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夫婦十年水入らず

短編小説

◇◇◇


 おかまを見てきた。

 山形と宮城の県境、蔵王連峰にある火山湖のことである。名前の由来のように、丸くくり抜かれたお釜のような地形に水が湛えられていて、山頂にある展望台からは、見下ろすようにその全容を眺めることができた。直径およそ三百メートル。火山によって形成されたこの湖の水温は、湖面よりも湖底の方が温かいのだという。

「お米を入れたら、本当にご飯が炊けたりして」

 山頂のレストハウスでそんな冗談を言ってみたのだが、妻には鼻で笑われた。

「本気で炊けると思ってる?」

 そんな風に言われたら謝るしかない。温泉でもない湖が沸騰するくらいに熱くなったら、それは噴火の予兆であり、もはやのんびりと観光どころじゃない、と言いたいのだろう。妻は現実主義者なのだ。

 ぼくは、このお釜には蓋がないからやっぱり炊くのは無理だな、と次に言うつもりだったがやめることにした。結婚して十年、ぼくは妻に恭順でいることで、平穏な日々を享受する知恵を会得していたのである。

 妻は展望台のある方に顔を向けて言った。

「だって、あの湖の色を見たでしょう?」
「エメラルドグリーンだったね」
「炊き上がったらエメラルド色のご飯だよ、食べる気する?」

 妻の心配はそっちだったのかと思い、ぼくは一人で大笑いした。

 蔵王山頂まで車でアクセスができるのは便利だが、着いてみると十月のはじめとはいえ気温は予想以上に低く、二人ともコートとジャンパーを用意しておいて良かったと思った。お釜の見物を終えて、冷えた体を癒やすためにレストハウスの自販機で温かいコーヒーを買っていたら、ロビーに流れていた音楽に聞き覚えがあったのでしばらく耳をすました。

「この曲、姉貴がよく聴いていたから覚えている。ええと、竹内まりやの……」
「『グッドバイ・サマーブリーズ』」妻が紙のコーヒーカップを口にあてながら、静かに答えた。
「それだ、正解! 昔の歌なのによくわかったね」
「知らないけど、サビでそう歌っているから」

 妻によれば、竹内まりやを知ったのは『カムフラージュ』からだという。中山美穂と木村拓哉が主演の『眠れる森』というドラマにハマったのが中学生のときで、その主題歌を聴いたのが最初に知ったきっかけらしい。

「それで言ったら、ぼくは『シングル・アゲイン』だな。火曜サスペンス」

 夫婦の歳の差は、こういうところに出る。普段は気にならない。二人で一緒に暮らし、同じ時間と話題を共有できて、共通の未来を見つめていれば、年齢差を感じる機会は訪れない。ただ、二人が出会う以前の、過去のことが話題になったとき、ひと回りの年齢差を痛感する機会が格段に多くなるように思う。ぼくは四十七歳。妻は先月、三十五歳になった。

 結婚十年目の記念に旅行をしようと持ちかけたのはぼくだった。共稼ぎなので、長い休暇をもらうことには躊躇がある。製造業とサービス業ではうまく二人の休日を合わせることも難しい。でも、近場で一泊二日の短い旅行ならば可能だった。せっかくだから普段より贅沢なところに泊まりたい、と言ったのは妻だった。それを受けて、温泉に入れて美味しい料理が食べられる、落ち着いた雰囲気の高級旅館みたいなところがいいんじゃないか? というぼくの提案に、妻は「いいね」と言って、さっそくネットの旅行サイトを開いたのだった。妻は同じ県内にあるかみのやま温泉が気に入ったようで、ここなら山寺が近いし、蔵王のお釜も見に行ける、と一人で興奮を隠せないようだった。ぼくはその様子を見て、温泉旅館選びは妻に任せることにした。結婚式も結婚十年目の記念も、およそ結婚にまつわるものはすべて妻が主役であった方がいいし、その方がうまくいく。ぼくはそう思った。

