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「手紙」


二人で交わされたこの「手紙」の内容は似て非なる意識状態である。
余程の洞察力がなければ二人の遣り取りは同じように思えるであろう。

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「手紙」(1)

 おれから手紙が来るなど思いもしなかっただろう。かく言うおれも君に手紙を書こうなどとは思った事も無い。会おうと思えばいつでも会って話が出来るというのに。又、会ったからといって特にあれこれ理屈をこねるつもりもない。おれの性格はかなりひねくれていて自分の言動すら場当り的なもので、他人がどう感じようと考えようと知った事ではない。
 おれから見れば君も相当のひねくれ者と映るのだが、他者からは大変ちがって見えるらしい。言わば人間の眼玉の数ほど視点があるのだろう。もちろんそんなもの何てことはない。
 ひねくれ者とおれが言ったところで君は何とも思わぬだろう。おれは最も辛辣な皮肉を好む。やたらお利口さんや悟りきったような連中ばかりで、無論、逆も然りだが、つい突っつきたくなる。最も大抵は突くほどの事もないんだが。水たまりで遊んでいる連中など相手をしてもすぐ飽きる。
 昨日も気まぐれ気分で何となく公園でぶらぶら歩いていると、たまたま君に良く似た男を見かけた。無論、顔だけだ。それで君と最初に会った時の印象が妙に生々しく現れ、公園の光景が消えてしまった。これはおれにとってちょっと癪だった。おれは精神に無断で出入りする事はおれの認めた事に限る。言わば君はおれのなかに不法侵入した訳だ。無論、君にしてみれば言いがかりにすぎぬ。

 これが君に手紙を出す原因と言えばそうだが、どうも怪しい限りだ。「自
覚し得ぬ限りにおいて偶然に過ぎない」と、君が誰かに言っていたが、おれも、事おれ自身については鉄則になっている。これに反論する連中は馬鹿だとおれは思っている。無論、おれ自身にも然りだ。
 相対性という解毒剤の使用法はお手のものだ。あの若造が言った「東洋とはエデンの園だ」という意味で。最もやっこさんは香りを少し吸い込んだだけで素材として取り込んだにすぎない。双方から見れば両方ともアヘンに似ているだろう。要するに自己の心情を律する事が出来なかったにすぎぬ。かといってその根拠を知る事なく論じている連中は多い。そんな連中はおちょくってしまうに限るか、無視するだけだ。関係のからくりの断片にすぎぬ。両性具有のヒントを少し知ったにすぎぬ。君の彼に対する弁護もおれの言った事を踏まえているはずだ。他の同類も。眼を見ればすぐ分かる。何たって心の窓と言う位だからね。陸沈、魂の遠近法、創造的人間関係、云々。君の言葉の内容はそれらを土台として語られている。ぷんぷん匂うよ。おれはどちらかといえば匂いに敏感だから無味無臭が好ましい。さて、少しは間をつめたかな。

 言葉がやっかいなのは単に相対的かつ自己保存的作業にそれぞれが忙がしいからだ。それ以上でも以下でも無い。さらに言えば技術の問題にすぎぬ。この地点に足を取られている連中だけが喧ましく混乱雑多で忙がしい。変化はするが変容が無い。曰く沈黙は金なりの所以である。おれはひねているからただ沈黙などしない。かといって君の方法は用いない。無論、否定もしない。自明の事か、語るに落ちたと言いたいが、どっこいそうはいかぬ。
 君の方法とはつまり君の生き方だ。君がどう思おうが、他者から見ればどうしても一種のヒロイズムに酔って生きているとしか映らない。その見方に準じて他者は様々な命名をする。おれが君と最初に会った時に言ったセリフ「君はややこしい方法を選んだね」と。考えた末だと君は複雑だが強い眼でおれを見据えて言った。幸いその場に他人がいたのでおれは「おれの好きに生きるよ」と言った。あれがすべてを含んでいた。今もだ。無視する事やその場を演じる事はおれの特技でもある。いいかげんで悪党に見られた方が気楽なのは言うまでもない。好んでややこしい関係を作るなどおれの流儀に反する。
 おれはプロメテウスの役は興味がない。君はどうあがいてもそのような役者に見られるのだ。ソクラテスの方法を今日に用いても事はよりやっかいの度を増す。何もかも承知だと君は分かってやるにしても、他者からすれば恐喝に等しい。又、分かっての言動はよりたちが悪い。最も見せ物としては面白いが。
 誰も同じ舞台には立つ事はあるまい。「結果は問わぬ」といくら君が言っても無理である。問わぬと言いつつ問いつめているのだ。君がどう思われ、言われているか説明不用と思う。君は「成し得る事を成す」と言う。他者は「得るものだけを得る」のだ。それ以上は不快なだけだ。おれが知っているだけでも数えきれない。それは今後も変わるまい。又、おれの立場に立つ事も出来まい。

 君と語ると多少の理屈はやむを得ぬ。おれも考えた末に今のおれを作った。君と同じく不動のものとなった。透明な闇を通過した者として、我がものとしたでもよいが、二人共見える姿こそ異なれど同類なのだ。それでも似て非なる事は事実だ。又、孤独、徒労、虚無、等々、それに類した概念とは全く無縁でもある。此の間の事情はそこいらのへなちょこ共には分か
るまい。

 お互い戦っている相手は人間共ではない。あえて言うまでもないと思ったが、一度言っておけば後が楽だ。時空のあずかり知らぬ所での密約って訳だ。

 成りゆきまかせののどかな連中は無視しよう。したり顔の連中も然り、さてこれ以上、おれは君に語る事はない。お互いの役にもどろう。思えば気の遠くなるほど長い戦いだ。ひそやかにしたたかに生きようではないか。

