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鉛筆のぬらぬら・さらさらの人生『うとそうそう』

なんの前情報も入れず、本屋でほんとうに一目惚れした本は、いつまで経っても忘れない。そのうちの1冊。いまは亡き、京都河原町マルイのフタバ書店で出会った。


「うとそうそう」
タイトルがへんだな、と思って手にとった。開いてみたら、やわらかい鉛筆の一本線で描かれたシンプルなまんが。

とにかく鉛筆がやわらかそうだったんだ。線を見ただけで、図工の時間に使ったザラザラの紙に、ぬらぬらする鉛筆をすべらせた手ざわりを思い出す。それでそのまま買ってしまった。

収められているのも、1編4ページほどの掌編たち。しかもどれも、切なくてキュッとなる。
たとえば。息子が都会で嫁をもらったという父親。自分の代で米屋は終わりだ、とのト書き。雨のなか歩いていると思い出す。むかし、親に内緒の大冒険を決意して、握り飯こさえて、海に向かったことを。海に着くまで引き返さない。そう決意したはずなのに、3時間足らずであえなく海に着いてしまって、その場でふて寝。
かっぱを来て、雨に打たれる男の内心のセリフ。

でもあんときの握り飯はうまかった。
雨に洗い流されたもやもやは、
排水溝を流れ
やがて海へ出る

排水口のカットのあと、白紙のコマにこの言葉だけが並ぶ。

海は思っているよりも
ずっと
近くにある
忘れてはならない

深読みしようと思えばいくらでもできよう。けれど、それはきっと野暮だ。

なんだか、この15の掌編たちは、どれも「これが人生さ」とでもいうべき軽い諦めと、でもそれを愛おしむ大人のまなざしがあるようで。

うとそうそう。烏と兎、らしい。太陽には烏が、月には兎が住んでいるとの伝説から、太陽=金烏(きんう)、月=玉兎(ぎょくと)と読んだそうな。そこから烏兎は、太陽と月、転じて月日を指すことになったと。それに「忽忽」、つまり慌てて急ぐの意味だという。

この絵、見てもらったらわかるのだけど、ぜんぶ1本の線なんです。ふつうのデッサンみたいに鉛筆ヨコにしてシャッシャッて重ねたものじゃない。ぐいっぐいって1本ずつ引かれた線。その潔さ。これがなんだかねえ…ひとつの可能性しかありえない人生っぽい、と思うのは考えすぎかしら。

なんとなく、なんとなくだけど、ラ・ラ・ランドっぽいセピア色のノスタルジーを感じる。ありえたかもしれない人生を思いつつ、でもこれしかなかった人生に思いを致す。すこし涼しい風が吹く夜、ひとり寝床で読みたい1冊。

うめざわ
*著者の森泉岳土さんは、つい先日亡くなった、大林宣彦監督の義理の息子さんにあたるよう。解説は大林監督。
帯より「森泉岳土の才能がこの世に在る事に、僕は目が眩む」

*いま、河原町の本屋さん、ほんとうになくなってしまいましたね…フタバ書店もBook1stもジュンク堂まで。


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