夫は嬉しさと同時にほっと落ち着いたような気持ちに包まれた。

 テーブル席で給仕をしていた初老のバーテンダーがカウンターの中に戻ってきて、熟練した手つきでミキシンググラスに酒を注ぎ、カクテルをステアしている。夏夫は思い付きでマティーニを注文した。

 汐田がぼそっと言う。

「久しぶりにみんなが集まってみて思ったんだけど……」

 なに? と全員が聞く耳になった。

「このクラスって、十五年経ってもまるっきりあの頃と変わっていないんだな、と思って。ほら、後ろを見てもわかるけど、自然と仲のいい者同士が固まっているでしょう。おびったんや吉春たちは中学のときの決着をつけると言ってまた馬跳びを始めているし、町子たちのグループは相変わらず煙をくゆらせて語り合っているし、真宮さんはやっぱり一次会で帰っちゃったし」

 真宮さん、と聞いて夏夫は浅黒い顔の中にいつも控え目な微笑を湛え、ぽつねんと教室の隅に佇んでいたどちらかと言えば独りでいることの方が多かった女子生徒の姿を思い出した。

「ああ、真宮さんか。昔からおとなしい子だったからな……」

 夏夫がそう言うと、汐田は首を横に振り、「それがねえ、違うの」と妙な間を取りながら小声で囁いた。

「私、真宮さんと同じ会社に勤めていたことがあるからわかるんだけど、本当は彼女、とっても明るい人なんだ。もともと仕事ができることで評判も良かったんだけど、販売戦略部のリーダーを任せられてからは、ぐいぐいとみんなを引っ張っていた。たくさん話もするし、面倒見がいいから後輩にも好かれてる。それなのに、今日は別人みたいに静かだったでしょう?」

 すると岡崎がカウンターからゆっくりと顔を起こし「それ、わかる気がする」と突然言い出した。

「なんて言うのかな、これは私がそうなんだけどさ、大人になって人付き合いも覚えて、それなりにうまく人と合わせられるようになったと自分では思っていたんだけど、さっきのホテルで久しぶりにみんなの顔を見た途端、昔の自分に戻っちゃった感じがしたんだよね。周りから少し浮いてるようなさ。つまり、このメンバーで会っているときはこの自分、というような枠みたいなものを作って、その中に自分を押し込めてる感じがしたんだよね」

 夏夫は、岡崎の話を聞いているうちに、自分にも似たような「感じ」があったことを思い出した。中学三年のとき、夏夫はこのクラスのまとめ役として学級委員長を任されていた。卒業してからそんなことはすっかり忘れていたのだが、今日の一次会でクラスメートの懐かしい顔ぶれを目にしたら、不意にあの頃の役割意識が蘇ってきてしばらく落ち着かない気分になったのだ。やがてその気分は消えていったが、ああいう空気に縛られたような感覚って一体何なのだろう。やる気のない連中ばかりが揃った中で、周囲に担がれるようにしてなった学級委員長だったが、まさか十五年が過ぎてもなおその使命に拘束されていると感じる瞬間がやってくるとは、さすがに想像していなかったのだ。

「クラス会という場が、特別なのかなあ……」汐田がぼそっと言った。「何年経っても、集まってみればみんなが無意識にあの頃と同じポジションに着いている。何だか不思議な感じがしない?」

 夏夫を含め、カウンターに座る四人全員が、何となく同じ気分になって後ろを振り返った。ちょうど馬跳びの馬が崩れ、童心に返った連中が床のあちこちに倒れたまま笑い転げていた。

「きっとさ、いくら個人が変わっても、それぞれの関係が変わらなければずっと同じなんだよ」ぎゅっと強い瞬きをしながら岡崎が言った。「結局、あの頃のままがここでは落ち着くし、一番収まりがいいの。それが心地いいかどうかは別だけど、そういう空気も含めて丸ごと懐かしみたいから、みんなクラス会に参加しているんだよ」

 夏夫は、自分がなぜこのカウンター席に移動してきたのかを考えていた。岡崎や汐田の顔を見て、ここならほっと落ち着けると思ったからではなかったか。思えば合唱コンクールの練習や文化祭などの準備のたびに、まとまらないクラスを懸命にまとめてきた。その苦労を分かち合った仲間の中にはいつも岡崎と汐田の顔があった。二人の協力は、当時の自分にどれだけ心強い励ましと安心をもたらしたことだろう。自分と同じ経験を共有した仲間だけに通じるあの親密な空気を懐かしんでみたくなったから、自分は彼女らのいる席に移ってきたのではなかったか。

 そこまで考えたとき、夏夫はカウンター席で自分のすぐ隣に座っている、まだ一言も喋っていないショートボブの女のことが急に気になり始めた。実は、最初に顔を見たときからまったく名前が思い出せないでいたのだ。同級生ならすぐにわかるはずだと思い、記憶の中で卒業アルバムの写真や名簿を思い浮かべて照合してみたが、どこか抜け落ちているような気がして自信がない。直接本人に名前を訊ねれば済む話だが、そんなことをしたら岡崎や汐田がからかい半分に非難を浴びせてくるのがわかっているだけに癪だった。肩が触れるほど近くにいながらこうまで思い出せないのも心苦しいので、バーテンダーからマティーニを受け取ったとき、夏夫はさりげなく身を離して相手の全身を眺めることにした。脚を組み替えでもしたのだろう、もぞもぞと女の身体が小さく揺れてまた元の姿勢に戻るのが目に入った。ベージュ色の光沢のあるブラウスから形のいい尻をくるむ焦げ茶色のミニスカートへと視線を下ろしていくうちに、ふと薄手の黒いタイツに包まれた滑らかな腿に目がとまり、そのつるんと滑るようなタイツ越しの腿をどうしても見ていたくなり、ずっとこのまま見ていられたらどんなにいいだろうと思うようになり、気付いたときにはすでに逃れられなくなっていた。ぴっちりと太腿に張り付いたタイツのすべすべした手触り。それを想像しただけで夏夫は気が遠くなるほどの陶酔を感じてしまうというのに、目の前で組まれた脚は上下に重ねられ、そのため二つの腿は押し上げられ押し潰されて量感が増し、程よく張り詰めたその曲面の内部には、抑えきれないほどの性が充溢しているようにも見えるのだった。


真面目な人 2/3に続く

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