 展望台でお釜を見たあと、レストハウスに流れてくる人は多い。ぼくらがコーヒーを買ったカップ自販機に、女性の三人連れがやって来て、ホットドリンクのメニューを選び始めた。白のキルティングジャケット、キャメルのチェスターコート、モスグリーンのポンチョをそれぞれ上に羽織った四十歳前後の観光客で、日頃から仲の良い同じ職場の同僚同士といった感じに見えた。ぼくと妻は自販機のそばにいたので、邪魔にならないように少し離れた。離れながら、ぼくは賑やかに会話しながらミルクなし、砂糖あり、ミルクあり、砂糖なし、ミルクあり、砂糖あり、増量、増量、もう一回増量、とボタンを押すたびに笑い合っている彼女たちを、何となく眺めていた。三人の中で一番背が低く、いじられキャラのように見受けられるモスグリーンのポンチョを着た女性の横顔が、ちらっと見えたとき、ぼくは驚いて思わず視線を外してしまった。

 咄嗟に自販機に背中を向ける。真後ろの壁に向かって体を捻っている不自然な姿勢のぼくに気付いて、妻が「どうしたの?」と声をかけてくる。

「いや、ストレッチ。久しぶりに高速道路を運転して腰が……」
「このあとの運転を代わろうか?」
「大丈夫。でも、そろそろ車に戻ろう」

 ぼくは、あくまでも自然にロビーの出口へ向かい、レストハウスを出る。後ろから付いてきている妻に、自分の行動を怪しまれていないか気になった。いや、何かしたわけではないし、何もしていない。ただ、妻と結婚する前に付き合っていた昔の恋人が、急に目の前に現れたので、一瞬、冷静さを失っただけなのだ。

 腰の心配をしてくれる妻に、大丈夫だと言ってハンドルを握り、今夜の宿泊先がある、かみのやま温泉へ向かう。山道を下りて蔵王エコーラインという名が付いているくねくねした道路をしばらく走る。お釜に行くときも通ったが、窓外から見える紅葉が美しい。

「宮本輝の『錦繍』っていう小説があるんだけど、その小説の書き出しが、蔵王のゴンドラリフトに乗ってドッコ沼へ向かうところから始まるんだ。この近くだからちょっと感慨深いよ。この紅葉と同じものを、あの主人公たちが見ていたのかと思うと、ちょっとグッとくるものがあるなあ」

 ぼくは車を運転しながら、いつもより饒舌だった。読書の趣味を持たない妻だが、ぼくが読んだ本の話には、取りあえず耳を傾けて関心を寄せてくれる。ありがたいことだと思う。

「どんな内容の小説?」
「うん、ひと言で言うと、大人のロマンス小説。大きな特長は、全編、二人の手紙のやり取りだけでその小説が成り立っていることなんだ。この主人公の二人というのが三十代の男女で、二人は以前……」

 とここまで言いかけて、ぼくは次の言葉を継げなくなった。どうしてこの話題を持ち出してしまったのだろう。『錦繍』に出てくる二人は、かつて深い仲にあって、現在は別れている二人なのだ。それが十年ぶりに偶然蔵王で再会し、手紙のやり取りが始まるのである。ぼくは、自分の身に起こったさっきのことが意識に上って、「あ……うーん、……ええと……」と言葉に詰まってしまった。

「えーっ、忘れたの?」
「ごめん、急に出てこなくなった。でも、本当に感動的で、いい小説なんだ」

 ぼくはさっきから、つかなくてもいい嘘をつき、かかなくてもいい冷や汗をかいているように思った。

 綺麗な紅葉に囲まれた道を走っていると、改めて旅行をしている気分が押し寄せてくる。黄色、山吹色、橙色、黄緑色。目に入る秋の色彩の中に、ことのほか真っ赤な色を見つけると、ぼくと妻は燃えさかる火を目にしたときのような興奮を覚えて、同時におおーっと歓声を上げた。

「早く温泉に入りたいな。山がちょっと寒かったから」
「君は寒いと不機嫌になる人だからね」
「ばれてた?」
「十年も一緒に暮らしていればわかるよ」

 妻は高級な宿に設えられている、露天の客室風呂がある部屋に泊まりたかったらしいが、今回は予約が遅かったためにすべてが塞がっていて、断念するしかなかったという。そのかわり、貸し切りの展望露天風呂があるプランを選択したようで、それが今から楽しみだと話す。

「日の落ちかかった夕暮れの町を、ちょっと高いところから見下ろしながら入る温泉って、風情があって素敵じゃない?」
「逆に言えば、町の人たちからぼくらが見られてるってことじゃないかそれ」
「遠いんだから平気。それに、裸のまま立ち上がるわけないでしょう。誰が得するの」

