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眠り流しのその後

短編小説

◇◇◇


 私が子供のときの話である。

 私が暮らしていた地域は山の麓にあった。なだらかな傾斜面に集落が点在し、その斜面はやがて田畑で構成される広大な平野に繋がっていくという地形である。その集落のうちのひとつが、私が暮らしている村だった。裾野に数十戸の家が広がるように建ち並び、その中心を、山の奥へと入っていける一本のゆるやかな坂道が貫いていた。私の家は、その坂道のもっとも下端の村はずれにあった。私の家から山の方に目を向ければ、同じ集落にある家々のほとんどを、見上げるような形で目に収めることができた。一本道の下端にあるのが私の家なら、山に一番近い上端には何があるかというとこの村のお寺である。そしてそのお寺よりさらに道を上ったところに、この村の共同墓地があった。つまり、墓地はこの村でもっとも見晴らしのいい場所にあり、言うなれば、この村はその墓地に見下ろされ、先祖たちに守られているわけだった。

 その年の夏、小学六年生だった私は、子供会が主催する真夏の行事の計画を立てていた。それは「眠り流し」と呼ばれる伝統行事だった。本来は、七夕を由来とする風習で、紙を人の形に切った形代かたしろや、短冊を下げた笹を川に流すという、禊ぎやお祓いの意味を持つ行事であった。けれども、私が六年生だった頃はそのような文化もすっかり形骸化し、村の一年生から六年生までの子供たちが公民館に集まって、会食をしたり、おしゃべりをしたり、ゲームに興じたりして懇親を深めるというだけの行事になっていた。

 八月に入ってすぐ、子供会の班長を任されていた私は、眠り流しの準備のために、同じ集落に住む六年生と五年生に集合をかけて、自分の家に呼び寄せた。といっても、集まるのは私を入れて三人である。元々、一学年に一クラスしかない小学校である。さらにそこから集落ごとに班分けすると、世帯数が四十にも満たない私のところは、六年生が二人、五年生が一人、四年生が三人、三年生がいなくて、二年生と一年生が二人ずつの、計十人だけなのだった。

 眠り流しの当日の計画は、夏休みの前に、十人全員の意見を聞いてまとめていた。後は細部を詰めて具体的に仕上げていくだけだった。

 砂糖を入れて甘くした麦茶を三人で飲みながら、私は涼しい風が入る座敷の、大きな座卓の上に計画書を広げた。

「後で、この三人で全員の分のお菓子と花火の買い出しに町へ行くつもりだけど、その前にまず、肝試しの準備をしておこうと思うんだ」

 そう言って、私は角を挟んですぐそばに座る亜季子と、その隣で座卓に身を乗り出している康介に、話を切り出した。

「当日は辺りも暗いし、一年生と二年生がいるから、亜季子には引率も兼ねて一緒にコースを回ってもらいたい」

 亜季子は私と同学年で、副班長である。

「いいよ。どこをコースにする?」
「それを、これから決めようと思う」
「墓場! 墓場がいい!」

 五年生の康介がそう叫びながら、興奮したように立ち上がった。

「康介、おとなしく座って」

 亜季子に窘められて、康介はふらふらと揺れながら元の場所に腰を下ろした。

「そうだな、お寺の敷地をぐるっと回ったら、最終的には康介の言うようにお墓だろうな。……でも、夜の墓場はかなり怖いぞ。一年生は多分、行けないな。無理だと思う」
「作兵衛さんのところに井戸があるよね? あそこをコースに入れようよ」
「あの涸れ井戸か。よし、亜季子の意見、採用」

 班長、班長、班長! と康介が勢いよく挙手をした。

「はい、康介」
「消防のポンプ小屋のところの、ビリビリに破れたビニールハウス! あそこ、夜に通りかかると、かさこそと物音が聞こえて、人影が立っているように見えるんでーす!」
「何それ、やだぁ」

