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「一所懸命」

「一所懸命」


 私が三歳の時に祖母の背中におんぶされていた時、私は面白がってゆさぶった。ふらつく祖母を見て私はさらに揺さぶった。祖母は私を背負ったまま、前のめりで倒れた。その時に祖母の鼻が潰れた。倒れる時も私をしっかりと掴まえていたのである。

 顔中血だらけの祖母はそれでも私を心配して「何ともなかか?」と、何度も聞いた。私が悪かったのだが、祖母は倒れたのは自分の年のせいだと人には言った。

 私はそれから二度と祖母の背中を揺らさなくなった。(自叙伝より抜粋)

   *

私の意志の裡に形成されたものでもこの光景は魂の核、中枢にしみ込んでいる事件である。

 祖母とは血は繋がってはいない。だが、我が孫のように大事に育てられた。

 

 己が身を呈してでも守るという事はその状況にならぬと分からぬ、と殆どの人々は言うであろう。それは確かにそのような極限状態に置かれなければ自分自身が如何なる言動をするかは分かるまい。だが「一寸先は闇」という如く危険は日常のそこかしこに存在する。

 要は想像力の問題でもある。誰でもそのように死やそれに準じる事件、状況には直面した事があるはずである。無論、自分自身がそのような状況に遭遇せずすり抜けたり、等々。自覚せずともである。

 

 現実に即した問題を自分の裡でどれだけありありと想像出来得るか、これに尽きる。

 世のあらゆる事件、現象を対岸の火事の如く看做すとは想像力の欠如にすぎない。

 ただ昨今は個人の自由という相対的世界観が蔓延しているゆえ空想妄想という想像力は強くなっている。

人生はゲームであるとよく言われる。だがそのゲームに現実の生き死にが生じれば事はそう単純ではない。不安は昂じれば恐怖と化して人間としての理性は無くなるであろう。それがどのようになるかは個々人の死生観の日常化の度合いによる。

題名の「一所懸命」は自分の足場、持ち場、守るべきものを命懸けで守るという事である。此処に於いて自分自身が日々如何に生きているかが問われる。無論、これは各自の内的倫理に属するので他者との比較などない。

我々は自分自身に天性のものとして具わっている想像する能力を練磨する必要がある。

是を怠ると日常に溢れている暗澹悲惨なる事件の当事者になる可能性大となる。

何やら説教じみた物言いであるが自分自身と他者、世界、さらには宇宙とは不可分的要素で連動しているのである。

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