 それもそうだ、と思ったが、口に出しては言わなかった。ぼくは話題を切り替えた。

「そうだ、面白い話を思い出した。これ、前に誰かがエッセイで紹介していたことなんだけど、温泉に行って……」
「ちょっと待った」と妻がぼくの話を制止した。
「今度の話は、全部覚えているうえで私に話すんでしょうね」
「えっ、はいっ、それは大丈夫」
「なら、話してよし」
「はい……」

 さっきの失態があったので、ぼくは素直に従う。

 ぼくが思い出した話というのは、混浴と知らずに入っていた温泉で、運悪く異性と鉢合わせをしてパニックになったとき、小さなタオルしか持っていなかったら、果たして自分の裸のどこを隠すのが正解か、という内容だった。

「それ、正解があるの?」と妻が訊く。
「うん」
「タオルの大きさは」
「ハンドタオルほど」
「間に合わないよ」

 二人で声を出して笑った。

「ぼくは男だから迷わず股間を隠すけど、女性は隠すところが多いからなあ」
「正解は何て書いてあったの」
「顔。誰の裸なのかわかりさえしなければ、恥ずかしくはならないという理屈」

 妻が助手席でしばらく考え込む。

「私は嫌だな。見られたら損した気がするもの」
「まあね」
「私なら意地でも全部隠す。腕を使って胸を隠す。タオルを落とさないように股に挟んで屈む。もう片方の手でお尻の割れ目をしっかりと押さえたら、顔を伏せてそのまま忍者のようにすり足で立ち去る。見られてたまるかい!」

 ぼくは気迫のある妻を久しぶりに見た気がした。

 そんな話をしていたら、車はかみのやま温泉に着き、今夜宿泊する旅館の凛とした佇まいが、高台の方に見えてきた。

◇◇

 古いけれど綺麗な旅館だった。純和風の趣の中に、使い勝手のいい現代的な装備が調和していた。女性のリピーターが多い人気の宿だと妻から聞いていたが、その評価に嘘はないと感じた。

 ぼくは、車の誘導から始まって、来客時のスムーズな応対、好感のもてる挨拶、所作の美しいスタッフによる丁寧な接客など、そのすべてにいちいち感動してしまい、最初に案内されたロビーの椅子に座りながら、妻に何度も「ここいいね」と耳打ちをするほどこの宿を気に入ってしまった。

 妻は、好きな色柄の浴衣を選べる女性だけのサービスがあることを前もって知っていたらしく、チェックインを終えたあと、仲居さんに勧められると、目を輝かせた。

「この青い浴衣、素敵。この浅葱色もすごく好みだな。見て、お花がここにも、わっ、可愛い」

 妻はしばらく迷っていたが、薄紫の桔梗の花があしらわれた、黄色の浴衣を選んだ。

 夕食の時間も貸し切り風呂の時間もまだ早かったので、ぼくと妻は館内を探索することにした。五階建てで、二階は食事のスペースと貸し切り風呂。三階と四階には客室があてられていた。この旅館では、可愛らしい小動物をモチーフにした置物や調度品、装飾品をあちこちで見つけることができた。行燈風のフロアライトには小鳥の透かし模様が入っていた。火鉢の中の五徳は、よく見ると三羽の兎で構成された意匠になっていた。ついつい歩き回って見映えのいい写真を撮りたくなる。こういうところが、リピート客に好まれる秘密なのだろう。

 二階にある板張りのテラスで寛いだあと、ロビーに戻る。フロントというよりは帳場という呼び方が似つかわしい場所に、たった今到着したらしい三人連れの女性客が、チェックインの手続きを始めようとしていた。こちらからは後ろ姿だが、アウターのそれぞれの配色が、白、キャメル、モスグリーンという取り合わせには見覚えがあった。蔵王のレストハウスで見かけたあの女性たちに間違いなかった。

 ロビーにある土産物売り場を見たいと言っていた妻が、先を歩いて帳場の方に近付こうとしていたので、ぼくは慌てて引き留めた。

「すまない、お腹がゆるくなった、部屋に戻ってトイレ」

 ぼくは妻に向かって拝むように手を合わせると、くるりと背中を向けて、運良く近くにあったエレベーターのボタンに飛び付いた。ぼくが本当に駆け込みたかったのは、トイレではなく、このエレベーターだった。