 怯えたように言う亜季子の反応を見て、私は即決した。

「よし、康介、採用」

 三人で相談の結果、コースは村の中心にある公民館を出発し、一本道を寺に向かってゆるゆると上り、途中で大きなクスノキと庚申塚があるところから横道に入って涸れ井戸のそばを通り、そこから迂回するようにポンプ小屋へ進んだ後、再び一本道に戻って竹藪のあるお寺の敷地を一周。さらに一本道を上って杉の木が並んでいる墓地の手前に着いたら、そこに用意したキャラメルを取って公民館に戻ってくる、という風に決まった。

 やはり、夜の墓場は怖すぎるということで、墓地の入り口の石段が見えてくる、ちょうど杉並木が途切れた場所に、キャラメルを置く台を設置することにした。

「俺と康介は、コースの持ち場で待機して、驚かす役目な」

 康介は自分も肝試しのコースを回れるものだと思っていたらしく、私の言葉にがっかりした様子だったが、「驚かす役の方がよっぽど怖いぞ、暗闇の中でじっとしていなきゃならないんだから」と言ったら、なぜか納得し、急に乗り気になったようだった。

 それから私たちは、怖い雰囲気を演出するために、お化けの絵を画用紙に描いて肝試しのコースの要所要所に掲示することを考えた。このアイディアを出したのは私である。私はイラストが得意だった。そして、幽霊や妖怪が大好きだった。ジャガーバックスの『日本妖怪図鑑』や、入門百科シリーズの『妖怪なんでも入門』を参考に、凄まじい形相で生首に齧り付いている白い着物姿の亡者や、目がひとつで長い舌を出しているから傘小僧、蛇の体をした濡女ぬれおんななど、何体かインパクトのある妖怪を選んで下絵を描き、亜季子には色づけを、康介には迫力が付くように血しぶきを手伝ってもらい、あっという間に三枚の絵を仕上げた。

「わたし、気になることがあるんだけど」

 亜季子が筆を洗いながら、突然思い出したように言った。

「墓地のすぐ先で、今、工事をしているでしょう? 土を削って、ダンプカーで運んで」

 私は頷いた。自分の家から山の方に目を向けると、ちょうど墓地の裏手にある山の木が伐採されて、山肌の一部が大きく抉り取られ、赤土が露出しているのが見えるのだ。五月くらいから工事は始まり、これまでかなりの量の土砂が搬出されていた。ひと頃は、村の一本道を頻繁に大型車両が往来し、黒いアスファルトの舗装道路が、赤土色に染まったようになることがあった。今も、抉り取られた赤土の表面に坂を造成し、そこを一台の油圧ショベルが留まり、まるで張り付くようにして土を削り取って作業している様子を窺うことができた。

「まさか、お墓のそばに近付けなくなっているってことはないよね?」

 亜季子の疑問に私は腕を組み、考え込むような姿勢で唸った。

「うーん、大丈夫だと思う。だって、もうじきお盆のシーズンだし、工事でお墓参りができないってことはないよ。それに、普段からその先の山に入る人だっているだろうし……」
「この間、うちの母ちゃんが墓掃除をしてきたって言ってたよ。だから、墓には行ける!」

 退屈になったのか、畳の上で三点倒立を始めていた康介が、真っ赤になった逆さの顔でそう発言した。亜季子はクスッと笑ってから、私に向かって頷いてみせた。私も頷き返した。

「よし、花火とお菓子の買い出しに行こうか」


ねむりながし

期日 8月4日
場所 ××公民館
集合時間 3時半

4:00 開始
 1.スイカ割り
 2.おやつ争奪ゲーム大会
5:00~
 3.笹飾りづくり
 4.自由時間
 (六年生と五年生は調理・手伝い)
6:00~
 5.夕食
 (カレーライス・かき氷)
7:00~
 6.班長の怖い話
 7.きもだめし
8:00~
 9.花火
 10. ねむりながし
8:30 終了


 当日は、ほぼ計画通りにうまく進んだ。

 スイカ割りに使ったスイカは、転がったり叩かれたりして、土や砂まみれになって食べることができなくなったが、開始のときに顔を出してくれた公民館長さんの好意で、冷えたスイカを差し入れてもらい食べることができた。夕食のカレーも、公民館に備え付けられた調理台のガスは、子供たちだけでは使用禁止だったので、亜季子のお母さんに来てもらうことになり、さらには調理の手助けまでしてもらえたのだった。おかげで、いつも以上に美味しいカレーを作ることができたように思う。