         
            
           ――返信――(2)

 君からの手紙、確かに受け取った。返事が遅れたのをまず謝る。

 君に対しては前置きは不用と思う。君が言う「似て非なる」という言葉はシャレにしか聞こえないし、同類という言い方は何も私に対してだけに言うべきではない。さらに言えば透明な闇を通過した云々とは私の視点から言わせてもらえば、君はまだ不十分であり、通過したなどと断じる意識には至ってはいない。自分自身を写した鏡に私を重ねているにすぎぬ。心情の相対化において不徹底なのである。ゆえに感覚界にまで至っていない。君が私の言う事を気に入ろうが、入るまいが事実なのだ。自明の事は自明の事として受け取る態度は最も基本の在りようだが、その基本とする事実を君は人類の在りようの固定的なパターンと認識している。君の直観は心情の核を知覚はしても、その核自体に呪縛されている。心情を律することが出来ないのは君自身なのだ。他者からどのように見られようと、どうでもよいことである。君はまだ言葉の空間のなかで引かなくてもよい境界を引いている。他者との魂と融合する事に恐怖をもっている。君が体感し、知ったと思ったのはまだ他者の一部の意識状態の段階でしかない。言わば君の自我自体の実体が重なった心情的内的体験でしかない。

 個人の魂が自己自身を最も見失う地点であり、苦痛を味わう意識でもある。君もその内的体験を味わい今の君の立場を形成した。君は思考に関しては相対的思考を獲得した。その時君は世界の秘密を知ったと確信したはずだ。世に存する芸術と呼ばれているものや、文学、心理学、哲学、宗教等の実体なるものを。君にとって心眼、千里眼なるものは日常の意識となった。君は表現と生活そのものは一体と認識した。歴史上の人物も君にとっては隣人と化した。宗教の創始者や、それに準じる精神や魂と同化し、追体験した時に君はその名状しがたい苦痛と至福を同時に味わった。無論、日常生活のなかでその体験を伴ないつつ普通に生活するのは言語に絶する状態である。一般的には理解されがたいのは語るまでもない。その体験のレベルに準じて創作がなされる。
 いや、表現と変えた方がより広義の意味で使いやすい。君は一切を相対化する事により精神のバランスを保った。いかなる生き方も存在も方法もすべて一素材、表現にすぎぬと。君が使用した透明な闇の意識だ。個と全体は精神的有機体であると。その関係の自覚の度合に準じて君は対応を決定する。その意味では私の方法と、同じと言ってもよい。だが、その方法はすべての人々も用いている。その内容を快か不快と思うかはそれこそ自覚に準ずる。相対的に見れば君もその土俵のなかで他の人々と同じくじたばたしているのだ。私との密約云々などと君が想うのは勝手だが。私には興味ない。私は君に対して君があえて無視する人々と等しく対応する。私にとって君の快、不快など単なる個的色相にすぎない。
 私は君に君自身を直視してほしいと思うだけだ。私の方法は君が考えているより非常にシンプルなものだ。現象的に複雑、じたばたと見えるのは単に私が未熟であるにすぎぬ。戦っている相手は人間ではないと君は言う。確かにそうだ。それならばなおさら君は君自身の在りようと意識自体を自己に厳しく律することを強いたまえ。君の立場と方法とは今日の一般的知識人の在りようの変形にすぎぬ。私が君にあれこれ言っても意味はない。君自らが歩み、消化すべきものだからだ。君が望まぬ限り私は君の相手はしない。これは私の君に対する礼儀である。
 何事も消化するのに時間がかかるのは当然である。私に対し変化球は無用である。君が真の対話を望むなら、無論、私の限らない事だが、君のさらなる探求を願っている。
 君は私の物言いに対してかなりの不快を感ずるだろう。君も知っているように誰でも自分自身が得たものを何より大事にするからだ。私とて例外ではない。
 又、高所から語られるような意見は君にとって怒りすら覚えるだろう。この手紙を受け取り読んでいる時の君の姿が私には眼前にありありと見える。

 君が望むなら私は直に君と会って話をしたいと思っている。言語化されぬ対話が主となる事は君も知っていると思う。君に対して私は明言し、断定した。私に皮肉は通用しない。君が前回の様な対応を保持したければ私は君を無視する。挑発と受け取ってかまわない。君の矜持は今日に至っては深化の妨げにしか作用しない。

 賽(さい)は投じた。後は君次第である。君からしかけた問いである。
私は君の対応を楽しみに待っている。
     
 

              
            ―  独白 ― (3)

―― 迂闊だった。おれはなぜ奴に手紙などだしたのか。今となっては止むを得ぬが、おれとした事が、迂闊だった。

 さすがのおれも奴があそこまで言いきるとは思いもしなかった。おれとしては共感の意を含んで書いたつもりだった。だが、奴はおれのその意を全く無視した。無視どころかおれをそこいらの連中と一緒くたにしてしまった、奴の使う言葉を引き合いに出した事自体まずかった。奴の言う通り怒りにも似た感情がおれのなかで荒れている。久々といえば、久々である。おれの全存在を否定されたような物言いとおれは受け取った。
 これは無視出来ぬ出来事だ。奴の一撃は確かにおれ自身のバランスを乱した。他者からこれほど貶められた事は無い。まて、まて、おれは冷静にならねばならぬ。

 おれは奴を少し甘く見くびっていたのか、それとも、いや、まて、あせるな、じっくり考えねばならぬ。

                                                  
                                               一九九六年五月十三日

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