 何かしたわけではない。何かあったわけでもない。彼女は、妻の前にぼくが付き合っていた女性だというだけだ。浮気とか不倫とか、そういった物騒な話では全然ない。結婚してから一度だって会ったことはない。けれども、蔵王で彼女の懐かしい横顔を目にしたとき、どうしてなのか、ぼくはきちんと向き合うことができなかった。考えるよりも先に、目の前にいる対象から遠ざかるように体が反応してしまった。

 若い頃にまで遡れば、ぼくが交際してきた女性は他にも何人かいる。けれども、顔を見ただけで焦燥感に襲われ、未整理の心がかき混ぜられたような気持ちになるのは、前の彼女だけだった。ぼくは、今のこんがらがったような感情を、整理する必要があった。そのためには、なるべく早く、この正体不明の焦燥感を言語化しなければならなかった。

 旅館の夕食は豪華なものだった。結婚十年目の記念旅行ということもあり、料理は奮発したものにしようと妻に宣言しておいたが、妻は遠慮なく、米沢牛のコースを選んだようだった。二階の食事スペースは、障子戸風の衝立で間仕切りがしてあり、他の宿泊客と顔を合わせる心配はなかった。夫婦差し向かいのテーブルに運ばれてくる、一品一品、少量ずつ、丁寧に作られた美味しい和食が、彩りの美しい器の中で輝いているように見えた。特に、米沢牛のしゃぶしゃぶには、魂を吸い取られるほどの美味しさがあった。ぼくと妻は、口に運ぶたびに気絶するふりをした。笑いが止まらなかった。

 少しの休憩を挟んで、貸し切り風呂がある二階のテラスへ向かう。妻は美味しい料理と地元産のワインを堪能したこともあって気分がいいのか、ずっとしゃべり通しだった。

「私たちに給仕してくれたあの若い男の子、私たちをどんな関係だと思ったかな」
「普通に夫婦だろうね。いくらなんでも親子は無理がある」
「ケロリンって今では薬よりも黄色い桶で有名だよね」
「……かもね。でもここの温泉にあの桶は置いてないと思うぞ。コンセプト的に」
「ワインのお代わりしたかったな。ロゼ美味しかったよね」
「君、やっぱり酔ってるよ。甚だしく話題が飛んでる」

 展望露天風呂の名にふさわしく、背の低い外塀越しに、温泉街の夜景を見渡すことができた。空の高いところに小さな月が丸く浮かんでいて、いい具合に立ちのぼった湯煙が、月明かりに紗をかけるようにたなびいては、消えていった。

 先に、木の香りのする湯船に浸かっていると、体を洗い終えた妻が、ゆらりとやって来た。

「お邪魔します」

 普段言わない台詞を言ってお湯に入ってくるので、どういうつもりだろうと思ったら可笑しくなった。

「気持ちいい。最高よね」
「贅沢って、こういうことだよな」

 貸し切り風呂は、暗褐色の木材を使って造られた純和風の内装で、暗がりを照らすわずかな間接照明だけで、しっとりとした夜の気配を演出していた。

 この旅行では、お互いに仕事の話はやめようと決めていたので、出てくる話題はお互いの実家のこと、知人の噂話、二人の昔の思い出話、食べ物の話など、そんなものばかりだった。けれども、話すことが途切れることはなかった。考えてみれば、話が合うから結婚したとも言える。ぼくは読んだ本の話を持ち出せばネタに困ることはないし、妻は本を読まないかわりに無類のドラマ好きで、ドラマのワンクールを、ダイジェストで説明する特技があるほどなのだ。