 主催が子供たちで、学校からも予算が出る行事ではあるけれども、大人の手を借りずにできることとなるとやはり限られている。最後に公民館の広場で楽しんだ花火も、保護者の付き添いがなければ火を扱うことはできない決まりなので、これも亜季子のお母さんの協力がなければ実現できなかった。私たち子供だけで実行できたのは、ゲーム大会と笹飾りと肝試しくらいなものだったのだ。

 肝試しは好評だった。

 夕食の後片付けを終えて、私たちは公民館の広間の中央に車座を作った。肝試しの前に、ちょっとした怪談をすることでムードを盛り上げようというわけである。実は怪談も、私の得意なことのひとつだった。室内の明かりをわざと消して雰囲気を作ると、小さい子たちはそれだけでも悲鳴をあげた。手に持った懐中電灯で下から自分の顔を照らしながら、一年生や二年生の子たちがあまり怖がらないように、滑稽な表情を作って笑いを取ってから怖い話を始めた。内容は、その場で思い付いた作り話である。作兵衛さんの井戸が涸れてしまったのは、誰かが0点を取ったテストの紙を井戸に投げ捨てたその祟りで、夕方になるとそこから蝙蝠が飛び出してくるから絶対に中を覗くな、とか、昔ポンプ小屋の裏で火遊びをしていた子供がいて、その子はその後、本当に火事に遭って亡くなり、その亡くなったのと同じ時刻に通りかかるとビニールハウスの方からその子の声で「火の用心」と言うのが聞こえる、とか、夜、墓地の空に入道雲が出ていたら、そこに目がついているときがあるから気を付けろ、とか。

 笑って聞いてくれる子もいたが、泣き出す子もいて、私は少しやり過ぎたと反省した。

 外はすっかり夜だった。肝試しは二班に分けて回ることになった。亜季子に、十分経ったら最初の班から出発していい、と伝えて、私と康介は景品のキャラメルとそれを置く木製の台、そして、三枚のお化けの絵を抱えて、先にコースに向かった。絵は掲示しやすいように、段ボールの板に貼り付けてパネルにしていたので、それをまず、井戸のそばの目立つところに置き、次にポンプ小屋のそばのビニールハウスに紐でぶら下げた。一本道を上って寺を過ぎ、墓場近くの杉並木が始まる場所に到着すると、私は康介に、木の陰に隠れているように指示をして、生首に齧り付いている亡者の絵を、近くの幹にぶら下げておくように頼んだ。私はさらに先へ進んで、ちょうど杉並木が途切れて墓地の入り口の石段が見える辺りの道端に、台とキャラメルを設置した。そして、同じように杉の木の陰に潜み、最初の班がやって来るのを待った。

「康介、そっちは大丈夫か?」

 私は離れている康介に声をかけた。お互いに隠れているので姿は見えない。

「大丈夫ーっ!」

 康介から返事が聞こえて、私は安心した。空には雲がなく、星が瞬いていた。墓場の方に向かって、生暖かい風が吹いていくのが、何とも言えず気持ちが悪かった。辺りは蛙の鳴き声に満ちていた。ひっそりと静まり返っているよりは、うるさいくらいの方がここにいる分にはありがたかった。星明かりと夜目が利くようになったおかげで、一本道のざらついたアスファルトの上に、赤土が付いたキャタピラーの痕跡が、筋になって墓地の先の方から延びてきているのがうっすらと浮かんで見えた。墓場は真っ暗に寝静まっていた。

 ほー、ほー。

 梟の声は、康介の鳴き真似である。事前に打ち合わせをした通り、肝試しの一班が来たことを教えてくれたのだ。四年生の男子三人と、二年生の男の子一人。結局、班分けは綺麗に男女で分かれてしまったようだ。

