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「表現行為に関して」

「表現行為に関して」2005年06月12日


>表現行為を限定し、個々人の世界観に留まる限りはこの現実からの『批判』には耐える事は出来ないであろう。
壊れるものは壊れる。壊れぬものは壊れぬ。

前回の日記に書き込んだ内容から。

われわれは何も芸術表現に限らず広義の意味では『表現』という行為を誰もが行っている。

この表現という行為の根拠を厳密に考察すると生存の根拠まで至る。
また此処まで至らぬものは真の芸術などとは云わない。
自称芸術家と称する表現者によって歪曲された得手勝手な解釈によって『芸術』という概念自体が浅薄になった。

私見を敢えて云わせて貰えれば、今日の芸術・アートという物言いに対しては不快というも頗る不快なほどである。

私は今日の意味では芸術家ではない。
単なる一表現者であり、単なる何処でも居る一個人にすぎぬ。
更に云えば、まだ人間一個人としても未完成極まりない。
やっとスタート地点に着いたばかりである。

現代美術などという命名にも興味は無い。
ただ、各時代の表現があるにすぎぬ。

それと表現の限界云々に関しても、当人がおのれの限界を語っているにすぎない。

それぞれの意識の諸段階は確かにある。その諸段階における諸見解も在る。ただそれだけだ。

他者との能力、比較等々に於いて優劣を競うほど暗愚な事は無い。さらには自分自身の一見解に於いての世界解釈を土台とした頑迷な表現者達、それに準ずる存在達。
その混乱混迷の度合いに準じて論理武装も強固である。

確かに表現者の矜持・プライドは強い。さらには自らを非凡と称する人物ならば境界などあろうはずも無い。
もしあるとすればそれは錯覚である。当人がそれを認めたくない、というにすぎぬ。
一切の看板を降ろすであろう。その自覚も無いものだけが喧しい。

全てを素材と見做してこそ真の表現者足り得る。
此処まで来れば自ずと生存の意味、意義も見出すであろう。
それが見出せぬとすればまだ偏見に満ちた一個人、一個性にすぐぬ。この自覚が自らに見出せぬものは自分の未熟さを環境状況のせいにする。

壊れてしまうものは高が知れている。壊しても壊しても壊れぬものだけが残るのである。
それが何であるか解らぬ内は、ただひたすら謙虚になるしかない。だが、これはどうしても認めたくない事実なのである。
個人を支える足場が消失するという恐怖がその根拠である。

自らが拠って立つ根拠、土台の消滅に耐えられぬ者はあらゆる仮定の足場を形成する。

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