「私、二時間サスペンスを観ていて思うんだけど」

 浴槽の縁に両手を掛けて、平泳ぎの見事な蹴りを練習していた妻が、顔を上げて言った。

 このときぼくは、浴場に用意されているガーデンチェアに裸で腰掛けて、見るともなしに夜景を眺めて涼んでいた。

「たとえば事件が解決するじゃない? そのあと、主人公を含めた仲間うちの何人かが普段の場所に戻って、最後にちょっとしたコントみたいなのを繰り広げて、必ずドタバタで終わるじゃない。あれ、何でなの?」
「終わりの曲が聞こえてきて、スタッフロールが下に出てくるあたりから始まる、最後のあれか」
「そうそう。背広の内ポケットからホステスさんの名刺が出てきてこれはどういうことなの! みたいな」
「あるね。どうして冷蔵庫のプリンを勝手に食べたの! とかだろ」
「それで、小競り合いが始まって、いいところでストップモーション。毎回こういう感じで終わるのよね」
「事件が片付いて、平和な日常に戻ったということの象徴だろうな。そのことを観ている人に知らせるため、毎回コミカルなドタバタシーンを入れてるんだと思う」
「なるほど」
「昔観ていた水戸黄門も、最後に愛されキャラの八兵衛をみんなでからかって終わっていたよね」
「『御隠居~、勘弁して下さいよ~!』」
「そうそう。緊張からの緩和。これって伝統的な手法なんじゃないかな。君はそういうの嫌い?」
「全然嫌いじゃないの。むしろ好き。最後にくすっと笑って終わることができるんだもの」

 妻は湯から出て、そのまま街を展望できる外塀の内側に立った。ぼくはその後ろ姿を、ガーデンチェアに座りながら見ていた。

 本当は夕暮れの時間帯に、貸し切り風呂を予約していたはずだった。ぼくがお腹の不調を訴えたから、妻が夜の時間に変更したのだ。ぼくのつまらない嘘によって、今回の旅で妻が楽しみにしていたことのひとつを奪ってしまった。ぼくは心の中で妻に詫びた。

 妻は夜空に向かって胸を反らせていた。裸の妻の後ろ姿を、こんな風にじっくりと眺めたのは久しぶりだった。新婚の頃と比べたら、腰回りに余計な肉が付いてしまったことはわかる。本人はお尻が平べったくなったのを気にしているようだが、ぼくにはふんわりと丸くて、十分魅力的に見える。女性の体はいいものだな、という思念が、湯気のようにぼくの顔の周りを取り巻いていった。誰からもこの体を奪われたくないと思った。

「そんなところにずっと立っていると、外の誰かから覗かれてしまうんじゃないか」

 ぼくの声に、月影を浴びていた妻が振り返る。

「塀が目隠しになっているから向こうからは見えないの。それに夜だし」

 妻は、ガーデンチェアに裸で座るぼくを注視してから言った。

「フフ、あなたこそ、そんなところにタオルを置いて。覗かれる心配でもしていたの?」
「何でだろう、ここに置いておくと安心するみたいなんだ」
「ハンドタオルの方でもよかった?」
「ぼくなら、それでも十分間に合うね」

 妻はぼくの元にゆっくりと近付いてくると、ばかねえ、と言った。

◇◇

 テラスから出て、部屋に戻る前に二階のトイレに立ち寄る。妻よりも先に済ませたぼくは、待っている間、通路に設置してあったセルフサービスの麦茶を飲んだ。紙コップが置いてあった台のそばに、この旅館のマスコットである兎の置物が飾られてあった。よく見ると、兎は正座をして、右前足を顔の横にかざしている。招き猫のつもりなのだろう。ご丁寧に、唐草模様の入った四角形のコースターが、座布団代わりに敷いてあった。

「私も麦茶を飲みたい」と妻もやって来た。

 ぼくは招き兎を手に取る。どのくらいの重さがあるのか確かめてみたかったのだ。後ろでエレベーターが開き、スリッパの音がいくつか聞こえた。妻は麦茶を口にしながら、「あの青い浴衣、私も狙っていたのよね」と呟く。ぼくは、妻が見つめている方向に目をやり、思わず「やばっ」と声を出した。今し方、エレベーターを降りてきたのは、例の三人組の女性客だったからだ。全員浴衣姿だが、雰囲気ですぐにわかる。青い浴衣を着た女性の横顔が、ぼくのすぐそばを通過していった。間違いなく、蔵王で見た元カノだった。

 ちょっと、と妻が言う。

「あなた、何やっているの」

 ぼくは顔の上に、唐草模様のコースターを、ぴたりと押し当てていた。

「うん、あの……、これ、ハンドタオルよりも、小さいよね?」

◇◇

 部屋に戻り、ぼくは妻の前で正座をさせられていた。ベッドが置かれている寝室スペースの床の上である。いや、ぼくの方から、自然と正座をしたい気持ちになったのだ。

 おかしいと思ったんだよね。

 そう言って、ベッドに腰掛けてため息をつく妻は、ぼくの方を向いてはいなかった。

 ぼくは今日あったことを妻に洗いざらい話した。蔵王のレストハウスで前に付き合っていた彼女を見かけたことから始まり、高速道路の運転で腰が痛いと言ったがあれは嘘だったこと、宮本輝の『錦繍』のあらすじは知っていたけど言えなかったこと、その元カノが、偶然、同じ旅館に宿泊することになって驚いたこと、あのお腹の不調は元カノから隠れるための嘘だったこと。