 私は木の陰から、彼らが近付いてきたタイミングで景品の置かれた台を懐中電灯で照らした。

「ご苦労様です……一個ずつ、お持ち帰り下さい……」

 班長だ! 班長の声! と彼らは口々に言いながら景品をつかむと、バタバタと騒がしく今来た道を引き返していった。少し先で康介が追い討ちをかけるように、いひひひひ、と薄気味悪い笑い声で驚かすと、わーっと言いながらさらに彼らの駆け足は加速したようだった。

 亜季子が引率する二班は、みんなで歌を歌いながらやって来た。これは後で聞いた話だが、一番怖がっていた一年生の女の子が、どうしても井戸やポンプ小屋の方には行きたくないというので、真っ直ぐに一本道を上って来たのだという。それでも終わってみれば、肝試しが楽しかったとその女の子が言ってくれたので、私はほっとしたのだった。

 亜季子たち二班の姿が見えなくなると、私は急いで木の陰から飛び出した。さっきから吹いている生暖かい風がどうにも息苦しくて、一刻も早く、ここから立ち去りたかったのだ。キャラメルを置いていた台を抱え上げて顔を上げると、康介も木の陰から出てきている。

「康介、公民館に戻るぞ!」
「ほー、ほー」

 私たちは、いつも以上に早足だった。

 花火の後、笹飾りを川に流して、眠り流しはお開きとなった。私は公民館長さんのお宅に立ち寄り、公民館の鍵を返却した。スイカの差し入れのお礼を丁寧に述べて辞去すると、私は一気に緊張から解放されるのを感じた。班長という立場だったから仕方ないが、本当はこんな風にみんなをまとめて何かをやるのは、自分の性分に合わないと感じていた。一人だったらできなかった。亜季子と康介に助けてもらえたからできたのだ。ただ、自分でも今回の眠り流しは成功だったと思った。肝試しも、みんなが楽しかったと言ってくれた。大人の手を借りずに、自分たちだけで考えて達成したイベントだった。私は安堵とともに少しだけ誇らしい思いに包まれた。

 このとき、私はまだ気付いていなかった。本来ならやらなければならなかったことを、私はやっていなかった。最後の最後に、私は見落としてしまったのだ。

 この後に起こったことを、駆け足で話していこうと思う。

 眠り流しの翌日から、雨が降り始めた。雨が降ったために、小学生だけが公民館の広場に集まって行う朝のラジオ体操も中止になった。雨はそれからも降り続き、ラジオ体操も中止の日が続いた。もしも、一度でもラジオ体操で集まる機会があったら、そのとき、誰かが私に教えてくれたかも知れない。あるいは、私も思い出したかも知れない。けれども私は忘れていた。あの晩、肝試しが終わった後、私はお化け絵の回収を失念していたのだ。

 雨は四日間ほど降り続いた。五日目の朝も雨で、私はラジオ体操を見送った。その後、ようやく晴れ間が訪れた。間もなくして、村の一本道を消防車が上っていった。何台も上っていった。救急車がやって来て、パトカーもやって来て、同じように村の一本道を上っていった。私は自分の家から、村の中で何が起こっているのか見上げながら目を凝らした。緊急車両の赤く点滅するランプが、墓地の辺りに溜まっているのが見えた。あの辺りで何かが起きたのだろうか。私の父が、様子を見てくると言って軽トラックで村の中に向かった。私は亜季子に電話をした。亜季子によれば、墓地の裏で土砂崩れがあったとのことだった。

 私は、削り取って壁のようになっていた赤土と、作業現場に停めたままここ数日間は動いていなかった油圧ショベルを思い出していた。毎朝、山の方を見上げて空模様を確かめるたびに、赤土の山肌が視界に入っていたからだ。しばらくして、救急車がサイレンを鳴らして一本道を下りて走り去った。様子を見てきた父の話によれば、崩落した土砂に、油圧ショベルこと運転していた作業員が巻き込まれ、重体だということだった。

 さらに駆け足で話す。

 作業員が亡くなったという話が村に伝わったその翌日のことだった。私の家に、数名の大人たちが訪ねてきた。すべて同じ集落の住人で、その中には公民館長さんもいた。玄関先で応対した父に、私は呼ばれた。

