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わりとマッチョ?な『アランの幸福論』

たぶん6月はあまり調子のよい月ではない。長いこと低空飛行をしている。
津村記久子さんのエッセイを紹介したとき、「アランの幸福論を感じる」とのコメントをもらう。ほう、と思い、本棚を探る。

アランの幸福論。初めて触れたのは高校生のときだったと思う。快活に笑ってギターのうまい友人のY子がなにかで彼の言葉を引用していた。「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」と。たしかにそうだ、と彼女の笑い声を思いだす。


だいぶ日焼けした、抜粋版をひらく。幸福論って、綿あめみたいな、ふわふわ甘々で優しいもんって思ってたんだけど、ぜんぜんそうじゃないのね。

書いてあるね、幸せは意志である、と。

幸せをつくりだす 1
 忘れてはいけない。生活が物質面で文字どおり確実に保証されたとしても、幸せはやはり、自分ですべてつくりだしていかねばならない、ということを。
 自分自身のなかになんの富ももっていない人は、待ち構えている退屈に、やがてつけ入られてしまうのである。(41 期待)

楽しませてもらうのを待つのではなく、アグレッシブに楽しみにいくこと。どの言葉を聞いても、自分の感情は自分で決められるのだ、という積極性に満ちている。

で、まあその幸せをつくりだすための方法も具体的に書いてあるね。

身体を動かして、気持ちを変える
 心にとめておくといい。人は意志のようなもので気持ちを隠すが、体操選手のように、身体を動かすことで気持ちを変えるよう意志をはたらかせればいいのだ。
 不機嫌、悲しみ、退屈は雨風のように避けられないものであるという考えは、一見正しく思えるが、実際は間違っている。(36 私生活について)

は、はい… ランニングしてるときに鬱々としていられないように、身体を動かせばよいのですよね…(ぐずぐずと背中を丸める)

なんだろう、「人はだれでも幸せになれる」というけれど、それは楽ちんな道がありますよ〜ってことじゃなくて、幸せにならないのはおのれの責任ですよってことを喉元につきつけられてる感じがする。マッチョだな。

そしてすっごく西洋的な考え方な気がするのだけど、どうだろう。感情という自然を、人間の意志の力でコントロールするのだ、みたいな。日本人でこういう考え方を唱えた人はいるのかしら。禅?禅僧??

うめざわ
*ご多分に漏れず100分de名著を見る。「礼儀正しさとは、ダンスのようなもの」という考え方はなるほど、と思う。ルールにしばられて自分も相手もぎこちなくなるのでは本末転倒で、自分も相手も楽しめるようにしなやかであるべきだというあたり。
この話が面白いのは、人付き合いにあっても、相手に対する「気持ち」があればそれでいいんだ、ってことじゃなくて、「技術」も必要だよねって言ってるところ。




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