 最初の方は、ふんふんと聞いていた妻だったが、お腹のことが嘘だと告白したときは、さすがに表情が険しくなった。

「元カノとは何もない。これまで一度も会っていない。……わかりました。私はあなたの言葉を信じます」

 妻は、ひと言ひと言、念を押すように言った。

「だけど、あなたはずっとコソコソと隠れるようなことをやっていますよね」
「……はい」ぼくは、項垂れながら返事をする。

「蔵王にいたときから、元カノのあの人のことを、この旅館に着いてからも、ずっと意識してきた。そういうことですよね」
「……いや、それは」
「いいんです。正直におっしゃって下さい。どうして隠れる必要があるのでしょうね。ばつが悪くなるようなことをあの人にしてきたということなのですか? 話して下さい。大丈夫です。私はすべてを受け止める覚悟でいますから」

 妻の物静かで丁寧な言い方は、ぼくの心に重く入り込んでくるものだった。同時に、これは夫婦だからこそわかるのだが、恐ろしいほどの迫力が伝わる言い方なのだった。

「ぼくも、最初は言葉にすることが難しかった。それでも、この感情というか、このもやもやの正体を自分でも知りたいと思った。だから、あのあと、じっくりと考えてみたんだ」

 これまで何人かの女性と付き合ってきたが、それらの恋愛は、いつもぼくが振られることで終わっていた。けれども、あの元カノは、ぼくの方から別れを切り出した唯一の女性なのだった。世間的には結婚を考えるような年齢にお互いが差し掛かっていた。ぼくも、一度は考えたと思う。しかし、どうしてもぼくには二人の将来が見えてこなかった。普段の会話が、楽しそうにしているように見えて、どこか空疎だった。お互いがそうだったのかも知れない。ぼくは彼女の本心がつかめなかった。彼女の方もぼくの本心がわからなかったのではないだろうか。一緒にいるのが苦痛になってきて、ぼくから別れて欲しいと告げた。彼女とはそれっきりになった。

「ぼくは、振られることには慣れているけど、振るのには慣れていない。そういう人っておそらく、自分が振った人に対して、贖罪を求められているような気持ちを感じてしまうのではないかな。最後まで本心がわからないままで終わった人なので、ずっと気に掛かったままだということもある……以上がぼくの考える、もやもやとコソコソの正体です」

「卑屈になることないよ」妻は、正座をしているぼくの方に顔を向けてそう言った。
「うん。すまなかった」

 妻は、ぼくの正面に回り、両手でぼくの両肩を力強くつかむとこう言った。

「じゃあ、今から行ってきて」
「えっ」
「二階にあるバーに入っていくのを見たから、多分、今も彼女たちはそこにいるんじゃないかな」
「ええっ」
「きちんと元カノに挨拶してきなさいね。そして憑き物を落としてきなさい。あなたはそれをしないと、またいつまでも考えてしまう人だから。私はそれが嫌」

 ぼくは、妻の覚悟を決めたような目を、初めて見た気がして焦る。

「もういいんだ。ぼくは君にすべて話すことができたから、すっきりした。元カノになんて、もう会わなくたっていい」

 妻は、つかんでいたぼくの肩をぽんと突き放した。ぼくは思わずよろける。

「もしかして、私に気を遣ってる?」
「…………」
「どれだけ一緒に暮らしてきたと思ってるの」
「……しかし」
「なめないでくれますか」
「…………」
「私との十年をなめんな!」

 さっさと行ってこい、と妻に言われて、ぼくは二階まで降りてきた。気は進まないが、早く決着を付けて部屋に戻らなければならない。

 夕食を取ったダイニングルームの隣に、おしゃれなバーの入り口があった。ぼくはその扉を開いた。浴衣姿の三人組は、すぐに見つかった。ぼくは青い浴衣の元カノにゆっくりと近付き、「しばらくぶりだね」と声をかけた。