「おまえ、化け物の絵を書いて、あちこちに置いたままにしたか?」

 父に訊ねられて私はハッとした。私は大きく頷き、玄関に立っている大人たちに「はい」と返事をした。

「子供会で使ったんだろ? あれか、肝試しか?」

 重ねて父に訊かれ、私はもう一度「はい」と言って頷いた。よく見ると、玄関の外には亜季子と康介の顔が見えた。いったい何が起こったのか。私の頭は混乱した。

 周囲の張り詰めていた空気が、急に緩みだしたのを感じた。

「やっぱりね。私らも、最初からそういうことだと思っていた。何も大袈裟にする話じゃない」

 公民館長さんが明るい声で半分は父に、半分は私にそう言った。大人たちの間にも、笑いが起こった。

「君の絵が上手なものだから。生木にピンだか釘だかで貼ってあるのを見ればね、怖がって、おかしなことを言い触らす人もいるから」

 公民館長さんは穏やかな口調でそう言い、父に挨拶をしてから、一同帰っていった。次の常会で説明して、それで終わり、ということらしい。私は混乱したままだった。

 いったいどういうことなのか。私は表にいた亜季子と康介の元に駆け寄った。二人は心配して、村はずれにある私の家まで来てくれたのだった。二人の話によると、墓地の近くの杉の木や、作兵衛さんの井戸、ポンプ小屋のそばに絵があることは、眠り流しの次の日から集落内で噂になっていたらしい。誰が書いたものなのかわからないし、恐ろしく気味が悪い、と一部の人々の間で話題に上っていたようだ。同じ頃、工事現場に向かう作業員も、杉の木に貼ってある絵を見て、非常に気にしていることを周囲の人間に漏らしていたという。折しも雨が降り、井戸とポンプ小屋の絵は絵の具が流れて滲み、早々に処分されたが、杉の木に貼った絵だけは、雨が当たらず、しばらくの間、貼られたまま残っていたという。そして今回の事故が起きた。その不幸な事故と化け物の絵を関連づけて、誰かが呪いをかけただの、墓地のそばの山を荒らしたから先祖の霊が祟っただのと触れ回る者が現れて、このような事態になったのだという。

 私は驚愕した。そして、自分は何という失態を犯してしまったのかと猛省した。あのお化けの絵が、こちらの意図にない恐怖を撒き散らしていたなんて、思いもしなかったからだ。恐怖が人間の根源的な感情であることは、大人になった今であればわかる。恐怖に囚われると、人は理性を失い、常識の外に真実を見ようとする。それが呪いだといえば呪いに、それが祟りだといえば、悲劇的な結末の原因は、すべて祟りのせいにすることで収まる。私が肝試しの前に語った即興の怪談のような空想が、現実まで飲み込むようなことがあってはならないのに、不気味な絵を見て恐怖を呼び覚まされた人の心には、簡単におかしな物語が巣くうことになるのだ。私はこのとき、子供ながらに怖いと思った。人の心は怖いと。

「それでね、康介からも聞いたんだけど……」

 亜季子が不安そうな声で言った。

「康介はあの絵を、杉の木の枝に紐で結んで、吊しただけなんだって。直接ピンや釘で、木に刺したりはしてないんだって」

 亜季子が康介を見詰めながらそう説明した。康介も激しく縦に頷いている。私は康介の顔を見ながら言った。

「ああ、知ってる。康介がピンも釘も持っていないことは、俺が一番よくわかってる」
「じゃあ、誰なの? 誰が木に刺したの?」

 亜季子が訊ね、康介も同じような目で見詰めてくる。私は生暖かい風に吹かれたような、何とも言えない気持ちになった。

「わからない。わからないけど、もうこの話には触れない方がいいような気がする。俺たちが刺したわけじゃないんだから。それは間違いないんだから」

 私は、自分の心に言い聞かせるようにそう言った。

(了)


四百字詰原稿用紙27枚(7886字)


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