◇◇

 ぼくが部屋に戻ると、妻は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、グラスにあけて飲んでいた。大きな窓のそばにある椅子に膝を抱いて座り、暗い窓から外の様子を眺めているようだった。ぼくは少し離れたところに立って、妻のことを見ていた。ガラスに映った妻と目が合い、ぼくは「すごく早かっただろ」と言った。

「見つからなかったの?」
「いや、バーにいた。声もかけた」

 妻は一度鼻をすする音を立てて、それからビールを一口飲んだ。「何て言ってた?」

「それがびっくり。別人だった。正面から見たら全然違う人だった。横顔だけ似ている人って、本当にいるんだな」

 妻はもう一度鼻をすする音を立ててから、「何それ」と言ってけらけらと笑い出した。

「しばらくぶりだね、なんて声をかけたのはいいけど、ぼくも、言われた彼女の方も、お互いにきょとんとしてしまった。知らない人過ぎて」

 妻は目頭と目尻を指で拭いながら笑いが止まらないようだった。ぼくは続けて言った。

「だから、間違えました、と言ってそのまま回れ右をしてバーを出た。端で見ている人がいたら、おじさんが熟女をナンパして、秒殺されたように見えたと思う」

 妻は声を出して笑いながら、盛大にティッシュで鼻をかんだ。

「なのでぼくは、こうやって、ここに早く帰ってくることができました。ここに帰ってきたくて、ここが一番いいから、帰ってきました」

 妻は、ティッシュで目頭を押さえ、掠れた声で、だめ、もう我慢できない、泣く、私泣くよ、と言って、うえぇぇぇんと声を上げた。

 ぼくは、妻が本気で泣くとき、本当に「うえぇぇぇん」と発声することを思い出した。急いで妻が座っている椅子に駆け寄り、ぼくは妻の顔が自分の胸に当たるように抱き寄せた。温かく湿った感触が、胸の中心から広がった。

「十年の記念だったのに、水入らずの旅行に水を差された気分になった」
「わるかった」
「でも帰ってきてくれた」
「うん、帰ってきた」

 妻はもう一度盛大に鼻をかむと、自分が湿らせたぼくの胸の部分に、拳で何発かパンチを入れた。

◇◇

 冷蔵庫からビールを取り出して、二つのグラスに注ぎ分ける。ぼくたちは無言で乾杯した。明日は山寺に行くことが決まっている。妻は県内にある松尾芭蕉の足跡を辿る野望を持っているので、ことのほか、明日の観光を楽しみにしていた。ぼくは山形の名物、玉こんにゃくのことを考えていた。ただのこんにゃくなのに、どうして旅先で見つけると食べたくなるのか不思議でならない。醤油の香りに秘密があるのだろうか。テーブルの下でコツンと足を蹴られたことに気付く。顔を上げると、ぼくの顔をしばらく見つめていた妻が、まだ私の知らない過去があなたにあったんだね、と言ってにやりと笑った。

「そうだな、じゃあ、次は君の番だ。聞かせてもらおうか」
「嫌だ。私は何もないから」
「それはずるい」
「ずるくない」

 言い合いをしながら、ぼくは妻の脇腹にある余計な肉の部分を指でつついて攻撃し、妻はぼくの弱点である喉をくすぐろうとする。椅子とテーブルが動いてガタンと騒々しい音を立て、グラスが倒れてビールがこぼれる。これじゃあまるで二時間サスペンスのエンディングじゃないか、とぼくは思ったが、いつまでたってもぼくたちの小競り合いに、ストップモーションはかからなかった。

(了)


四百字詰原稿用紙約三十三枚 (11,266字)


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〈作品内のロケ地〉

・蔵王連峰 お釜(五色沼・ごしきぬま)/ 宮城県

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〈今回登場した図書・音楽リスト〉

・『錦繍』宮本輝 (新潮社・新潮文庫)

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・『エクスプレッションズ』竹内まりや
 3枚組CD

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〈かみのやま温泉 『はたごの心 橋本屋』〉

http://www.hasimotoya.com/

本作を執筆するにあたり、登場する旅館のモデルにさせて頂いたのが、かみのやま温泉「はたごの心 橋本屋」です。

私は実際に宿泊したことがあり、最高のおもてなしを体験させて頂いたとても素敵な温泉旅館です。
館内の至る所に、可愛らしいうさぎたち。また訪れたい場所です。

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